15 / 236
雨の夜
6
しおりを挟む
「ああ、疲れた……」
ようやく初日が終わった。仕事内容は本店と変わらないが、副店長という立場になると、関わる棚とスタッフの数が多く、そのぶん神経を使う。
体力より、精神消耗が激しくなりそうだ。
「慣れですよ、慣れ。一条さんならすぐに活躍できますよ」
店長はにこやかに笑いながら、四月のシフト表を私に手渡す。大らかな口調と励ましは、疲れた心身に慈雨のようにしみた。
「今週はフルでお願いしますが、来週から平常のシフトに入ってもらいます。特別な用事がある場合は、遠慮なく申し出てください。調整しますのでね」
「ありがとうございます」
やっぱり、今週は忙しい。水樹さんとの食事は、来週以降になりそうだ。
(仕事の様子を見て、落ち着いてから連絡しよう。水樹さんの予定も聞かないとね)
気持ちは逸るけど、慎重にいかなくちゃ。
シフト表をバッグにしまい、帰り支度をした。スタッフは皆帰宅し、事務所に残っているのは店長と私のみ。
「最後の人は戸締りをして、鍵をビルの守衛室に預けます。今日は私と一緒に行きましょう」
「お願いします」
店長と並んで通用口から出ると、雨音が聞こえた。空気が少しひんやりしている。
「お疲れ様。時間が遅いから、気を付けて帰ってね」
「はい。失礼します」
店長は車通勤なので、地下駐車場へと下りていく。
私は一人になり、駅の改札へと向かった。職場が駅ビルなので、傘を差さずにホームまで行けるのはありがたい。と、そこで私は、大事なことを思い出す。
「そうだ。今朝、傘を電車内に置き忘れたんだ」
雨はまだやみそうにない。最寄駅からアパートに帰るには、傘が必要だ。
駅に問い合わせてみなよ――という水樹さんの言葉を思い出した。
早速駅員に尋ねてみると、本町駅には忘れ物預かり所があるので、窓口に行くよう案内された。
駅の事務所内にある窓口は、閉まる間際だった。私の問い合わせに、カウンターに座る係員がすぐに対応する。
「どんな傘ですか?」
「ピンク地に黒のストライプが入った、柄の細い傘です。買ったばかりだから、まだ新しくて……あ、『snowbook』っていうブランド名がバンドに刺繍してあります」
係員がシステムで調べると、本町駅で保管されていることがわかった。所定の手続きを経て、無事傘を受け取ることができた。
「良かったー。水樹さん、ありがとう」
傘を握りしめ、彼のアドバイスに心から感謝する。大げさかもしれないが、私のことを何度も助けてくれる水樹さんに、感謝でいっぱいなのだ。
スキップするように、コンコースを進んだ。
(そういえば、帰りは水樹さんに会わなかったな)
休憩時間も会えなかった。同じビルで働いていても、結構すれ違うものなのだ。今朝はラッキーだったのかもしれない。
「ていうか、しばらく長時間勤務だものね。平常のシフトになれば、会う確率は上がるかも……」
何となく、ビルの方向へ顔を向けた。
「……ん?」
水樹さんと似た背格好の人が、こちらに歩いてくる――
と、そんな気がしたのだが、乗降客に紛れて、すぐに見失ってしまった。
「見間違い、か……」
会いたい会いたいと思うあまりに、幻を見たのだ。自覚するよりも、私は彼に夢中のようである。
一人赤面しながら、改札へと急いだ。
発車ぎりぎりのタイミングで、最後尾の車両に乗り込んだ。
遅い時間のためか、電車は朝より空いている。とはいえ、本町駅から乗り込む人は多く、空席は少ない。私はドアのところに立ち、今度は傘を手で持つようにした。
緑大学前駅で降りる人はまばらだった。
駅舎を出て、傘を開いて歩き出す。同じ方向に進む人がわりといることに気付き、少しホッとする。
駅前から伸びる通りは外灯が明るく、途中で折れる道も住宅街の中なので、帰りが遅くても安全だと思う。だけど、山賀さんから聞いた話が、頭の隅に残っていた。
(暗がりに近付かなければ大丈夫よね。殺人事件も、別のアパートで起こったことだし、気にする必要ないわ)
私は自分に言い聞かせ、それでも一応、用心しながら道を進んだ。
アパートが立ち並ぶエリアに入ると、じきにメゾン城田が見えてくる。
私は無意識に足を速めた。
アパートの手前にある小さな公園は薄暗く、昼間と雰囲気が違う。雨に濡れる遊具が、外灯を反射して光る様も不気味に感じられた。
「えっ……?」
