恋の記録

藤谷 郁

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雨の夜

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「ああ、疲れた……」


ようやく初日が終わった。仕事内容は本店と変わらないが、副店長という立場になると、関わる棚とスタッフの数が多く、そのぶん神経を使う。

体力より、精神消耗が激しくなりそうだ。


「慣れですよ、慣れ。一条さんならすぐに活躍できますよ」


店長はにこやかに笑いながら、四月のシフト表を私に手渡す。大らかな口調と励ましは、疲れた心身に慈雨のようにしみた。


「今週はフルでお願いしますが、来週から平常のシフトに入ってもらいます。特別な用事がある場合は、遠慮なく申し出てください。調整しますのでね」

「ありがとうございます」


やっぱり、今週は忙しい。水樹さんとの食事は、来週以降になりそうだ。


(仕事の様子を見て、落ち着いてから連絡しよう。水樹さんの予定も聞かないとね)


気持ちは逸るけど、慎重にいかなくちゃ。

シフト表をバッグにしまい、帰り支度をした。スタッフは皆帰宅し、事務所に残っているのは店長と私のみ。


「最後の人は戸締りをして、鍵をビルの守衛室に預けます。今日は私と一緒に行きましょう」

「お願いします」



店長と並んで通用口から出ると、雨音が聞こえた。空気が少しひんやりしている。


「お疲れ様。時間が遅いから、気を付けて帰ってね」

「はい。失礼します」


店長は車通勤なので、地下駐車場へと下りていく。

私は一人になり、駅の改札へと向かった。職場が駅ビルなので、傘を差さずにホームまで行けるのはありがたい。と、そこで私は、大事なことを思い出す。


「そうだ。今朝、傘を電車内に置き忘れたんだ」 


雨はまだやみそうにない。最寄駅からアパートに帰るには、傘が必要だ。

駅に問い合わせてみなよ――という水樹さんの言葉を思い出した。

早速駅員に尋ねてみると、本町駅には忘れ物預かり所があるので、窓口に行くよう案内された。



駅の事務所内にある窓口は、閉まる間際だった。私の問い合わせに、カウンターに座る係員がすぐに対応する。


「どんな傘ですか?」

「ピンク地に黒のストライプが入った、柄の細い傘です。買ったばかりだから、まだ新しくて……あ、『snowbook』っていうブランド名がバンドに刺繍してあります」


係員がシステムで調べると、本町駅で保管されていることがわかった。所定の手続きを経て、無事傘を受け取ることができた。


「良かったー。水樹さん、ありがとう」


傘を握りしめ、彼のアドバイスに心から感謝する。大げさかもしれないが、私のことを何度も助けてくれる水樹さんに、感謝でいっぱいなのだ。

スキップするように、コンコースを進んだ。



(そういえば、帰りは水樹さんに会わなかったな)


休憩時間も会えなかった。同じビルで働いていても、結構すれ違うものなのだ。今朝はラッキーだったのかもしれない。


「ていうか、しばらく長時間勤務だものね。平常のシフトになれば、会う確率は上がるかも……」


何となく、ビルの方向へ顔を向けた。


「……ん?」


水樹さんと似た背格好の人が、こちらに歩いてくる――

と、そんな気がしたのだが、乗降客に紛れて、すぐに見失ってしまった。 


「見間違い、か……」


会いたい会いたいと思うあまりに、幻を見たのだ。自覚するよりも、私は彼に夢中のようである。

一人赤面しながら、改札へと急いだ。



発車ぎりぎりのタイミングで、最後尾の車両に乗り込んだ。

遅い時間のためか、電車は朝より空いている。とはいえ、本町駅から乗り込む人は多く、空席は少ない。私はドアのところに立ち、今度は傘を手で持つようにした。


緑大学前駅で降りる人はまばらだった。

駅舎を出て、傘を開いて歩き出す。同じ方向に進む人がわりといることに気付き、少しホッとする。

駅前から伸びる通りは外灯が明るく、途中で折れる道も住宅街の中なので、帰りが遅くても安全だと思う。だけど、山賀さんから聞いた話が、頭の隅に残っていた。


(暗がりに近付かなければ大丈夫よね。殺人事件も、別のアパートで起こったことだし、気にする必要ないわ)


私は自分に言い聞かせ、それでも一応、用心しながら道を進んだ。 


アパートが立ち並ぶエリアに入ると、じきにメゾン城田が見えてくる。

私は無意識に足を速めた。

アパートの手前にある小さな公園は薄暗く、昼間と雰囲気が違う。雨に濡れる遊具が、外灯を反射して光る様も不気味に感じられた。


「えっ……?」


歩調を緩め、ぴたりと立ち止まる。

エントランスに人が入っていくのが見えた。


「うそ……でしょ?」


ぼさぼさ頭とジャンパー。あの大柄な姿は見覚えがある。

昨日、電車内で遭遇したコワモテ男だ。車両が揺れて肩をぶつけた私を、じろりと睨んできた。あんな怖そうな人と同じアパートだったら最悪……そう思っていたのに。

メゾン城田の住人だったとは。

ショックと落胆のあまり、私はしばしその場に立ちすくみ、動くことができなかった。

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