先生

藤谷 郁

文字の大きさ
上 下
72 / 104
暗色

3

しおりを挟む
帰る準備をして玄関で待っていると、秀一さんが廊下を歩いてきた。そして、私を観察するように見回す。

「薫、ちょっと来て」

「えっ?」

「髪がボサボサだぞ」

私の後頭部を撫でて、可笑しそうに笑う。

「あ……」

洋服ばかりに気を取られ、髪を整えるのを忘れていた。男の人に指摘されて、すごく恥ずかしい。

秀一さんは洗面台の前に私を連れて行き、髪を梳いてくれた。

「僕のブラシで悪いけど」

「すみません」

ブラシも忘れてしまった私は、さらに縮こまる。

「髪をきれいにしておけば、化粧なんていらないくらいきちんとして見えるだろ」

前髪も元のように分けて、横に流してくれた。意外な言葉と器用な手つきに、私はきょとんとする。

「はい、出来上がり」

玄関に戻ると、秀一さんは私のサンダルを履きやすいように揃えてくれた。

「あ、ありがとう」

「どういたしまして」

秀一さんは案外、家事や身だしなみにまめな人なのだ。それも、自分だけでなく相手にも。つまり、身近にいる女性に対して。

(でも、どうしてだろ。学生時代の秀一さんは、そんなこと気にしなかったはず)


私は車に乗り込んだあと、その疑問を投げかけた。

「それは、学生の頃がひど過ぎたから。反省して、少しは気にするようになったんだ。いや、そんなたいした事はしてないよ。今でも教室ではボロばかり着てるだろ。はは……」

彼はなぜか動揺した。過去とのギャップを指摘され、照れたのかもしれない。

「何かきっかけがあったのですか」

「えっ、きっかけ……?」

気のせいか、頬がひきつったように見えた。

「秀一さん?」

この狼狽ぶり。訊いてはいけないことだったのかと、私は焦った。

「あの……ごめんなさい、もういいです」

「いや、違うんだ。その」

秀一さんには珍しい態度である。今日はいろいろな秀一さんを見る日だと思った。

「本当に……たいした事じゃないんだ」

(どうしたんだろ)

よく分からないが、私は深く考えずに話題を切り替える。

そのうちまた話してくれるだろうと思った。



土曜日の街に、明かりがともり始めた。

車も人も賑やかで、全体的に浮き浮きしているように見える。

(秀一さんと、ゆっくりデートしたいな)

贅沢なことを考えてしまう。今日だって、あんなにも濃密な時間を過ごしたというのに。

だけど、彼とどこか遠くに出掛けたいという願望があった。いつもと違う場所で、二人きりになりたい。

「ふう」

ため息が漏れてしまい、ぱっと口を押さえた。

「疲れたのか?」

秀一さんは、疲労のため息と受け取ったようだ。

「明日、会社は休みだね?」

「うん」

何の予定も無いが、明日はしっかりと休養しなければ。来週も仕事が忙しい。

「僕は明日も教室がある。午前中は庭の草むしりでもするかなあ」

「草むしり?」

「草がボウボウだったろ。庭の手入れが後回しになってるから」

秀一さんの家は敷地が広い。草を抜いてきれいにすれば、立派な庭が作れそうだ。

「芝生を張って、花壇を作って、木を植えて……木は楓にしようかな」

ハンドルを繰りながら楽しそうに話す。いい笑顔だと思った。

「君はどう思う?」

「え……」

急に話を振られ、ぽかんとする。

「え……って、あの家はその、君の家にもなるんだから」

「あっ」

どういう意味かすぐに理解して、慌てて詫びた。

「ごめんなさい。秀一さんがあまりにも楽しそうだからつい、見惚れてしまって」

「そ、そうかい」

「うん」

ちょっと恥ずかしそうだが、晴れた顔になった。

「それじゃ、君ならどんな庭がいい?」

「あ、私は……えっとね……」

私は近い将来、あの家で彼と一緒に暮らすのだ。ともに生活する日々を思い描き、何だかぼうっとしてくる。

「薫」

信号待ちで車を停めると、秀一さんが左手を伸ばし、私の額に軽く当てた。

「熱は無いね」

「え?」

「大丈夫かな。相当疲れてる感じだ」

「だ、大丈夫です。ちょっとぼんやりしてただけで……」

顔を覗き込まれて、ドキドキした。この人は、本気で心配している。

「顔が赤いな」

(それは、あなたのせいです)

