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週に一度の楽しみは、会社帰りに立ち寄る和風雑貨のお店で、気に入った小物をひとつ選ぶこと。
それから――
待ちに待った金曜日。
午後七時十五分。
更衣室の壁掛け時計を確かめた尾崎梨乃は、いつもの時間より遅くなってしまったのに気づいた。
「あっ、急がなきゃ」
着替えた制服をトートバッグに詰め込むと、ロッカー扉についた小さな鏡を覗きこむ。
肩に届く長さのまっすぐな黒髪に、赤みがかったベージュというシックな色合いの口紅。先週買ったばかりの春の新色は落ち着いた大人のイメージで、二十四歳の、それもどちらかと言えば幼い顔立ちの梨乃には、少し背伸びした買い物だったかもしれない。
(だけど、大人っぽいぐらいでいい。あの人は多分、いくつも年上だから)
「あれー、今週もデートなの梨乃ちゃん」
急いで更衣室を出ようとすると、入れ違いで入ってきた経理課の同僚がいたずらっぽく横目で見てきた。
「違いますよー、聖子さん。いつものお買い物です」
「またそんな、気合入ってるじゃない」
聖子は梨乃の着ているベルト付きワンピをしげしげと眺め回した。ネイビーにドット柄の、クラシカルなデザインだ。
「金曜の夜はいつもお洒落していそいそと帰るじゃない。バレてるわよ、うふふ」
入社以来お世話になっている二つ年上の先輩は楽しそうに笑うけれど、毎週デートなのは聖子のほうで、梨乃は違う。残念ながら。
「それじゃ、お先に失礼します」
「今度紹介してよ、大人のカ・レ・シ」
背中に飛んできた声にどきっとしたけれど、そのまま振り返らずに更衣室を出た。
そして、ドアを閉めたところで深いため息をつく。
「……カレシだったら、いいんだけど」
聖子の言葉は半分当たっていた。絶対、彼氏なんかじゃないけれど。
もう一度ため息をついた梨乃はハッとして腕時計を見ると、慌てて通用口へと向かった。
梨乃が勤める株式会社土川屋は、創業二百年の歴史を持つ老舗の和菓子屋だ。和菓子屋と言っても、本州中部に位置するこの地方都市に本店を構え、自社ビルをはじめいくつもの店舗、ファクトリーを展開する大手企業だ。
ここに就職を希望したのは、子供の頃から〝和〟の文化が大好きだったからだ。本当は、和菓子の企画・製造に興味があったのだが、梨乃は自他ともに認める筋金入りの不器用だった。口の悪い兄などは、「お前が触れれば、形あるものは全て崩れ、原型を失くす」などと、はっきり言ってくれる。
そんな梨乃に、食の芸術ともいえる和菓子の製作が務まるはずもない。それでも、〝和〟の世界への憧れはやまず、この老舗和菓子会社の経理・財務部門で働くことになった。
入社して半年はデパートなどの直営店で、研修として販売の仕事につき、その後、志望したとおり経理課に配属されることになった。
大好きな〝和〟の世界での仕事は楽しく、日々充実している。ただひとつ不満があるとしたら、短大時代に夢見た〝理想の男性との社内恋愛〟とは、ほど遠い環境にあることだろうか。
梨乃の理想はやはり〝和風男子〟なのだが、経理課の同僚は女性がほとんどで、男性といえば課長と係長の既婚組しかいない。時々は課の有志により営業部や広報部の男性と合同で飲み会をおこなったりするが、理想の人がそうそういるはずもない。
そう、たとえば、地に足が着いていて背筋をまっすぐにしている人。顔立ちは凛々しくて、和服がとっても似合うような。
だけど今時そんなタイプは稀なのかもしれない。
彼氏は欲しいけれど、見つからない。
異性に関しては暗澹たる日々を過ごしていた彼女の心に希望の灯が点ったのは、忘れもしない昨年のクリスマス直前の金曜日、夜七時半だった。
駅ビルの九階にオープンしたばかりの和風雑貨店『まほろば』に、その人はいた。
ひと目見た瞬間から、目が釘付けになっていた。
黒髪を清潔に撫でつけ、姿勢がよく品の良いスーツ姿。
