恋の記録

藤谷 郁

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雨の夜

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翌朝、私はアラームが鳴る前に目を覚ました。

窓を開けると、分厚い雲が空を覆っていた。今にも降りだしそうな、暗い色をしている。


「初出勤なのに、テンション下がるなあ……」


午前六時にセットしたアラームが鳴る。私は窓を閉めて、あくびを一つしてから朝食を作った。



朝食が済むと速攻で家事を片付け、出かける準備をした。

今日は初日なので、早めに出勤する。朝礼の前に店長と、できればチーフにも挨拶しておきたい。


「火のもと確認、戸締りよし。さて、出かけよう」


雨が降りそうなので傘を持って玄関を出た。

外廊下は相変わらず、誰も住んでいないかのように静かだ。

エレベーターのボタンを押して、しばし待つ。


「……」


何となく、後ろを振り返った。

なぜか分からないが、誰かがいるような気がしたのだ。


「……私ったら」


昨日のことが頭に残っているのだ。

ドアを開けて、閉める音。そして、すぐに施錠する音。

やはり私は、神経質になっている。今朝はまた、初めての職場へと向かう緊張感が、そうさせるのだろうか。

廊下には誰もおらず、静かなものだ。

私は前に向き直り、エレベーターにささっと乗り込んだ。


「昨日のことも、気のせいだったりして」


そう思うと、そんな気がしてくる。あれこれ考えながら駅への道を歩いていると、バッグのポケットでスマートフォンが震えた。


「電話……誰だろ?」


反射的に、あの人の顔が浮かんだ。

ドキドキしながら発信者を確かめて、気が抜ける。実家の母親からだ。


『ハルちゃん、おはよう。お母さんよ』

「おはよう……」


考えてみれば、こんな朝早くに電話なんて、あるはずがない。水樹さんも仕事に出かける時間だ。


『何よ、元気ないわね。今日から新しいお店なんでしょ?』

「うん。今、駅に向かってるとこ」


心配性の母のことだ。娘がきちんと出勤できたか、気になって電話したのだろう。

三兄妹の末っ子の私は、家族の中で子ども扱いされている。


『ハルちゃんが副店長になるなんてねえ。あまり出世すると、縁遠くなっちゃうわよ?』


またかと思い、げんなりする。

母は、女の幸せは結婚だと信じて疑わない人だ。私の仕事をあまり評価せず、適当なところで寿退社するのを望んでいる。


『良い人ができたら紹介してね。緑市そっちの人でもいいわよ、同じ関東なんだし。でも、なるべく近くに住んでほしいけど』

「はいはい、分かってます。それで、特に用事はないの? もうすぐ駅だから切るよ」

『ちょっと待ってよ、せっかちな子ねえ。ハルちゃんが心配だから電話したのよ。あなたってほら、抜けたところがあるじゃない』


(まったく、この人は……)


いいかげん子ども扱いはやめてほしい。私はだんだん腹が立ってきた。


「ご心配、ありがとうゴザイマス。とにかく私は大丈夫。電車に乗り遅れるから、もう切るよ。じゃあね!」


強引に通話を終わらせた。

私は早足で駅に入り、発車間際の電車に乗り込んだ。


「ふう、やれやれ……」


通勤時間帯とあって、車内はこんでいる。私はドア付近の隅に立ち、流れる景色を眺めた。

次の駅に着く頃、ポツポツと雨が降り始めた。空はますます暗く、街をどんよりと閉ざしている。


(結婚、か)


緑市そっちの人でもいいわよ――という母の言葉を思い出し、水樹さんを連想した。

彼は地元の人だろうか。もしも、二人の出会いが運命的なものであれば、結婚もありうる?

そこまで考えて、自分にストップをかける。

いくらなんでも先走りすぎだ。水樹さんのことを、まだ何も知らないのに。

だけど、ときめきは止まらない。

期待もふくらんでいく。

もっともっと彼を知りたくて、堪らなかった。

昨日出会ったばかりの人に、私は完全に恋をしていた。


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