先生

藤谷 郁

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「確かに預かりました。松山君にちゃんと渡しておくね」

真琴はストラップを丁寧に扱い、バッグに仕舞った。

それを見届けた瞬間、私は泣きたくなった。だけど必死に堪える。強くなれと彼は言っているのだ。

「実はさっき……薫に電話した時ね、後ろに松山君がいたのよ」

「そうだったの?」

「代わろうかって言ったんだけど、俺はいないことにしてくれって言うから……松山君、もう薫に会わないつもりみたい」

ずしんと、重いものが心に落ちた。会わないと決めたのは私だって同じなのに。

「寂しくなるね」

「……」

何か言うと悲しみが零れそうで、私は口を噤んだ。

「釧路に飛んで、いろいろ準備してきたって」

「……釧路」

「うん。当面は郷田さんていう中学時代の恩師のお宅に下宿するらしいわ。就職先も決めて、10月の初めに引っ越すみたい」

10月――もうどれほどもない。そんなにも早く支度を調えたなんて。

「松山君、少し痩せたかな。でも元気だよ。向こうに郷田先生が参加してるラグビーチームがあるから入るぞーなんて張り切ってるし、新しい生活に前向きになってる」

「そうなんだ」

寂しい心に明かりが灯る。彼は既に未来に向かっているのだ。

「私も……進まなきゃ」

「そうだよ。あんたも迷わず次のステップでしょ。どうなの、島先生とは」

「えっ、私は」

何と答えれば良いのか迷い、テーブルの画集に目を落とす。白地のカバーに、秀一さんの感性で彩られた夜明けの海が広がっている。

再び疑問が浮かんだ。

この海は外国の風景。その頃の彼について、私は何も知らない。

「先生と、順調なんでしょ?」

「……もちろん」

私は頷く。これ以上ないくらい順調なのは、間違いないから。

「ほんとに?」

「……」

微妙な空気を彼女は見逃さない。本当に、参ってしまう。


私は一旦部屋を出て、台所でコーヒーを淹れた。彼女の注意が逸れるのを期待して、ゆっくりと作業する。

部屋に運ぶと、マスターのベーグルサンドを二人で食べた。卵とベーコン、新鮮なレタスに玉ねぎのスライス。味付けもスパイスが効いて、とても美味しい。

「マスターって料理上手だね」

「そりゃもう、お仕事ですから……で、ほんとに順調なの?」

やはり話を戻されてしまう。真琴には敵わない。

仕方なく最近の出来事を話した。いろいろあるけれど、そのたびに絆が強まる実感がある……つまり順調であると伝えた。

「なるほど。先生との関係が、かなり深まってるのね」

「うん」

「でも……少し変わった関係ね」

「変わった関係?」

私は空のカップを片付ける手を止め、聞き返す。

「何て言うのかな。バランス的に、こう……薫が、かなり押されてる感じだね」

――押されてる。

真琴は画集を手に取り、表紙を開いた。

「薫とは長い付き合いになるけど、あんたってホント、優しいのよね」

「そ、そうかな」

「お人好しというか。ほら、あの小橋さんって人のことでもそう。あっさりと許しちゃって」

松山さんのことで嘘をついた先輩社員だ。私は謝罪を受けて、彼女を許した。確かにもう、何のわだかまりも無い。

「薫はね、優しい。人を大らかに受け入れ、許す心を持ってる。だけど裏を返せば、それは甘やかしにもなるの」

「えっ……」

「あれもこれも受け入れて、あんたが潰れちゃうのが心配なのよ」

俯きかける私の肩に手を置き、真琴が言葉を継ぐ。

「相手にとっても、いいことかどうか……もちろん、優しいのはいいことよ。お人好しなところだって私は好きだから。ただ、今の薫と先生の関係が、アンバランスな気がするの」

