恋の記録

藤谷 郁

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雨の夜

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数あるアパートの中で、なぜよりによって私と同じメゾン城田なのか。望まぬ巡り合わせに、ため息しか出ない。


「ああもう、いやになっちゃう……」


不運を嘆く私に追い打ちをかけるように、ますます雨が降ってくる。

こんなところに突っ立っていても仕方ない。傘を深く持ち直し、重い足取りでアパートへと進んだ。

ドアのないエントランスに、雨が大量に降り込んでいた。タイルの上を滑らないよう慎重に歩き、雨がかからないところまで入ってから傘を閉じる。


「ひどい天気。昨日と今日では大違いね」


エレベーターの手前に集合ポストがある。507の箱を覗くと、チラシが何枚か入っていたが、今はひどく面倒な気分なので、回収しないでおく。


「チラシお断りって、張り紙しておこうかしら……」


ブツブツ言いながらエレベーターの前に立ち、ボタンを押そうとした。


「……」


私は息を呑み、再び立ちすくむ。

縦に並ぶ階数表示の『5』のランプが点いている。ということは、先ほどのコワモテ男が五階で降りたということ。

信じられない。こんなことってあるだろうか。あんな人相の悪い人が同じアパートで、しかも同じ階の住人だなんて。

電車での遭遇と言い、一体、私とあの男にどんな縁があるっていうの?


「運命的な出会いは、水樹さんだけにしてほしい」


ボタンをカチカチと押し、ゆっくり下降してくるランプを恨めしく見やった。



エレベーターが五階に着くと、私は辺りの様子を窺ってから、そそくさと自分の部屋の前に移動した。急いで鍵を開けて、ドアの中に飛び込む。


「はああ……疲れる」


コワモテ男が同じ階にいるかと思うと、必要以上に用心深くなる。

その上、もしも部屋が隣だとしたら――

部屋に戻る時、それを確かめるつもりだった。今夜は雨なので靴底が濡れている。エレベーターから男の部屋まで、足跡がつくと思ったからだ。

しかし、激しい雨が外廊下の奥まで降りこみ、足跡は消えていた。そのためコワモテ男がどの部屋に住んでいるのか、分からずじまいである。


「どちらにしろ、憂鬱だわ。このアパートに住む以上、たびたび顔を合わせなきゃならない」


例えば、エレベーターで乗り合わせることもあるだろう。あんなのと狭い籠に入るくらいなら、階段を使ったほうがましだ。



雨の夜は人を孤独に、そして神経質にさせるらしい。頭の中は、ネガティブ思考でいっぱいだった。

山賀さんの話。隣人トラブルによる殺人事件。ドアを閉めて施錠する音。そして、コワモテ男――

いろんな要素が繋がり、自分の身に何か起きるのではないかと、あらぬ恐怖に苛まれる。


「疲れた。もう寝る準備しよ……」


夕食は職場で済ませてきたので、お腹は空いていない。

風呂に入ったあと、熱いコーヒーを淹れた。お気に入りのマグカップから、湯気がゆらゆらと立ち上るのを、ぼんやりと見つめる。


(また引っ越そうかしら)


ふと考えて、すぐに首を横に振る。こんなことでいちいち引っ越すのは、さすがにどうかと思う。引っ越しにかかる費用もばかにならない。


(コワモテ男に何かされたわけじゃなし。ただ、電車の中で睨まれただけで……)


まあ、それが引っかかっているのだけど。

とにかく無駄な出費は極力避けたい。このアパートだって、あちこち見た末に選んだ物件なのだから。

メゾン城田は、他の物件に比べて管理会社がきちんとした印象だった。契約書の内容も、借り主の住環境に関して、細かなところまで言及されている。

だから、多少古くてもここに住むと決めたのだ。

管理会社の存在を思い出し、少し安堵する。トラブルが起きたら専門家に任せればいい。すぐに対応してくれるだろう。


「なんとかなるさー。ああ、眠くなってきちゃった」


カップを片付けようとして椅子を立つ。


「あっ……」


気が楽になったとたん力が抜けたのか、カップを取り落とした。


「わああ……お気に入りのカップが」


大学時代から愛用する水色のカップが、真っ二つに割れた。フローリングの上で、大きな音を立てて。


「ああ、もう……最悪」


寝る間際になって仕事を作る自分に腹が立つ。

それに、せっかく気を取り直そうとしたとたん大切なものが割れてしまうという、縁起でもない出来事にイライラした。


割れたカップを片付けてから、ようやくベッドに入る。目を閉じると、耳に意識がいくのか、雨の音が際立って聞こえた。

外はどしゃ降りのようだ。


「降りやまない雨はないって言うでしょ……きっと明日は晴れる。大丈夫、おやすみなさい」


独りごとをつぶやき、眠ることに集中する。

睡眠に入る刹那、水樹さんの穏やかな笑顔が浮かんだ。


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