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決断
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エレベーターのかごが到着した。マルセルは私と一緒に乗り込み、乗り合わせた客から庇うようにして立つ。
「買い物をするんでしょう? せっかくだから、お付き合いしますよ」
「えっ、いいんですか?」
「うん。どうせ暇だからね」
至近距離で微笑むマルセルから、何となく目を逸らした。
「おや、どうかしましたか」
「……いえ、何でもないです」
クスッと笑われた。だが鼻で笑われたのではない。彼の私に対する態度が明らかに変化している。
「どんなお菓子を買うの?」
「えっと……お客様に出すような、ちょっといいお菓子です」
「ショコラ、ジュレ、それとも……ガトー?」
マルセルは面白そうに菓子の種類を口にする。私はあることに気づいて、パッと顔を上げた。
なぜこの人は、私がお菓子を買うと分かったのだろう。
エレベーターが一階に到着した。かごを降りてから、私は尋ねてみた。
「どうしてと訊かれると、困るな」
「困る……ですか?」
買い物客が行き交うフロアに目をやりながら、彼は正直に答えた。
「カオルは洋服やアクセサリーより、お菓子が好きそうな気がして」
「……」
色気より食い気と言うことだ。
彼の言いようが可笑しくて、ぷっと吹き出す。そんな風に見られていたとは。
「すまない、カオル。フフ……」
マルセルも詫びつつ笑っている。それはやはり、優しい微笑みだった。
「しかし、いいお菓子というのは、自分が食べるお菓子ではありませんね。どなたかへの贈りものですか」
「あ、ええ……」
今のマルセルになら、話しても構わないと思った。
「明日、秀一さんと私の家族とで食事会をするのです。そのとき彼に出す茶菓子を選ぼうと、ここにきました」
「彼と君のご家族……と言うと、要するにそれは」
「ええ」
私がぎこちなく頷くと、彼は表情を曇らせた。
「しかし、今君達は、喧嘩をしているのでは?」
「はい。そうなんですけど」
この状況で結婚の話が進んでいる事実に、マルセルは言葉もないようだ。
彼は息をつくと、何ごとか思案し始める。
「そうですか。それでお菓子をね……お菓子か……」
突然、彼は指を鳴らした。
「閃いたよカオル。私がいいことを教えよう」
「え?」
「ノエルの誕生日を知っていますか」
「えっ、えっ、あの……生まれた日ですか?」
勢いに押され、分かりきったことを訊き返す私に、マルセルは真面目な声で言った。
「2月6日です。毎年その日に、私は社長から特別なスケジュール調整を命じられる」
「?」
地下二階の食料品売り場に行くよう彼にすすめられてから、私たちは別れた。私がエスカレーターに乗り、互いの顔が見えなくなるまで彼は手を振っていた。
(ありがとう、マルセル。きっと良い結果を報告します。必ず、大丈夫だから)
心の中で、強く何度も繰り返す。それは、自分を励ます言葉でもあった。
銘店が並ぶ地下一階を通り過ぎ、地下二階の食料品売り場まで下りた。
マルセルとの会話を思い出す。
『毎年2月6日になると、社長は必ず、どんなに仕事が忙しくてもスケジュールを調整して台所に入る』
『台所?』
『そう、お菓子作りをするためだよ。特別なね』
ヒントは2月6日。秀一さんの誕生日。お菓子作り。
『ノエルは甘いお菓子がお好みらしい。中でもクロケ・オ・ザマンドが大好きだった。社長は毎年、彼の誕生日になるとそれを手作りして茶菓子にする』
クロケ・オ・ザマンド――初めて聞く菓子の名前だった。
『私にとって2月6日は、一年で最も苦痛の日だ。社長の頭はノエルのことでいっぱいになる。私は完全に閉め出され、物思いにふける彼女をただ見守るしかないのだから』
彼は寂しそうに言うと、スマートフォンを取り出して素早くタップした。
『これで良い』
私のポケットからメールの着信音が響く。
『あれ?』
『作り方は難しくない。材料もすぐに揃うだろう』
メールのタイトルは"Croquets aux amandes"
『recette……レシピだよ』
本文には、ごく簡単にだが、必要な材料とその分量、作る手順が書かれていた。もちろん、クロケ・オ・ザマンドという焼き菓子の。
