先生

藤谷 郁

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ここはホテル最上階にあるカフェの個室。ガラス張り窓を見れば、広大な太平洋に夕陽が沈もうとしている。

秀一さんと私が待っていると、雨宮さんが待ち合わせの時間どおりに現れた。


「雨宮さん!」

「島君、久しぶりだなあ」


二人はがっちりと握手を交わした。竹宮さんの画廊で行われた企画展以来の再会である。


「手紙はきちんと読ませてもらったよ。実に感慨深い気持ちだ」


秀一さんは、自分の身に起きた革命的なできごとについて、雨宮さんに手紙で報告していた。ベアトリスとの和解、そしてこれからの創作活動についても。

雨宮さんは私の手を取ると、力強く握った。


「星野さん。あなたのおかげで、島君がようやく堅い殻を自ら割ってくれた。本当にありがとう。心から感謝していますよ」


率直な感謝の言葉に、私は恐縮する。そして、秀一さんの力になれて良かったと心から思う。


「さあ二人とも、まずはゆっくりと寛いで」


雨宮さんはにこやかに笑い、秘書の男性にコーヒーの用意をするよう合図した。


コーヒーが運ばれてくると、秀一さんは照れくさそうに、私との婚約、それまでの経緯について話した。隠し立てせず、ありのままを伝えている。

雨宮さんは目を閉じ、頷きながら耳を傾けてくれた。

子どもの頃の秀一さんと、若かりし日の雨宮さんが目に浮かぶ。あれからずっと、彼らは彼らの絆を大切にしてきたのだろう。

私の話も全て聞き終える頃、雨宮さんはカップを置いた。


「うむ。竹宮君から聞いてはいたが、ベアトリスの仕事を島君が受けたというのは本当だったのだね。いや、良かった良かった。まさかこんな日がこようとは」


秀一さんは何も言わず、長い間心配をかけた恩人に頭を下げた。


「ははは……頑固者の君も、星野さんには形無しというわけだ。これはますます将来が楽しみだぞ。彼女にどんな君を引き出してもらえるか、私も目が離せない」


愉快そうに笑う雨宮さんだが、秀一さんは居心地が悪いようだ。


「失礼」


と言って、席を外してしまった。


「おや、逃げたな。相変わらず恥ずかしがり屋だ」


私も恥ずかしいのだが、誰もいない個室に雨宮さんを置いて出ていくわけにいかない。

だが雨宮さんは気にする風でもなく、あらたまった様子で私と向き合う。


「星野さん」

「は、はい」


雨宮さんは少し厳しい顔つきになる。


「島君の生まれ育った場所は、知っていますか」

「はい。先ほどお墓参りの後に立ち寄りました」

「……そうですか」


厳しさは消えるが、ふと、寂しそうに目を伏せた。


「あれは、辛い出来事だった」

「え……」


秀一さんにとって辛い出来事――

一つだけ思い当たることがあった。


「私との出会いは聞いているね」

「はい」

「夏休みが終わる頃、あのまま島君と離れるのが名残惜しかったから、手紙を書くことにしたんだ。彼も律儀だから返事を書いてくれた。それは楽しいやりとりだったよ」


雨宮さんは水の入ったグラスを傾けると、ひと口含んだ。


「島君と私はますます仲良くなった。彼の誕生日が2月だというので、何かプレゼントをしようと思い立ったんだ」

「誕生日……」


つい、口を挿んでしまった。


「何か?」

「崖の上で秀一さんが、『一番驚いたのは僕の誕生日に』と言いかけたんです。寂しそうな様子で」

「そうか」


雨宮さんも同じように、寂しい顔になってしまった。

誕生日に何があったのだろうか。目顔で尋ねる私に、雨宮さんは思い切ったように口を切る。


「島君の家が焼けたのは、彼の誕生日の、七日前の夜だった」

「……!」


12歳の誕生日を目の前にした冬の夜に、彼は両親と、住んでいた家を失ったということ。

私は自分でも驚くほど動揺した。子ども時代の彼を襲った火事について、まだ具体的な話を聞いたことがない。


「私はその時海外にいて、何も知らずにいた。だから彼をびっくりさせてやろうと、プレゼントを用意していたんだ。誕生日の当日に直接会って渡そうとして。そして会いに行ったのだ。のこのこと、彼の家に、あの崖の上に」