和服もしっくりと似合いそうな、適度に厚みのある体格。
優しくも男らしい目鼻立ちに浮かぶ笑みも涼やかで、話し方も丁寧で穏やかであることが遠目からもわかる。
何よりも惹かれたのは、凛然としながらも静けさをまとう彼の佇まいだった。
駅ビルの百貨店内という常に人で賑わう場所にいながら、何にも影響されないような、独自の世界を持っているかのようだった。梨乃にはそれが、頼もしく揺るがない、男性の強さに感じられた。
「理想が形になって、目の前に現れた」
知らず唇から零れた感動。
彼女が夢見た〝和風男子〟の登場だった。
それから梨乃は『まほろば』に足しげく通うようになった。
そのうち彼が毎週金曜日の夜七時半頃に現れ、伝票らしきものにサインをもらった後、十五分ほどでいなくなるのがわかった。
店員と言葉を交わすが特に何かを買う様子もないから、どこかの営業さんかなと当たりをつけた。
その〝どこかの営業さん〟に週末の和風雑貨店で会うのが、いつしか彼女の、何にも勝る楽しみとなっていた。
(まあ、会うと言っても、あの人は私の存在に気づきもしないだろうし、一方的な……完全な片思いなんだけど)
根本的なところで、梨乃は自信がなかった。
どんなにときめいても、お洒落をしても、女らしくしようと頑張っても、いざ彼を目にすると、自分では釣り合わないと思ってしまう。
あんなに素敵な男性の横に並ぼうなんて、もしかしたらものすごく図々しい願望なのかもしれない。こんな童顔ではなく、もっと大人っぽい外見だったなら。中身だって、しっとりとして落ち着いた女性だったなら。
「叶うわけない……かな」
気弱に呟きながら、それでも彼女は駅に向かった。三月初旬の冷たい風にも負けないように。
この地方で最も大きなターミナルステーションである岬駅は、いつも混雑している。週末ともなれば夜遅くまで乗降客の流れが途切れず、いつまでも賑わっている。
梨乃の職場からは徒歩五、六分程度の距離であるが、駅前のスクランブル交差点で信号待ちに引っかかるとそうはいかない。
「まだ大丈夫だよね。七時二十八分十四秒、十五秒……」
コンコースを急ぎ足で歩き、エレベーターに詰まったたくさんの人の隙間に滑り込むと、フロアをカウントする電光表示をじぃっと睨んだ。
「早く早く」
各階に律儀に止まりながら、エレベーターはようやく九階、日用品雑貨売り場に到着する。
和風雑貨店『まほろば』は、エレベーターを降り右に折れてまっすぐの、行き止まりの角にある。黒と白を基調とした蔵を思わせるデザインの店舗は、比較的広いスペースを構えている。
梨乃は急ぎ足で乱れた髪を気にしながら、店の端のほうからゆっくりと入った。
商品をチェックしながら、あたりを見回した。七時三十二分。店員はレジに一人、フロアに一人いるが、彼の姿は見当たらない。
「まだ来ていないのかな」
息を整えると、浮つく気持ちを落ち着かせようと深呼吸をする。あまりきょろきょろすると、店員や他の客に不審人物と思われかねないので、とりあえずは普通のお客さんらしく、季節の新作がずらりと並ぶメインの棚を眺めたりした。
その時、ふと見覚えのある商品に目が留まった。
「あ、これって」
三色の花見団子の絵付けがされた、可愛い小皿のセットである。
「お兄ちゃんの会社のだ」
先日兄が失敗作だからと言って持ち帰ってきた小皿の、これは成功作品である。
彼女の兄は和洋食器を製造する陶磁器の会社に勤めているのだが、時々不良があって売り物にならなくなった製品を安価で買い取ってくる。
『この団子の一部がさ、微かな傷で線が切れてるだろ。たったこれだけでアウトだ。愛嬌のある絵柄なのに、もったいないよな』
梨乃は兄のそんな言葉を思い返しつつ、一枚手にとって眺めた。
製品検査は厳しく、わずかなミスも許されない。ブランドというものがあるからだと、兄は肩を竦めていた。
「ブランドかあ、なるほど」