歩調を緩め、ぴたりと立ち止まる。
エントランスに人が入っていくのが見えた。
「うそ……でしょ?」
ぼさぼさ頭とジャンパー。あの大柄な姿は見覚えがある。
昨日、電車内で遭遇したコワモテ男だ。車両が揺れて肩をぶつけた私を、じろりと睨んできた。あんな怖そうな人と同じアパートだったら最悪……そう思っていたのに。
メゾン城田の住人だったとは。
ショックと落胆のあまり、私はしばしその場に立ちすくみ、動くことができなかった。
ようやく初日が終わった。仕事内容は本店と変わらないが、副店長という立場になると、関わる棚とスタッフの数が多く、そのぶん神経を使う。
体力より、精神消耗が激しくなりそうだ。
「慣れですよ、慣れ。一条さんならすぐに活躍できますよ」
店長はにこやかに笑いながら、四月のシフト表を私に手渡す。大らかな口調と励ましは、疲れた心身に慈雨のようにしみた。
「今週はフルでお願いしますが、来週から平常のシフトに入ってもらいます。特別な用事がある場合は、遠慮なく申し出てください。調整しますのでね」
「ありがとうございます」
やっぱり、今週は忙しい。水樹さんとの食事は、来週以降になりそうだ。
(仕事の様子を見て、落ち着いてから連絡しよう。水樹さんの予定も聞かないとね)
気持ちは逸るけど、慎重にいかなくちゃ。
シフト表をバッグにしまい、帰り支度をした。スタッフは皆帰宅し、事務所に残っているのは店長と私のみ。
「最後の人は戸締りをして、鍵をビルの守衛室に預けます。今日は私と一緒に行きましょう」
「お願いします」
店長と並んで通用口から出ると、雨音が聞こえた。空気が少しひんやりしている。
「お疲れ様。時間が遅いから、気を付けて帰ってね」
「はい。失礼します」
店長は車通勤なので、地下駐車場へと下りていく。
私は一人になり、駅の改札へと向かった。職場が駅ビルなので、傘を差さずにホームまで行けるのはありがたい。と、そこで私は、大事なことを思い出す。
「そうだ。今朝、傘を電車内に置き忘れたんだ」
雨はまだやみそうにない。最寄駅からアパートに帰るには、傘が必要だ。
駅に問い合わせてみなよ――という水樹さんの言葉を思い出した。
早速駅員に尋ねてみると、本町駅には忘れ物預かり所があるので、窓口に行くよう案内された。
駅の事務所内にある窓口は、閉まる間際だった。私の問い合わせに、カウンターに座る係員がすぐに対応する。
「どんな傘ですか?」
「ピンク地に黒のストライプが入った、柄の細い傘です。買ったばかりだから、まだ新しくて……あ、『snowbook』っていうブランド名がバンドに刺繍してあります」
係員がシステムで調べると、本町駅で保管されていることがわかった。所定の手続きを経て、無事傘を受け取ることができた。
「良かったー。水樹さん、ありがとう」
傘を握りしめ、彼のアドバイスに心から感謝する。大げさかもしれないが、私のことを何度も助けてくれる水樹さんに、感謝でいっぱいなのだ。
スキップするように、コンコースを進んだ。
(そういえば、帰りは水樹さんに会わなかったな)
休憩時間も会えなかった。同じビルで働いていても、結構すれ違うものなのだ。今朝はラッキーだったのかもしれない。
「ていうか、しばらく長時間勤務だものね。平常のシフトになれば、会う確率は上がるかも……」
何となく、ビルの方向へ顔を向けた。
「……ん?」
水樹さんと似た背格好の人が、こちらに歩いてくる――
と、そんな気がしたのだが、乗降客に紛れて、すぐに見失ってしまった。
「見間違い、か……」
会いたい会いたいと思うあまりに、幻を見たのだ。自覚するよりも、私は彼に夢中のようである。
一人赤面しながら、改札へと急いだ。
発車ぎりぎりのタイミングで、最後尾の車両に乗り込んだ。
遅い時間のためか、電車は朝より空いている。とはいえ、本町駅から乗り込む人は多く、空席は少ない。私はドアのところに立ち、今度は傘を手で持つようにした。
緑大学前駅で降りる人はまばらだった。
駅舎を出て、傘を開いて歩き出す。同じ方向に進む人がわりといることに気付き、少しホッとする。
駅前から伸びる通りは外灯が明るく、途中で折れる道も住宅街の中なので、帰りが遅くても安全だと思う。だけど、山賀さんから聞いた話が、頭の隅に残っていた。
(暗がりに近付かなければ大丈夫よね。殺人事件も、別のアパートで起こったことだし、気にする必要ないわ)
