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レザーソール
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「きゃあっ!」
左足で石ころを踏み付けた。
と感じた次の瞬間、私は身体のバランスを失い、後ろに倒れそうになる。
「危ないっ」
力強い腕に支えられ、転倒を免れた。全体重を抱き止めてくれたのは、二人連れの男性のうちどちらか一人。
私は慌てて足を踏ん張り、自力で立とうとした。
「すみません!」
「落ち着いて。足もとが濡れてる」
「……えっ?」
低く、穏やかな声。
腕に支えられながら、首を回してその人を確かめる。
「床に氷が零れて、小さな水溜りができてる。足を滑らせたんだね」
「そ、そう……なんですか」
彼の顔を見た私はぼうっとして、間の抜けた返事をした。
豊かな黒髪をきれいに整え、紺のスーツを身に着けた男性が、目の前で微笑みかけている。
こんなにも至近距離で、しかも身体を抱えられた状態で男性と見つめ合うなんて、何年ぶりだろう。
「君、大丈夫?」
ハッとして、男性の腕から離れた。こんな状況なのに、思わず見惚れてしまった。
「重ね重ね、すみません。ごっ、ご迷惑をおかけしました!」
頭を下げて詫びた。そして、そうっと彼の顔を見直す。
この人は、前の席の向こう側に座っていた男性。
つまり、私が視線を感じた人だ。
先ほどは姿が見えなかったが、何ということ。
紳士な態度と口調。優しくも、意志の強さを思わせる眼差し。整った容姿と、すらりとした背格好。
そして大人の雰囲気。
まさに理想のタイプである。
「お客様、大丈夫ですか」
店員の甲高い声が聞こえて、我に返る。
私は熱くなる頬を男性から隠すように、彼女のほうを向いた。
「床に水が零れていて、足を滑らせたのです」
男性は咎める風でもなく、アルバイトらしき若い女性店員に状況を説明した。彼の紳士な態度に、さらに好感度が上がる。
店員は私にぺこぺこと頭を下げ、靴を拭くタオルをお持ちしますと言って、奥へ戻っていく。あらためて足もとを見ると、お気に入りのパンプスが少し濡れていた。
「いやあ、転ばなくて良かったよ。しかし智哉君、よくとっさに支えられたね。すごい運動神経だ」
もう一人の男性が感心の声を上げる。
その人の存在をすっかり忘れていた私は、驚いて振り返った。
人のよさそうな印象の、ちょっと太めの男性だ。年齢は三十代後半くらいで、智哉と呼ばれた男性より五つ六つ年上に見える。
もちろん初めて会う人だが、なぜか見覚えのある顔だと思った。
「おや?」
「?」
相手も私の顔をしげしげと眺めた。それこそ、見覚えがあるかのように。
まったくの他人のはずなのに、不思議な感覚だった。
「若月さん、もうすぐ電車の時間じゃないですか」
顔を合わせる私達の間に、きっぱりとした声が割り込む。
智哉と呼ばれた彼が腕時計を確かめてから、男性にボストンバッグとコートを渡した。
「ああっ、もうそんな時間か」
ビジネスコートとボストンバッグから、出張中のサラリーマンと推測される。
どうやら彼は電車に乗って、何処かへ移動するらしい。
「久しぶりだからつい話し込んじゃったね。楽しかったよ」
「僕も楽しかったです。またいつでもいらしてください」
「うん、ありがとう。君も名古屋に来る時があれば、ぜひ寄ってくれ」
二人は微笑み合い、握手を交わした。ビジネスにしては、ずいぶん親しげな空気が漂う。
そういえば、太めの人は「智哉君」と、下の名前で呼んでいた。
「じゃあ、これで失礼するね。お嬢さん、足もとに気を付けて」
にっこり笑い、彼は立ち去った。
(ああ、そうだ。あの人、上の兄さんに似てるんだ)
左足で石ころを踏み付けた。
と感じた次の瞬間、私は身体のバランスを失い、後ろに倒れそうになる。
「危ないっ」
力強い腕に支えられ、転倒を免れた。全体重を抱き止めてくれたのは、二人連れの男性のうちどちらか一人。
私は慌てて足を踏ん張り、自力で立とうとした。
「すみません!」
「落ち着いて。足もとが濡れてる」
「……えっ?」
低く、穏やかな声。
腕に支えられながら、首を回してその人を確かめる。
「床に氷が零れて、小さな水溜りができてる。足を滑らせたんだね」
「そ、そう……なんですか」
彼の顔を見た私はぼうっとして、間の抜けた返事をした。
豊かな黒髪をきれいに整え、紺のスーツを身に着けた男性が、目の前で微笑みかけている。
こんなにも至近距離で、しかも身体を抱えられた状態で男性と見つめ合うなんて、何年ぶりだろう。
「君、大丈夫?」
ハッとして、男性の腕から離れた。こんな状況なのに、思わず見惚れてしまった。
「重ね重ね、すみません。ごっ、ご迷惑をおかけしました!」
頭を下げて詫びた。そして、そうっと彼の顔を見直す。
この人は、前の席の向こう側に座っていた男性。
つまり、私が視線を感じた人だ。
先ほどは姿が見えなかったが、何ということ。
紳士な態度と口調。優しくも、意志の強さを思わせる眼差し。整った容姿と、すらりとした背格好。
そして大人の雰囲気。
まさに理想のタイプである。
「お客様、大丈夫ですか」
店員の甲高い声が聞こえて、我に返る。
私は熱くなる頬を男性から隠すように、彼女のほうを向いた。
「床に水が零れていて、足を滑らせたのです」
男性は咎める風でもなく、アルバイトらしき若い女性店員に状況を説明した。彼の紳士な態度に、さらに好感度が上がる。
店員は私にぺこぺこと頭を下げ、靴を拭くタオルをお持ちしますと言って、奥へ戻っていく。あらためて足もとを見ると、お気に入りのパンプスが少し濡れていた。
「いやあ、転ばなくて良かったよ。しかし智哉君、よくとっさに支えられたね。すごい運動神経だ」
もう一人の男性が感心の声を上げる。
その人の存在をすっかり忘れていた私は、驚いて振り返った。
人のよさそうな印象の、ちょっと太めの男性だ。年齢は三十代後半くらいで、智哉と呼ばれた男性より五つ六つ年上に見える。
もちろん初めて会う人だが、なぜか見覚えのある顔だと思った。
「おや?」
「?」
相手も私の顔をしげしげと眺めた。それこそ、見覚えがあるかのように。
まったくの他人のはずなのに、不思議な感覚だった。
「若月さん、もうすぐ電車の時間じゃないですか」
顔を合わせる私達の間に、きっぱりとした声が割り込む。
智哉と呼ばれた彼が腕時計を確かめてから、男性にボストンバッグとコートを渡した。
「ああっ、もうそんな時間か」
ビジネスコートとボストンバッグから、出張中のサラリーマンと推測される。
どうやら彼は電車に乗って、何処かへ移動するらしい。
「久しぶりだからつい話し込んじゃったね。楽しかったよ」
「僕も楽しかったです。またいつでもいらしてください」
「うん、ありがとう。君も名古屋に来る時があれば、ぜひ寄ってくれ」
二人は微笑み合い、握手を交わした。ビジネスにしては、ずいぶん親しげな空気が漂う。
そういえば、太めの人は「智哉君」と、下の名前で呼んでいた。
「じゃあ、これで失礼するね。お嬢さん、足もとに気を付けて」
にっこり笑い、彼は立ち去った。
(ああ、そうだ。あの人、上の兄さんに似てるんだ)
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