値札を見ると、いい値段をしている。立派な化粧箱も付いているし、贈り物用なのねと、そぅっと元に戻そうとした時だった。
「良いですよね、その絵柄」
穏やかな男性の声。
お店の人かと一瞬思った。
だが、ここの店員は女性ばかりのはずである。
(だったら、誰……)
「可愛らしい銘々皿。ふふ、でも、載っける和菓子は花見団子じゃないと、様にならないかな」
後ろに立って声をかけてきたその人は、まさしく〝その人〟だった。
初めて見つけたあの日以来、梨乃の心に灯りを点し続けている、〝どこかの営業さん〟だった。
「あ、あ……」
驚きのあまり身体が動かなくなるという現象を、今、体感している。
そんなふうにぼんやりと思うばかりで、反応できない。とにかく、真っ白だった。
一方彼は、意外なほど澄んだ瞳を梨乃に向け嬉しそうにしている。ひょっとして、私のことをずっと前から知っていたのではないかと勘違いしそうなほど、親しみのある笑顔だった。
「奈良さあーん、お願いしまあーす」
ハッとして、現実に戻った。店員が彼を呼んだのだ。
「はい、ただ今参ります!」
さっきまでとは打って変わった、硬い響きの返事だった。仕事モードに切り替わったような。
梨乃は小皿を手にしたまま、これでもう行ってしまうであろう彼を見上げた。
どうしよう、チャンスなのに。
わかってはいるけれど、あまりにも突然すぎてどうにもならない。
「失礼しました、お客様。では、また」
彼はやはり親しみのこもった笑顔をもう一度梨乃に向けると、会釈をして呼ばれた奥のほうへと歩いていこうとした。
待って。
待って。
行かないで!
何も考えず、追いかけようとした。
その時――
留守になった手から滑り落ちた小皿が、派手な音を立てて床の上で真っ二つに割れた。
「きゃあっ」
周りにいる数人の客も、店員も、それから奈良と呼ばれたその人も、陶器の割れた音と彼女の悲鳴に驚いて注目した。
その様子に梨乃は我に返ると、慌てて割れた皿の破片を拾おうとした。
「あっ、駄目です」
突然彼に強い力で手首を掴まれ、梨乃はもう一度声を上げそうになった。
「指を切りますよ。そのままにして」
「ごっ、ごめんなさい」
親身な中にも厳しさの滲む眼差しに動けなくなり、そのまま彼に持ち上げられるようにして立ち上がった。
「お客様、大丈夫ですか」
店員が箒と塵取りを持って駆けつけた。
「あの、私……」
梨乃が言いかけると同時に、まだ彼女の手首を掴んでいた彼が口を開いた。
「すみません、上田さん。私が落としてしまいました」
ぽかんとして見上げる梨乃の手首に一瞬ぎゅっと力が込められたかと思うと、すぐに解放された。
「えっ、奈良さんが?」
店員は一瞬困った顔になったが、すぐに気遣うような笑みを浮かべ、梨乃に訊ねた。
「お客様、お怪我はありませんか」
「はい、あの、だ、大丈夫です」
奈良は梨乃を見ず鞄から伝票らしきものを取り出すと、店員が片付けている間に何か書きつけて、ペンを添えて待った。
「上田さん、すぐに代わりの品物を納めますので、よろしくお願いします」
「ああ、わかりました。気をつけてくださいね」
よく見れば上田という店員は、胸に「店長」と印字されたネームプレートを付けている。仕方がないですねと銀縁眼鏡の奥で苦笑した彼女は、渡された伝票にサインをした。
「じゃ、納品時の破損ってことで。あと、こっちはさっきの受け取りです」
「すみません」
二人のやり取りを聞いていた梨乃は焦った。
それでは皿の件はこの人の責任になり、伝票を持ち帰れば確実に会社からも咎められる。梨乃が割ったのに。
「あのっ」
「それでは早速社に戻って、交換の品をお持ちいたします」
「しっかり頼みますね」
店長はピシリと言うと梨乃にあらためてお辞儀をし、そそくさと店の奥に戻ってしまった。止める間もない素早さだった。
「さ、お客様。参りましょうか」
奈良は丁寧な言葉遣いとともに、店長の後を追おうとした梨乃の肩をやや強引に店の外に向け、そこから連れ出した。