私は自分に言い聞かせ、それでも一応、用心しながら道を進んだ。
アパートが立ち並ぶエリアに入ると、じきにメゾン城田が見えてくる。
私は無意識に足を速めた。
アパートの手前にある小さな公園は薄暗く、昼間と雰囲気が違う。雨に濡れる遊具が、外灯を反射して光る様も不気味に感じられた。
「えっ……?」
歩調を緩め、ぴたりと立ち止まる。
エントランスに人が入っていくのが見えた。
「うそ……でしょ?」
ぼさぼさ頭とジャンパー。あの大柄な姿は見覚えがある。
昨日、電車内で遭遇したコワモテ男だ。車両が揺れて肩をぶつけた私を、じろりと睨んできた。あんな怖そうな人と同じアパートだったら最悪……そう思っていたのに。
メゾン城田の住人だったとは。
ショックと落胆のあまり、私はしばしその場に立ちすくみ、動くことができなかった。
0
お気に入りに追加
132
あなたにおすすめの小説
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
怪奇事件捜査File1首なしライダー編(科学)
揚惇命
ミステリー
これは、主人公の出雲美和が怪奇課として、都市伝説を基に巻き起こる奇妙な事件に対処する物語である。怪奇課とは、昨今の奇妙な事件に対処するために警察組織が新しく設立した怪奇事件特別捜査課のこと。巻き起こる事件の数々、それらは、果たして、怪異の仕業か?それとも誰かの作為的なものなのか?捜査を元に解決していく物語。
File1首なしライダー編は完結しました。
※アルファポリス様では、科学的解決を展開します。ホラー解決をお読みになりたい方はカクヨム様で展開するので、そちらも合わせてお読み頂けると幸いです。捜査編終了から1週間後に解決編を展開する予定です。
※小説家になろう様・カクヨム様でも掲載しています。
戦憶の中の殺意
ブラックウォーター
ミステリー
かつて戦争があった。モスカレル連邦と、キーロア共和国の国家間戦争。多くの人間が死に、生き残った者たちにも傷を残した
そして6年後。新たな流血が起きようとしている。私立芦川学園ミステリー研究会は、長野にあるロッジで合宿を行う。高森誠と幼なじみの北条七美を含む総勢6人。そこは倉木信宏という、元軍人が経営している。
倉木の戦友であるラバンスキーと山瀬は、6年前の戦争に絡んで訳ありの様子。
二日目の早朝。ラバンスキーと山瀬は射殺体で発見される。一見して撃ち合って死亡したようだが……。
その場にある理由から居合わせた警察官、沖田と速水とともに、誠は真実にたどり着くべく推理を開始する。
彩霞堂
綾瀬 りょう
ミステリー
無くした記憶がたどり着く喫茶店「彩霞堂」。
記憶を無くした一人の少女がたどりつき、店主との会話で消し去りたかった記憶を思い出す。
以前ネットにも出していたことがある作品です。
高校時代に描いて、とても思い入れがあります!!
少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
三部作予定なので、そこまで書ききれるよう、頑張りたいです!!!!
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ファクト ~真実~
華ノ月
ミステリー
主人公、水無月 奏(みなづき かなで)はひょんな事件から警察の特殊捜査官に任命される。
そして、同じ特殊捜査班である、透(とおる)、紅蓮(ぐれん)、槙(しん)、そして、室長の冴子(さえこ)と共に、事件の「真実」を暴き出す。
その事件がなぜ起こったのか?
本当の「悪」は誰なのか?
そして、その事件と別で最終章に繋がるある真実……。
こちらは全部で第七章で構成されています。第七章が最終章となりますので、どうぞ、最後までお読みいただけると嬉しいです!
よろしくお願いいたしますm(__)m
カフェ・シュガーパインの事件簿
山いい奈
ミステリー
大阪長居の住宅街に佇むカフェ・シュガーパイン。
個性豊かな兄姉弟が営むこのカフェには穏やかな時間が流れる。
だが兄姉弟それぞれの持ち前の好奇心やちょっとした特殊能力が、巻き込まれる事件を解決に導くのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる