先生

藤谷 郁

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秀一さんは話し始めた。ありのままの心情を、もうこれが最後だと覚悟を決めたように。


「君が初めて僕を拒絶したあの夜、目が覚めた。雷に打たれたような衝撃だった」


私は相槌も打てず、固まっている。


「逆上して君を責め立てた自分が、何と愚かで惨めで小さな男かと恥じ入った。こんな自分を君に晒した事が情けなくて、消えてしまいたいとすら思ったよ。だけど、僅かに残っていた理性で、僕は君を追いかけた。あんな風にぼろぼろに泣かせて、もしも君に何かあったらと考えた時、自分の恥なぞどうでもいいとやっと気づいたんだ。本当に大切なのは、大切にすべきなのは、君の幸せなんだと」

「私の、幸せ?」


見上げる私に頷くと、彼は続けた。


「松山君は大きな男だ。初めから、彼にはその度量が備わっていた。彼は自分の恋よりも君の幸せを願っている」

「……秀一さん」

「彼はそういう男だと僕は分かっていた。君が描いた彼の画を一目見たときから」


この人が松山さんを意識するようになったそもそもの理由は、やはりあのスケッチだった。この人は、言っていた。人物画は嘘をつけない。君が見たままの彼だと。


「松山君は、きれいな男だ」


あの時と同じ言葉で彼を表す。あの時と同じ沈んだ目の色をして。


「ずっと脅威を感じてきた。いつか君が、彼の大きな懐にさらわれてしまうのではと怖れていた。だけどそれが君にとって幸せであるのを、どこかで分かっている。それなのに僕は自分の恋と欲望を優先させて君を縛り付けようとしたんだ」


胸がずきずきする。

私にとっての幸せを、秀一さんはそう考えていたのだ。

彼は私の痛みに気づかない。


「喧嘩した夜、松山君は君を守っていたね。君も守られて、心からの笑顔でいた。もう僕には入り込む余地はなく、何か言えるわけもない」


だから秀一さんは、松山さんと私が二人きりでいても怒りもせず、黙って見ていたのだ。


「あれから僕は考え続けた。君をあきらめなければいけないと何度も結論づけて、君に話そうとした。もう、終わりにしようと。だけど……」


やはりあきらめようとしたのだ。私は震えながら彼を見守る。目の前に、こんなに近くにいる大事な人が、急に儚く遠く思えてしまう。


「僕は君と出会ってすぐに、二人の暮らしを夢見た。例えばこの家。アトリエ付きの一軒家を欲しいと思ってはいたが、早くに実現させたのは君のため。一人で舞い上がって、勝手にあれこれと想像してたんだ」


秀一さんは庭を囲む柵まで歩き、暮れてしまった空を仰ぎ見る。


「こんな年になって経験する恋心を、どう扱えばいいのか僕はわからず、告白してくれた君を退けてしまった。そのくせ突然デートに誘ったり、我が儘な抱き方をしたり、揚句の果て、独占欲から松山君に嫉妬して、一方的に責め立てて君を泣かせた」

「秀一さん」


私は呼びかけるが、どう言えばいいのかわからない。どうすれば彼の決意を変えられるのか。


「松山君の名を君が口にするたび、堪えきれない激情に支配された。コントロールが出来なくて、君と結婚して僕のものにして、一生この家に閉じ込めてしまいたい。僕だけを見て、考えて、愛してほしいなんて、無茶で勝手な事を願い……」