私はぎこちなく顎を引いた。真琴が言いたいことを理解できるから。

だけど、自分の気持ちを上手く説明できない。秀一さんを受け入れるのは、私にとっては自然で、どこにも無理がないのを体中で感じるのだ。

それが秀一さんにとっていいことかどうか、分からないけれど。

「ありがとう、真琴。心配してくれて」

「薫」

「大丈夫。きちんと考えるから」

「それなら、いいんだけど……」

彼女はどうにか納得したようで、画集を閉じる。

フランスの海――

秀一さんの画集は、フランスの海辺の風景を纏めたものだ。半分は油画、半分は鉛筆のスケッチ。美術書籍を多く扱う出版社から15年前に刊行されている。

15年前と言うと、秀一さんが25歳の頃だ。その頃、彼はどこで何をしていたのだろう。

この異国の海辺に留学生として、あるいは既に画家として佇んでいたのか……



真琴が帰ったあと、私は一人で考えあぐねた。

秀一さんについてもっと知りたい。今の彼を好きなのだから、知らなくていいのかもしれない。でも、それでもやっぱり知りたいと思う。

絵を描く人としての彼。一人の男性としての彼。過去の秀一さん。

「今、訊いてみようかな……」

スマートフォンを手に取るが、やはりためらう。

秀一さんはなぜか、過去に触れられたくない様子だ。あえてそれを探るのは、彼を困らせる行為にほかならない。

それでもアドレスを開き、ふと手を止める。
  
松山直人――

彼なら、何て言うだろう。こんな時、彼なら……


『信じればいいんだ』


ハッとして部屋を見回す。

あのぶっきら棒な口調が、耳にはっきりと聞こえた。


『一途でいろよ』


もう一度聞こえた。さっきよりも、もっとはっきりと。

「そうだよね……あなたと、約束したものね」

アドレスに残る彼の名前が、答えをくれた。

窓を見ると、雨が止み、雲間から光が射していた。



水曜日。

経理へ送る書類の整理が一段落し、私は無事に月末を迎えることができた。

今は昼休み。これから吉野さんと一緒に、近くの洋食店へランチに出かけるところだ。

「星野さん、ちょっと」

「あ、吉野さん。今行きます」

バッグを持ってカウンターを出ると、吉野さんが妙な顔でドアを指さす。

「あなたに、外国のお客様が来てるんだけど」

「えっ?」

「ほら、あの車」

ドアを開けて外を覗くと、会社前の道路に車が一台停まっている。高級そうな黒塗りの車である。

「営業の人が対応したんだけど、外国人の男性が、カオルさんはいますかって訊いたらしいよ」

「カオル……私ですか」

「うん。この営業所でカオルっていうと、あなたしかいないでしょ」

(外国人の男性?)

私は外国人に知り合いはいない。一体どういうことだろう。

「車で待ってるから呼んでくださいと言われたらしいの。どうする?」

「で、でも、誰なのか分からないし」

私が戸惑っていると、吉野さんがぽんと手を叩いた。

「そうそう、ベアトリスって名乗られたそうよ。でも、それって女性の名前だよね?」



吉野さんに謝り、一人で食事に出かけてもらった。

ベアトリスという名に聞き覚えのある私は、とりあえず会社前の道路まで出て、高級車の横に立つ。後部席に人影があった。さらに近づこうとすると、運転席のドアがいきなり開いた。

車を降りたのは、スーツを着た若い外国人男性だ。

彼は私のそばに立ち、親しげに微笑んだ。

「こんにちは、カオルさん。突然の訪問をお許しください。私はパリのエトワール画廊の社長付き秘書でマルセル・ロベールと申します」

流暢な日本語に驚き、私は彼の姿をあらためて見直す。端整な顔立ちに、黒髪、黒い瞳。物腰穏やかな態度が、どことなく秀一さんに似ていると思った。

「実は、社長が是非あなたにお会いしたいとのことで、訪ねてまいりました。少し、お時間をいただけないでしょうか」

マルセルと名乗る青年秘書は、後部席の窓にちらと目線を流す。

「ベアトリス……さんですか?」

「はい」

彼は頷くと、「どうぞ」と、車に乗るよう促した。

どこか遠くへ移動するのだ。私はさすがにためらい、後退りする。

「決して怪しいものではありません。この方は、あなたの……」

警戒する私に彼が説明をしようとした時、後部席のドアが開いた。

グレーのスーツに身を包んだその女性は、白い顔にサングラスをかけ、金色の髪を後ろに結い上げている。背はそれほど高くないが、姿勢が良く、彼女の周りだけ特別な空気が取り巻いているかのよう。

(なんて目立つ人だろう……)

彼女の体から発するオーラに、私は圧倒された。

「社長……」

何か言おうとする秘書を下がらせ、彼女は淡い色の唇を開く。

「はじめまして、カオルさん」

日本語だった。秘書の彼よりもイントネーションが滑らかだ。短いセンテンスにもよく表れている。

ぼうっと見惚れる私にベアトリスは微笑み、低い声で囁いた。

「カオル。あなたに、会いたかった」

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