熱くなる頬を両手で隠し、胸で呟く。私の中に、片思いだった頃のときめきがまだ残っているのだ。

でも、大事にとっておきたい気持ちだと思う。


それから秀一さんは、しばらく黙っていた。

私も話しかけることはせず、フロントガラスを見つめる。きっと、大切なことを考えているのだろう。


私の家に着くと、秀一さんはエンジンを切り、シートベルトを外してこちらを向いた。

「薫」

「は、はい」

「君も分かってると思うけど……今日、僕は避妊をしなかった」

「あ……」

急にどうしたのだろう。秀一さんのまっすぐな眼差しを、おずおずと見返す。

そのことは、私も気が付いていた。

「どうしてか分かるか」

「……」

この人は、決して無責任な人ではない。そして、女の身体をよく理解している。

「僕は、君の体調を知っている」

そんな気がした。この人は、きっと何もかも知っている。どうしてそれを把握できるのか、不思議だけれど。

「でも、人の体は機械じゃない。周期的なずれがあるし、環境にも影響される。つまり、絶対では無いということだ」

私は黙って頷く。生理は機械のように規則正しくは巡らない。

「君は受身だったけど、その辺りは承知していると思う。そうだね」

「はい」

私の返事に彼は微笑み、瞳に優しい色を浮かべた。

「庭に……ゆりかごを置こうかな」

「え……」

あの家の庭に、ゆりかごを。

彼はつまり、『家族』を想定している。

「早く、一緒に暮らそう」

「秀一さん」

次の木曜日まで待てるだろうか。この人に会いたい気持ちを、セーブできるだろうか。

甘いキスを受けながら、彼へのときめきがますます高鳴るのだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

再会したスパダリ社長は強引なプロポーズで私を離す気はないようです

星空永遠
恋愛
6年前、ホームレスだった藤堂樹と出会い、一緒に暮らしていた。しかし、ある日突然、藤堂は桜井千夏の前から姿を消した。それから6年ぶりに再会した藤堂は藤堂ブランド化粧品の社長になっていた!?結婚を前提に交際した二人は45階建てのタマワン最上階で再び同棲を始める。千夏が知らない世界を藤堂は教え、藤堂のスパダリ加減に沼っていく千夏。藤堂は千夏が好きすぎる故に溺愛を超える執着愛で毎日のように愛を囁き続けた。 2024年4月21日 公開 2024年4月21日 完結 ☆ベリーズカフェ、魔法のiらんどにて同作品掲載中。

先生!放課後の隣の教室から女子の喘ぎ声が聴こえました…

ヘロディア
恋愛
居残りを余儀なくされた高校生の主人公。 しかし、隣の部屋からかすかに女子の喘ぎ声が聴こえてくるのであった。 気になって覗いてみた主人公は、衝撃的な光景を目の当たりにする…

恋人の水着は想像以上に刺激的だった

ヘロディア
恋愛
プールにデートに行くことになった主人公と恋人。 恋人の水着が刺激的すぎた主人公は…

車の中で会社の後輩を喘がせている

ヘロディア
恋愛
会社の後輩と”そういう”関係にある主人公。 彼らはどこでも交わっていく…

美少女幼馴染が火照って喘いでいる

サドラ
恋愛
高校生の主人公。ある日、風でも引いてそうな幼馴染の姿を見るがその後、彼女の家から変な喘ぎ声が聞こえてくるー

彼氏の前でどんどんスカートがめくれていく

ヘロディア
恋愛
初めて彼氏をデートに誘った主人公。衣装もバッチリ、メイクもバッチリとしたところだったが、彼女を屈辱的な出来事が襲うー

ただいま冷徹上司を調・教・中!

伊吹美香
恋愛
同期から男を寝取られ棄てられた崖っぷちOL 久瀬千尋(くぜちひろ)28歳    × 容姿端麗で仕事もでき一目置かれる恋愛下手課長 平嶋凱莉(ひらしまかいり)35歳 二人はひょんなことから(仮)恋人になることに。 今まで知らなかった素顔を知るたびに、二人の関係は近くなる。 意地と恥から始まった(仮)恋人は(本)恋人になれるのか?

結構な性欲で

ヘロディア
恋愛
美人の二十代の人妻である会社の先輩の一晩を独占することになった主人公。 執拗に責めまくるのであった。 彼女の喘ぎ声は官能的で…

処理中です...