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暗色
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帰る準備をして玄関で待っていると、秀一さんが廊下を歩いてきた。そして、私を観察するように見回す。
「薫、ちょっと来て」
「えっ?」
「髪がボサボサだぞ」
私の後頭部を撫でて、可笑しそうに笑う。
「あ……」
洋服ばかりに気を取られ、髪を整えるのを忘れていた。男の人に指摘されて、すごく恥ずかしい。
秀一さんは洗面台の前に私を連れて行き、髪を梳いてくれた。
「僕のブラシで悪いけど」
「すみません」
ブラシも忘れてしまった私は、さらに縮こまる。
「髪をきれいにしておけば、化粧なんていらないくらいきちんとして見えるだろ」
前髪も元のように分けて、横に流してくれた。意外な言葉と器用な手つきに、私はきょとんとする。
「はい、出来上がり」
玄関に戻ると、秀一さんは私のサンダルを履きやすいように揃えてくれた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
秀一さんは案外、家事や身だしなみにまめな人なのだ。それも、自分だけでなく相手にも。つまり、身近にいる女性に対して。
(でも、どうしてだろ。学生時代の秀一さんは、そんなこと気にしなかったはず)
私は車に乗り込んだあと、その疑問を投げかけた。
「それは、学生の頃がひど過ぎたから。反省して、少しは気にするようになったんだ。いや、そんなたいした事はしてないよ。今でも教室ではボロばかり着てるだろ。はは……」
彼はなぜか動揺した。過去とのギャップを指摘され、照れたのかもしれない。
「何かきっかけがあったのですか」
「えっ、きっかけ……?」
気のせいか、頬がひきつったように見えた。
「秀一さん?」
この狼狽ぶり。訊いてはいけないことだったのかと、私は焦った。
「あの……ごめんなさい、もういいです」
「いや、違うんだ。その」
秀一さんには珍しい態度である。今日はいろいろな秀一さんを見る日だと思った。
「本当に……たいした事じゃないんだ」
(どうしたんだろ)
よく分からないが、私は深く考えずに話題を切り替える。
そのうちまた話してくれるだろうと思った。
土曜日の街に、明かりがともり始めた。
車も人も賑やかで、全体的に浮き浮きしているように見える。
(秀一さんと、ゆっくりデートしたいな)
贅沢なことを考えてしまう。今日だって、あんなにも濃密な時間を過ごしたというのに。
だけど、彼とどこか遠くに出掛けたいという願望があった。いつもと違う場所で、二人きりになりたい。
「ふう」
ため息が漏れてしまい、ぱっと口を押さえた。
「疲れたのか?」
秀一さんは、疲労のため息と受け取ったようだ。
「明日、会社は休みだね?」
「うん」
何の予定も無いが、明日はしっかりと休養しなければ。来週も仕事が忙しい。
「僕は明日も教室がある。午前中は庭の草むしりでもするかなあ」
「草むしり?」
「草がボウボウだったろ。庭の手入れが後回しになってるから」
秀一さんの家は敷地が広い。草を抜いてきれいにすれば、立派な庭が作れそうだ。
「芝生を張って、花壇を作って、木を植えて……木は楓にしようかな」
ハンドルを繰りながら楽しそうに話す。いい笑顔だと思った。
「君はどう思う?」
「え……」
急に話を振られ、ぽかんとする。
「え……って、あの家はその、君の家にもなるんだから」
「あっ」
どういう意味かすぐに理解して、慌てて詫びた。
「ごめんなさい。秀一さんがあまりにも楽しそうだからつい、見惚れてしまって」
「そ、そうかい」
「うん」
ちょっと恥ずかしそうだが、晴れた顔になった。
「それじゃ、君ならどんな庭がいい?」
「あ、私は……えっとね……」