「……」


頷くだけで、声を出せない。


「パリで求めた画材セットだった。彼にはこれくらいのものを使いこなす素質があると、ひとりわくわくしてね。……そうしたら、どうした事だ。島君の家が無くなっている」


雨宮さんの悲痛な表情に、そのときの心情が表れている。


「近所の人に尋ねたら、親が亡くなり子どもが残ったと。それだけでも衝撃だったのに、さらに聞かされたのは、その子が葬儀でも、そして今も涙ひとつ見せない。彼を預かった親戚とも誰とも口を利かず、海ばかり見ていると。私は急いで、彼がいつもスケッチしていた海が見渡せる場所へと走ったんだ」


実際にその場にいるかのように、雨宮さんが身振り手振りで説明する。


「島君はそこに座っていたよ。いつものように膝を抱え、冬の海に目を凝らして。スケッチしていない彼を見たのは初めてだった」


眼鏡を外すと、手の甲で目元を拭う。瞬きを何度か繰り返してから雨宮さんは続けた。


「風が吹いてとても寒い。私は彼の隣に並ぶと、一緒に海を眺めた。何も言えず、だけど彼を独りきりにはできなかった。情けないが、ようやく口を開いたのはかなり後のこと。それも、無骨にプレゼントを差し出してね。でも、おめでとうなんてどうして言える。私は『持ってきた』と、ただそれだけ言って、目の前で包みを開いた。彼はぼんやりとだが見ていた。いつも私を励ましてくれる明るい笑みが消え、全くの無表情なのが堪らなくて。どうにかしなければと、あれほど焦ったことはない」


感受性が強すぎるあまり、心を閉ざしてしまったのだ。

当時の彼を思い、私も苦しくなる。


「箱の蓋を開けて、油絵の具のセットを見せてあげた。その瞬間、彼の沈んだ目の奥に、微かに動きがあったのを見逃さなかった。あれは彼の驚きだったと思う。体で反応したんだ。私は必死だった。今、多くの言葉を尽くしても届かないのは分かっている。だから、何も考えずに訊いたんだ。彼に答えてもらえるように、『どの色が好きか』と、単純に。島君は絵の具のチューブが並んだ箱をじっと見つめた。そして、一つの色を指差した」


雨宮さんは私を見、問いかけている。分かりますか、と。


「……ローズバイオレット」


彼の情熱の色、黎明のばら色だ。

雨宮さんは顎を引き、正解だと教えた。


「今なら大丈夫、いや今しかないと思って島君に言った。君の可能性がここにある。この色だけじゃない。世の中には数えきれないほどの色がある。こんなにも無限の可能性があるんだ。世界を君の色に染め上げて、いつか私に見せてくれ。お父さんとお母さんがくれた君の感性を、生きて、生かしてくれ!」


握りこぶしを作り、少年を目の前で説得しているかのように雨宮さんが叫ぶ。


「島君は私を見ていた。大きな丸い目で。それはとてつもなく長い時間に感じられた。やはり駄目なのかと俯きかけた瞬間、その目から一粒、涙が零れ落ちた。一粒、また一粒と、ぽろぽろと零れはじめた。私は直ぐに彼を引き寄せると思い切り抱いて、やっと解放された感情を受け止めた。やがて声を上げ、体を震わせ、いつまでも彼は泣いていたよ。誰もいないこの崖で、どれだけの孤独に苛まれたのか」


秀一さんの言葉を思い出す。

私をあきらめようとした夜、どうしようもないほど寂しかったと。アトリエの窓の海原が、両親を亡くした冬、独り眺めていた海に重なってしまうのだと。

今更ながら、彼の孤独に胸が痛む。そんなにも苦しめてしまったのだ。


「星野さん」


厳しくも温かな呼びかけに顔を上げた。いつの間にか、雨宮さんが傍に立っていた。


「はい」


私も立ち上がり、正面から向き合う。


「島君をお願いします。いつも傍にいて、じゅうぶんに抱きしめてやってください」


雨宮さんが、私の肩にそっと手を置いた。


「雨宮さん……」

「絵具を受け取ってくれた秀一君が、いつかまた会える? と私に訊いた。だから私は、また会えますようにと、おまじないを授けたのだよ」


秀一さんを見守り続けた彼の恩人。彼の孤独を救ってくれた人。

私は涙を拭い、約束した。いつも、どんなときも、秀一さんの傍にいると。
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