夜の中、彼は黙り込む。

言葉を探しているのかもしれない。私はいつまでも待つつもりだった。けれど、彼は何も言わず、強い眼差しで私を見つめる。


「薫、僕は中途半端をやめる」


ついさっきまで少年の心細さを見せていた彼は今、分別ある先生に変わった。低い、意志的な男の声で、彼は伝えようとしている。

大人として、先生として、私の告白を退けたあの日のように、私の幸せが何なのか一方的に決め付けている。

私は激しく頭を左右に振った。

もう、あんな思いは嫌です。私の世界から色彩を奪わないで。あなたがくれた彩りなのに。

私の幸せが何なのか分かってほしい。


「僕は……」

「コーヒーを淹れて下さい!」

「……」


脈絡の無い要求だった。だけど私には理由がある。

彼は開きかけた口を閉じると、必死の目で訴える私を呆然と見下ろした。


「コーヒーだって?」


こんな時に何を言い出すのだと、彼は非難するように眉根を寄せた。

私は彼の前にバッグを掲げ、


「お菓子を作ってきたので、一緒に食べてください」


声も手も震えている。いろいろな事が怖くて押さえ切れないのだ。


「お菓子って……」


夜の闇に呑まれまいと、私は全力で彼にぶつかる。


「クロケ・オ・ザマンドを」




秀一さんは私を居間ではなく、客間に通した。きれいに整頓された、と言うより長い間使われていない空間なのだ。ひんやりとして、余所余所しい部屋に感じられた。

私はソファの端に座り、彼がどうして客間に連れて来たのか考える。だけど、すぐに止めた。考えたら挫けてしまいそうだから。


いい香りが漂ってきた。コーヒーポットを運んできた秀一さんが、私の斜め前に腰掛けた。

私と目を合わせず、ひと言も口を利かず、緊張の面持ちでいる。

彼はテーブルにソーサーを並べると、カップをセットした。


「あっ」


その器を見て、私は小さく叫んだ。

秀一さんがコーヒーを注いでくれたのは、波のレリーフが施された真っ白なペアカップ。彼と私の、二人だけの器だった。


「秀一さん」


彼は微かに顎を引いた。

冷えかけた心に、温もりが広がる。柔らかな湯気を追いながら、私は自分を励ます。まだ大丈夫だと――


「留学の話、初めて聞きました」


秀一さんはゆっくりと目を上げた。

揺れる瞳に、私は甘やかな痛みを覚える。彼女も、こんな感情を持ったのだろうか。


「どうして今になって、話してくれたんですか」


私の問いに、彼は力なく笑った。


「君に誤解されるのを恐れて、これまで話せなかった。だけど、結局隠すことで余計に不安にさせてしまうのだと、あの夜やっと気づいたから」

「……私のために、話さないでいたのね」


秀一さんは「ああ」と短く返事をすると、コーヒーにミルクを加えた。褐色の底に白い筋が沈むのを、じっと見ている。スプーンでかき混ぜることもせず。

やはり、この人は私を猜疑心や誤解から守るために、留学の話を避けていたのだ。


「家族愛だったんですね」


ベアトリス・エーメとの関係を、この人はしっかりと伝えてくれた。『特別な愛情』が家族愛であったこと。恋人だったのは本当でも、その愛の種類は家族同士のそれだった。

そう捉えてもいいのですね。

彼はカップを持ち上げると、コーヒーを含んだ。

いくら鈍い私にも通じる、それは答えを躊躇う仕草であり、同時に否定の反応でもあった。


「違うんですか」

「薫」


カップをソーサーに戻すと、真正面から私を見据えた。


「そう、家族愛だった。僕はベアを実の姉のように慕っていたし、最後までそれは、間違いの無い事実だよ」


緊張から解放されたが、私はまだ身構えている。この人は直ぐに答えなかった。


「冷めてしまうよ。飲んで」


促されて、カップを見やった。マルセルの声が耳によみがえる。彼と交わした約束も。

体から余分な力を抜いた。落ち着いてと自分に言い聞かせた。

秀一さんは私を愛している。大丈夫。

今度こそ、彼を信じる……

バッグを引き寄せると、和紙でラッピングした贈り物を取り出す。手の平に乗せ、はっとした表情になる秀一さんにまっすぐに差し出した。


「薫」


中にあるのが何なのか、彼はもう知っている。困惑の視線を、贈り主である私に投げかけている。


「どういうつもりなんだ」


困惑の中に苛立ちが滲む。だけど、私は引かない。


「あの人を……ベアトリスを愛する人に、頼まれたんです。彼女を、解放してくれと」

「なに?」


目を大きく見開き、和紙の包みを睨むようにした。驚くのは無理もない。

秀一さんはマルセルを知らない。

彼が自分に似ていることも、ベアトリスを愛していることも、そして苦しんでいることも知らないのだから。

彼はしかし、受け取った。壊れ物のようにそっとテーブルに置くと、リボンを解き始める。

和紙が広がり、彼が大好きだというフランスの焼き菓子が現れた。


「ああ……」


懐かしさ、驚き、言葉では表現できない感情が彼から溢れ出す。その無防備な姿は、まるで時空の魔法にかけられ、一人の画学生に戻ってしまったかのよう。

彼はこの瞬間、ベアトリス最愛の恋人、ノエルになった。


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