私は近い将来、あの家で彼と一緒に暮らすのだ。ともに生活する日々を思い描き、何だかぼうっとしてくる。
「薫」
信号待ちで車を停めると、秀一さんが左手を伸ばし、私の額に軽く当てた。
「熱は無いね」
「え?」
「大丈夫かな。相当疲れてる感じだ」
「だ、大丈夫です。ちょっとぼんやりしてただけで……」
顔を覗き込まれて、ドキドキした。この人は、本気で心配している。
「顔が赤いな」
(それは、あなたのせいです)
熱くなる頬を両手で隠し、胸で呟く。私の中に、片思いだった頃のときめきがまだ残っているのだ。
でも、大事にとっておきたい気持ちだと思う。
それから秀一さんは、しばらく黙っていた。
私も話しかけることはせず、フロントガラスを見つめる。きっと、大切なことを考えているのだろう。
私の家に着くと、秀一さんはエンジンを切り、シートベルトを外してこちらを向いた。
「薫」
「は、はい」
「君も分かってると思うけど……今日、僕は避妊をしなかった」
「あ……」
急にどうしたのだろう。秀一さんのまっすぐな眼差しを、おずおずと見返す。
そのことは、私も気が付いていた。
「どうしてか分かるか」
「……」
この人は、決して無責任な人ではない。そして、女の身体をよく理解している。
「僕は、君の体調を知っている」
そんな気がした。この人は、きっと何もかも知っている。どうしてそれを把握できるのか、不思議だけれど。
「でも、人の体は機械じゃない。周期的なずれがあるし、環境にも影響される。つまり、絶対では無いということだ」
私は黙って頷く。生理は機械のように規則正しくは巡らない。
「君は受身だったけど、その辺りは承知していると思う。そうだね」
「はい」
私の返事に彼は微笑み、瞳に優しい色を浮かべた。
「庭に……ゆりかごを置こうかな」
「え……」
あの家の庭に、ゆりかごを。
彼はつまり、『家族』を想定している。
「早く、一緒に暮らそう」
「秀一さん」
次の木曜日まで待てるだろうか。この人に会いたい気持ちを、セーブできるだろうか。
甘いキスを受けながら、彼へのときめきがますます高鳴るのだった。
「薫、ちょっと来て」
「えっ?」
「髪がボサボサだぞ」
私の後頭部を撫でて、可笑しそうに笑う。
「あ……」
洋服ばかりに気を取られ、髪を整えるのを忘れていた。男の人に指摘されて、すごく恥ずかしい。
秀一さんは洗面台の前に私を連れて行き、髪を梳いてくれた。
「僕のブラシで悪いけど」
「すみません」
ブラシも忘れてしまった私は、さらに縮こまる。
「髪をきれいにしておけば、化粧なんていらないくらいきちんとして見えるだろ」
前髪も元のように分けて、横に流してくれた。意外な言葉と器用な手つきに、私はきょとんとする。
「はい、出来上がり」
玄関に戻ると、秀一さんは私のサンダルを履きやすいように揃えてくれた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
秀一さんは案外、家事や身だしなみにまめな人なのだ。それも、自分だけでなく相手にも。つまり、身近にいる女性に対して。
(でも、どうしてだろ。学生時代の秀一さんは、そんなこと気にしなかったはず)
私は車に乗り込んだあと、その疑問を投げかけた。
「それは、学生の頃がひど過ぎたから。反省して、少しは気にするようになったんだ。いや、そんなたいした事はしてないよ。今でも教室ではボロばかり着てるだろ。はは……」
彼はなぜか動揺した。過去とのギャップを指摘され、照れたのかもしれない。
「何かきっかけがあったのですか」
「えっ、きっかけ……?」
気のせいか、頬がひきつったように見えた。
「秀一さん?」
この狼狽ぶり。訊いてはいけないことだったのかと、私は焦った。
「あの……ごめんなさい、もういいです」
「いや、違うんだ。その」
秀一さんには珍しい態度である。今日はいろいろな秀一さんを見る日だと思った。
「本当に……たいした事じゃないんだ」
