恋の記録

藤谷 郁

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「そんなことがあったんですか。引っ越し早々、嫌な思いをされましたねえ」


古池店長は声に同情をにじませた。

苦情について初めて人に話した私は、何ともいえない安堵感を覚える。彼は上司として、真摯に耳を傾けてくれた。


「環境が変わったので、少し神経質になっているのかもしれないね」

「はい。そのせいもあって、他に誰が住んでるのか分からないアパートというのは、ちょっと怖いというか、緊張します」

「一条さんのアパートは戸数が多く、入れ替わりの激しい学生向けだから、なおさらですね。住民同士、わざわざ顔を合わせる機会もないでしょう」

「そうなんです。入居の際も挨拶は必要ないと、不動産屋の担当者に言われました」

「うーん、最近はぶっそうだから防犯上ね。でも今の時代、近所付き合いゼロというのは珍しくないし、そのほうが気楽でいいって人もいるよ」

「確かに、気楽ではありますね。その反面、今回のようなことがあると一気に隣人が不気味に感じられますが」


店長は「分かる分かる」といったふうに頷いた。


「それで、現在は苦情もなく平和なんですね」

「あれ以来、何もありません。でもやっぱり怖いですよ。隣人への疑いが晴れたわけじゃないので」

「ふうん」


不安がる私を見て、なぜか店長は笑った。


「一条さん、そのコワモテの隣人を、えらく怖がってますね。そんなにやばい人なんですか?」

「えっ?」

「さっき、電車の中で睨まれたと言いましたね。接触はその時だけかな。コワモテさんと話したことは?」


立て続けの質問に、私は戸惑う。なぜそんなことを訊くのだろう。


「やばいというか……第一印象が最悪だったから。話したことなんて、もちろんありません」

「しかし、コワモテさんが苦情の紙をポストに入れたという、確たる証拠はない。犯人扱いするのは早計かもしれないねえ」

「?」


どういう意味が分からず、黙って店長を見つめた。


「ねえ、一条さん。お客様の中に、印象と実際が違う方がいらっしゃいますよね。穏やかに見えてヒステリックだったり、柄が悪そうなのに紳士だったり。コワモテさんも案外、話せば優しい人かもしれませんよ」

「ええっ?」


あの男が優しい? 私はぶんぶんと手を振る。


「まさか。確かにそういったお客様もいるけど、コワモテ男は違います。すごい目で睨まれて、すっごく怖かったんです」

「女性が苦手なのかもしれない。いかつい男性にはありがちなことだ」

「はあ」

「あるいは、一条さんが好みのタイプだから、つい過剰反応したとか」


突拍子もない店長の仮説に、思わず顔をしかめた。


「やめてくださいよ。あんな男、冗談じゃない」

「あっははは。えらく嫌ったもんですね」


店長は笑い、でもすぐに真顔になる。


「親父のアパートでも、いろんなトラブルがあります。そんな時、住人の間に入って、話を聞いて、解決に導くのが大家の仕事です。一条さんのアパートの場合、管理会社ですね。どうしても不安なら、一人で抱え込まず相談してください。そうでないと猜疑心が増すばかり。もしコワモテさんが苦情主でなかったら、神経の無駄遣いだよ」


あの男が優しい説はあり得ないが、店長の話は参考になる。

確かに私は、コワモテ男を怖がり過ぎのようだ。


「私も、苦情が続くなら管理会社に連絡するつもりでした。やっぱりそれが一番ですよね」


大家の息子である店長のアドバイスは、説得力がある。管理会社の存在が、より頼もしく感じられてきた。

そして、思い込みは神経の無駄遣いだと理解する。


「リラックスですよ、一条さん。あなたは少し真面目すぎる。仕事のほうも、苦手意識を持たず、相手に歩み寄り、上手くやってください」


土屋さんのことだ。彼女に対する私の感情を、店長は分かっている。


「そうですね。人のことを勝手にイメージして、苦手意識を持たないようにします」

「ええ、お願いします。何か困ったことがあれば、いつでも私に相談してください」


店長はにこりと笑い、両腕を伸ばして私の手を握った。反射的に手を引っ込めようとするが、強く握られてどうすることもできない。

彼の手のひらは、さっきより汗ばんでいた。


「あ、あの……」

「ああ、これは失礼!」


店長はぱっと手を離し、焦った様子になる。顔が真っ赤だ。


「すみません。スキンシップは私の悪い癖で……気持ちをしっかり伝えたい時、つい手が出てしまうんだ」

「そ、そうなんですか」


かなり恥ずかしそうにしている。

汗ばんだ手で触れられて、私は一瞬、不快に思ってしまった。こんなに恐縮されては、かえって申しわけなくなる。

部下の面倒見が良いと評判で、しかも愛妻家の店長に他意のあるはずがないのに。


「そろそろ戻りましょうか」

「あ、はい」


あと五分で休憩時間が終わる。ちょっと気まずそうな店長と一緒に席を立ち、休憩室を出た。




「あれっ?」


スーツ姿の男性が、廊下の先を歩いて行く。あの後ろ姿には見覚えがあった。


水樹さん――?


男性が角を曲がったため、見えなくなる。私は思わず追いかけていた。


「あっ」


角を曲がったところにエレベーターがあり、扉が閉まったところだ。階数表示がカウントを始める。


「どうしたの、一条さん。誰か知り合いでもいたんですか」


あとから来た店長が呼び出しボタンを押しながら、私に問いかける。

階数表示が『3』で止まり、すぐに下りてくるのを見て私は首を横に振った。水樹さんの職場は六階である。


「いえ、人違いでした」

「……そうですか」


がっかりする私に店長は何か言いたげだったが、黙ってエレベーターに乗り込み、職場に戻った。

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