つまりこのメールは、今、目の前にいるこの人から届いたのだ。
『そのレシピは社長オリジナルのもので、恋人だった頃、ノエルに手作りしていたようだ。懐かしいお菓子が、彼の心にどう作用するかは分からない。だが、試してみる価値はある』
私は同意したが、少し不安もあった。
秀一さんはどう思うだろう。
この菓子を、ベアトリスのレシピで私が作り、差し出したなら、彼は……
マルセルはしかしこれで決定だと、スマートフォンをポケットに仕舞った。
『口であれこれ言うより、よほど説得力があるよ。良い報告を待ってるからね』
◇ ◇ ◇
8月30日 日曜日
夜が明けて間もない早朝。
私はひとり台所に立ち、冷蔵庫に貼り付けたレシピメモを何度も確認した。
「よし、頑張るぞ」
クロケ・オ・ザマンド――
ネットで検索すると写真が出てくる。
いくつか見つけたが、どれも微妙に形状が違っている。立方体、スライスしたものなど。
アーモンドが使われるのが特徴のようで、食感はサクサク、あるいはホロリとするらしい。フランスのブルゴーニュ地方で生まれた伝統的なお菓子であり、家庭でも手作りされるとのこと。
実は昨日、試しに作ってみた。焼きかげんが難しくて、少し焦がしてしまった。
両親に試食してもらうと、「クロケというより黒焦げだねえ」と、渋い顔をされた。やはりちゃんとしたお菓子をお出しするべきだ、と言う母を説得して何度も練習し、今日を迎えたのだ。
私はエプロンを着けて腕まくりする。
材料を量り、混ぜ合わせ、焼き上げるというシンプルな作業を手早く進める。何度も試作しているのでスムーズだ。
秀一さんが大好きだと言うフランスの焼き菓子。ベアトリス・エーメは彼の誕生日に手作りし、彼を思いながら、今でもこの味を噛みしめている。
アーモンドの他に、胡桃とヘーゼルナッツを加えた。
マルセルが私に教えたレシピは、そのままベアトリス手作りの味になる。いや、正確に言えば、秀一さん好みの味に。
もっとも、上手く調理できたらの話ではあるが……
美味しく出来るだろうか。
材料の質も、調理器具も違う。
何より作り手が違う……
だけど大丈夫。
オーブンの中で焼き上がる菓子を見ながら、私は直感した。
この菓子をひと口食べるだけで、ベアトリスとの思い出が、必ず秀一さんの中で再現されると。
「買い物をするんでしょう? せっかくだから、お付き合いしますよ」
「えっ、いいんですか?」
「うん。どうせ暇だからね」
至近距離で微笑むマルセルから、何となく目を逸らした。
「おや、どうかしましたか」
「……いえ、何でもないです」
クスッと笑われた。だが鼻で笑われたのではない。彼の私に対する態度が明らかに変化している。
「どんなお菓子を買うの?」
「えっと……お客様に出すような、ちょっといいお菓子です」
「ショコラ、ジュレ、それとも……ガトー?」
マルセルは面白そうに菓子の種類を口にする。私はあることに気づいて、パッと顔を上げた。
なぜこの人は、私がお菓子を買うと分かったのだろう。
エレベーターが一階に到着した。かごを降りてから、私は尋ねてみた。
「どうしてと訊かれると、困るな」
「困る……ですか?」
買い物客が行き交うフロアに目をやりながら、彼は正直に答えた。
「カオルは洋服やアクセサリーより、お菓子が好きそうな気がして」
「……」
色気より食い気と言うことだ。
彼の言いようが可笑しくて、ぷっと吹き出す。そんな風に見られていたとは。
「すまない、カオル。フフ……」
マルセルも詫びつつ笑っている。それはやはり、優しい微笑みだった。
「しかし、いいお菓子というのは、自分が食べるお菓子ではありませんね。どなたかへの贈りものですか」
「あ、ええ……」
今のマルセルになら、話しても構わないと思った。
「明日、秀一さんと私の家族とで食事会をするのです。そのとき彼に出す茶菓子を選ぼうと、ここにきました」
「彼と君のご家族……と言うと、要するにそれは」
「ええ」
私がぎこちなく頷くと、彼は表情を曇らせた。
「しかし、今君達は、喧嘩をしているのでは?」
「はい。そうなんですけど」
この状況で結婚の話が進んでいる事実に、マルセルは言葉もないようだ。
彼は息をつくと、何ごとか思案し始める。
「そうですか。それでお菓子をね……お菓子か……」