(どうしたんだろ)
よく分からないが、私は深く考えずに話題を切り替える。
そのうちまた話してくれるだろうと思った。
土曜日の街に、明かりがともり始めた。
車も人も賑やかで、全体的に浮き浮きしているように見える。
(秀一さんと、ゆっくりデートしたいな)
贅沢なことを考えてしまう。今日だって、あんなにも濃密な時間を過ごしたというのに。
だけど、彼とどこか遠くに出掛けたいという願望があった。いつもと違う場所で、二人きりになりたい。
「ふう」
ため息が漏れてしまい、ぱっと口を押さえた。
「疲れたのか?」
秀一さんは、疲労のため息と受け取ったようだ。
「明日、会社は休みだね?」
「うん」
何の予定も無いが、明日はしっかりと休養しなければ。来週も仕事が忙しい。
「僕は明日も教室がある。午前中は庭の草むしりでもするかなあ」
「草むしり?」
「草がボウボウだったろ。庭の手入れが後回しになってるから」
秀一さんの家は敷地が広い。草を抜いてきれいにすれば、立派な庭が作れそうだ。
「芝生を張って、花壇を作って、木を植えて……木は楓にしようかな」
ハンドルを繰りながら楽しそうに話す。いい笑顔だと思った。
「君はどう思う?」
「え……」
急に話を振られ、ぽかんとする。
「え……って、あの家はその、君の家にもなるんだから」
「あっ」
どういう意味かすぐに理解して、慌てて詫びた。
「ごめんなさい。秀一さんがあまりにも楽しそうだからつい、見惚れてしまって」
「そ、そうかい」
「うん」
ちょっと恥ずかしそうだが、晴れた顔になった。
「それじゃ、君ならどんな庭がいい?」
「あ、私は……えっとね……」
私は近い将来、あの家で彼と一緒に暮らすのだ。ともに生活する日々を思い描き、何だかぼうっとしてくる。
「薫」
信号待ちで車を停めると、秀一さんが左手を伸ばし、私の額に軽く当てた。
「熱は無いね」
「え?」
「大丈夫かな。相当疲れてる感じだ」
「だ、大丈夫です。ちょっとぼんやりしてただけで……」
顔を覗き込まれて、ドキドキした。この人は、本気で心配している。
「顔が赤いな」
(それは、あなたのせいです)
熱くなる頬を両手で隠し、胸で呟く。私の中に、片思いだった頃のときめきがまだ残っているのだ。
でも、大事にとっておきたい気持ちだと思う。
それから秀一さんは、しばらく黙っていた。
私も話しかけることはせず、フロントガラスを見つめる。きっと、大切なことを考えているのだろう。
私の家に着くと、秀一さんはエンジンを切り、シートベルトを外してこちらを向いた。
「薫」
「は、はい」
「君も分かってると思うけど……今日、僕は避妊をしなかった」
「あ……」
急にどうしたのだろう。秀一さんのまっすぐな眼差しを、おずおずと見返す。
そのことは、私も気が付いていた。
「どうしてか分かるか」
「……」
この人は、決して無責任な人ではない。そして、女の身体をよく理解している。
「僕は、君の体調を知っている」
そんな気がした。この人は、きっと何もかも知っている。どうしてそれを把握できるのか、不思議だけれど。
「でも、人の体は機械じゃない。周期的なずれがあるし、環境にも影響される。つまり、絶対では無いということだ」
私は黙って頷く。生理は機械のように規則正しくは巡らない。
「君は受身だったけど、その辺りは承知していると思う。そうだね」
「はい」
私の返事に彼は微笑み、瞳に優しい色を浮かべた。
「庭に……ゆりかごを置こうかな」
「え……」
あの家の庭に、ゆりかごを。
彼はつまり、『家族』を想定している。
「早く、一緒に暮らそう」
「秀一さん」
次の木曜日まで待てるだろうか。この人に会いたい気持ちを、セーブできるだろうか。
甘いキスを受けながら、彼へのときめきがますます高鳴るのだった。
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