信じられなかった。
あっという間の出来事で何が何だかわからないうちに、彼に押されるようにしてエレベーターに乗り込んでいた。
「いつもは裏から出ていますが、ま、今日はいいでしょう」
口をぱくぱくさせている梨乃に軽い口調でそんなことを言い、彼は混み合う籠の中、彼女を庇う恰好で前に立っている。
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「哲美です。奈良哲美と申します」
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彼は涼しげな目をして微笑んでいる。どうしてなのかわからないが、何だかとても嬉しそうだ。
だが梨乃はそれはそれとして、今確かめるべきことを口にした。
「私の兄も、米丸陶器の、岬支店の、同じ営業一課に勤めています」
微笑が消え、代わりにきょとんとした表情が現れた。
「お兄さん。お客様の?」
彼はカップを置くと身体ごとこちらを向き、前のめりになった。上体が近づいて、梨乃はますますどぎまぎする。
「誰だろう。そうだ、あなたのお名前は?」
「あ、はい。私は、尾崎梨乃と言います」
奈良は目を瞠った。
「えっ、尾崎って、もしかして尾崎友章ですか? お客様……君は、彼の妹さんってことかい」
梨乃は、息がかかりそうなほど近くに寄った男の瞳を必死で見つめ返し、こくこくと頷いた。
こんなことってあるだろうか。去年のクリスマスシーズンから片思いを続けているこの人が、毎日家で顔を突き合わせている兄の同僚だったなんて。
灯台下暗しという、ポピュラーかつ最高に素晴らしい諺を、心の中で噛みしめた。
奈良は少しばかり興奮していたが、同僚の妹だとわかって心安くなったのか、営業マンらしい態度ではなくなった。親しみを感じさせるにこやかな笑顔に、別の柔らかさが加味された。
「友章とは同い年の同期でもあるんだよ。そうか、君のような妹さんがいるとは知らなかった」
「君のような」とはどういう感じなのか梨乃は訊きたかったが、そんな余裕があるはずもなく、ひたすら空になったカップの底を見つめていた。
兄と同い年ということは、彼も今年で三十歳。私より六つも年上なんだと、梨乃はこっそりと指折って数えた。
「そうか、面白いなあ。世間は狭いなあ」
「はい、素敵に狭いです」
「ん?」
「いえ、何でも」
頬を赤らめ俯く梨乃を見て奈良はまだ何か話したそうな顔をしたが、思い直したようにこれからいくつか得意先を回らなければと席を立った。
梨乃はレジに向かう奈良を慌てて追いかける。
「私に出させてください。さっきの、銘々皿のお詫びをさせてください」
兄の話ですっかり忘れていたが、このままでいいはずがない。コーヒー代くらいでは済まないだろうが、奢ってもらうなんてとんでもないことだった。
だが伝票を奈良は握ったまま言う。
「ここは遠慮無用だよ。あれの分はきちんと請求するから」
「え?」
結局払わせてもらえず先に店を出されたが、妙に気になる言い方だと梨乃は思った。
「ありがとうございました。本当に、銘々皿のことも、私が割ってしまったのに」
カフェを出た通路でぺこぺこと頭を下げる梨乃に、往来の人々が妙な視線を寄越してくる。奈良はもういいからと途中でやめさせると、そばに寄るよう手招きした。
「そんなのは構わない。それよりも、本当は君に話したいことがあって、ここまでご同道願ったんだ。お兄さんのことで後回しになってしまったけれど、いいかな、ちょっと」
「な、何でしょうか」
招かれるままパンプスを進めた梨乃に奈良はさらに近づき、なぜかその耳元に低い声で囁いた。
「陶芸教室に入りませんか」
2
その夜、夕飯を食べて自室に籠もった梨乃は、奈良の寄越した陶芸教室の案内チラシを何度も読み込んだ。
玉虫陶芸教室
虫賀市二日町本下原十五