突然、彼は指を鳴らした。
「閃いたよカオル。私がいいことを教えよう」
「え?」
「ノエルの誕生日を知っていますか」
「えっ、えっ、あの……生まれた日ですか?」
勢いに押され、分かりきったことを訊き返す私に、マルセルは真面目な声で言った。
「2月6日です。毎年その日に、私は社長から特別なスケジュール調整を命じられる」
「?」
地下二階の食料品売り場に行くよう彼にすすめられてから、私たちは別れた。私がエスカレーターに乗り、互いの顔が見えなくなるまで彼は手を振っていた。
(ありがとう、マルセル。きっと良い結果を報告します。必ず、大丈夫だから)
心の中で、強く何度も繰り返す。それは、自分を励ます言葉でもあった。
銘店が並ぶ地下一階を通り過ぎ、地下二階の食料品売り場まで下りた。
マルセルとの会話を思い出す。
『毎年2月6日になると、社長は必ず、どんなに仕事が忙しくてもスケジュールを調整して台所に入る』
『台所?』
『そう、お菓子作りをするためだよ。特別なね』
ヒントは2月6日。秀一さんの誕生日。お菓子作り。
『ノエルは甘いお菓子がお好みらしい。中でもクロケ・オ・ザマンドが大好きだった。社長は毎年、彼の誕生日になるとそれを手作りして茶菓子にする』
クロケ・オ・ザマンド――初めて聞く菓子の名前だった。
『私にとって2月6日は、一年で最も苦痛の日だ。社長の頭はノエルのことでいっぱいになる。私は完全に閉め出され、物思いにふける彼女をただ見守るしかないのだから』
彼は寂しそうに言うと、スマートフォンを取り出して素早くタップした。
『これで良い』
私のポケットからメールの着信音が響く。
『あれ?』
『作り方は難しくない。材料もすぐに揃うだろう』
メールのタイトルは"Croquets aux amandes"
『recette……レシピだよ』
本文には、ごく簡単にだが、必要な材料とその分量、作る手順が書かれていた。もちろん、クロケ・オ・ザマンドという焼き菓子の。
つまりこのメールは、今、目の前にいるこの人から届いたのだ。
『そのレシピは社長オリジナルのもので、恋人だった頃、ノエルに手作りしていたようだ。懐かしいお菓子が、彼の心にどう作用するかは分からない。だが、試してみる価値はある』
私は同意したが、少し不安もあった。
秀一さんはどう思うだろう。
この菓子を、ベアトリスのレシピで私が作り、差し出したなら、彼は……
マルセルはしかしこれで決定だと、スマートフォンをポケットに仕舞った。
『口であれこれ言うより、よほど説得力があるよ。良い報告を待ってるからね』
◇ ◇ ◇
8月30日 日曜日
夜が明けて間もない早朝。
私はひとり台所に立ち、冷蔵庫に貼り付けたレシピメモを何度も確認した。
「よし、頑張るぞ」
クロケ・オ・ザマンド――
ネットで検索すると写真が出てくる。
いくつか見つけたが、どれも微妙に形状が違っている。立方体、スライスしたものなど。
アーモンドが使われるのが特徴のようで、食感はサクサク、あるいはホロリとするらしい。フランスのブルゴーニュ地方で生まれた伝統的なお菓子であり、家庭でも手作りされるとのこと。
実は昨日、試しに作ってみた。焼きかげんが難しくて、少し焦がしてしまった。
両親に試食してもらうと、「クロケというより黒焦げだねえ」と、渋い顔をされた。やはりちゃんとしたお菓子をお出しするべきだ、と言う母を説得して何度も練習し、今日を迎えたのだ。
私はエプロンを着けて腕まくりする。
材料を量り、混ぜ合わせ、焼き上げるというシンプルな作業を手早く進める。何度も試作しているのでスムーズだ。
秀一さんが大好きだと言うフランスの焼き菓子。ベアトリス・エーメは彼の誕生日に手作りし、彼を思いながら、今でもこの味を噛みしめている。
アーモンドの他に、胡桃とヘーゼルナッツを加えた。
マルセルが私に教えたレシピは、そのままベアトリス手作りの味になる。いや、正確に言えば、秀一さん好みの味に。
もっとも、上手く調理できたらの話ではあるが……
美味しく出来るだろうか。
材料の質も、調理器具も違う。
何より作り手が違う……
だけど大丈夫。
オーブンの中で焼き上がる菓子を見ながら、私は直感した。
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