代表講師・玉田園子(陶芸家)
コピー用紙に黒一色で刷られた簡易なチラシであり、代表講師である女性がろくろを使っているらしき写真が載っている。しかし女性の顔は俯き加減であるため、はっきりとわからない。
チラシをテーブルに置くと、奈良の言葉をじっくりと思い返す。
『いや、君があまりにも熱心に銘々皿に見入っていたから、こういった焼物に興味があるのかなと思って。虫賀焼が気に入ったのなら僕も会員になっている教室を紹介するから、一度見学に来てみませんか』
虫賀焼というのは、梨乃の住む町から車で三十分ほどの距離にある虫賀市を中心に盛んに生産されている焼物の名前である。奈良や兄の勤める米丸陶器でも湯呑みから傘立てまで、この虫賀焼をメインに数多くの陶磁器を製造している。あの銘々皿も、その虫賀焼であった。
「陶芸教室かあ」
〝和〟が好きな梨乃にとって、日本の伝統的な焼物のお皿や小物は見ているだけでも楽しいし、確かに興味もある。が、自分で作るとなると話は別である。
不器用な梨乃は、学校の工作の時間もさして面白いと感じたことはなかった。中でも粘度細工は特に苦手で、その惨憺たる創作の歴史は幼稚園時代にまで遡る。
「うーん、どうしよう」
きっと入会しても恥をかくだけに決まっている。己をよく知る梨乃にはそれはもう容易に想像がつくのだ。
「でも、あの人は」
そう、なんと言っても彼は恩人だった。
あの銘々皿には、化粧箱入りセットで八千五百円という値札がついていた。そんな高価な一枚を割って台なしにした梨乃の失敗を、奈良はまるごと被ってくれた。しかもあの店は、大事な得意先であり、心証を悪くしたら困るはずなのに。
考えるほどに、梨乃はむずむずと落ち着かなくなる。
奈良は、あれの分はきちんと請求すると言った。気になる言い方だったがつまり、割れた皿の代金は私にきちんと払ってもらうということだろう。
だから、それとこれは別々に考えればいいと梨乃は思うのだけれど、やはり落ち着かない。
もう一度チラシを取り、これを渡してくれた奈良自身について考えてみる。
「……そうだよ」
今日あまりにも近づいたことに浮かれすぎて、一番大切な事実を忘れるところだった。
「これって、大チャンスじゃない」
陶芸という要素を抜きにしてみれば、これは彼とお近づきになる大チャンスである。奈良哲美という、これまで見つめるだけで接点ひとつ無かった男性に、一気に近づくことができるのだ。
『陶芸教室に入りませんか』
低音の男らしい声と熱く誘う眼差しが、梨乃の心を捉えている。
ただの心ではない。一方的な片思いで温め続けてきた、切ない恋心である。
拳を固め、立ち上がった。
女の原動力は、恋。
恥をかいたって構わない。彼のそばに行けるなら。
むずむずは消え去り、代わりにわくわくが湧いてきた。びっくりするような単純さ。
だけど、シンプルであるからこそ純粋で迷いもないのだと、梨乃は自分の感情の変化に納得している。
「入ります。私、陶芸教室に」
そう口にした瞬間、梨乃ははっきりと運命を感じた。
彼女がそんな決心をするのを待っていたように玄関のドアが開く音がした。
(お帰りになられた!)
「お兄サマ!」
社員割引で買った薯蕷饅頭をトートバッグから取り出すと、梨乃はもっと奈良を知るために、兄であり、彼の同僚でもある友章のもとに飛んでいった。
「ああ、哲美が何か言ってたな」
母親のよそってくれた味噌汁を受け取りながら、友章は気のないふうに答えた。食卓の正面で前のめりになっている妹の、そのあからさまな態度に白けたのかもしれない。
「とっても親切で、優しくて、いい人。お兄ちゃんの同僚だなんて、すっごい偶然」
頬を染め、浮き浮きと舞い上がっている。友章は肩を竦めると、妹の大袈裟な表現で飾られた話を半分聞き流し、夕飯のカツ丼をかき込んだ。
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