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藤谷 郁

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体の初めて――それは秀一さんだ。

心の初めて――好きになった男の子は過去に何人かいるけれど、今の気持ちとは比べ物にならない。きっと、心の初めても秀一さんだ。

秀一さんにとっての『心』の初めては、竹宮夫妻の言うとおりなら私になる。

では『体』の初めては?



英子さんと別れた後、駅ビル地下のベーカリーで軽く食事をしてから、秀一さんの自宅までバスで移動した。

秀一さんは車で迎えに行くと言ってくれたが、セミナーの会場から遠回りになるので、今回はバスを使って訪ねることにする。

甘えてばかりではいけない。そんな気持ちもあった。


バス停から秀一さんの家まで徒歩10分。

緩やかな坂道を上る途中で、秀一さんが迎えに来てくれた。

「お疲れ、薫」

木漏れ日のもと、面白そうに笑っている。

暑くてへとへとになった私の姿が可笑しいのかもしれない。やはり体力を付けなくてはと、あらためて思った。


「シャワーを浴びる?」

玄関に入ると、秀一さんはからかうように提案した。

少し歩いたくらいでこんなに汗をかくとは……何だか恥ずかしい。

「うん。あ、でも着替えがないし」

「洗濯すればいいよ。今日の天気ならすぐに乾く。ほら、とにかく上がって上がって」

私の手を取り、廊下の奥へ引っ張っていった。


「シャワーの後は、これを着なさい」

脱衣籠に、例のバスローブを置いてくれた。この間と同じく、きちんと畳まれている。

私は「ありがとう」と言いながら、ふと疑問を投げかけた。

「洗濯は、いつも自分でしてるの?」

「そりゃ、もちろん。スーツやワイシャツはクリーニングに出すけど……どうして」

「あ、ううん」

考えてみれば、ずっと独り者なのだから洗濯くらいするだろう。だけど、そんな生活感のある彼の姿を、うまく想像できない。

「ほら、ちゃんと機械もある」

傍らにある洗濯機をコンコンと叩いて見せた。前にも置いてあったはずなのに、今初めて見た気がする。

「勝手に使っていいよ」

「あ、ありがとう」

「僕はリビングで待ってる。ゆっくりでいいからね」

「はい」

秀一さんが脱衣室を出たあと、私は下着まで全て脱ぎ終え、洗濯機に入れて回した。綿のブラウスとポリエステルの膝丈スカート。洗濯できる生地だし、乾くのも早いだろう。
 
バスルームに入る前、白いローブに目を留めた。

きれいに畳んである。彼は私よりずっと器用なのだと、つい見入ってしまった。

秀一さんは、家事をどこまでしているのだろう。教室では、ボタンの取れたシャツとか、袖のほつれたセーターを着ていたりするが。

そういえば、教室の外ではお洒落な洋服を身に着けている。学生時代の彼を表す「不潔」とか「ボロ雑巾」とか、そんな単語は全く当てはまらない。

私はぼんやりと考え込んだ。その時――

突然、背後のドアが勢いよく開いた。

「きゃあっ」

「おっ、ごめん」

秀一さんの声と同時に、ドアが閉まる。

小窓から陽が射す脱衣室の中、私はかあっと赤面した。タオルもなにも巻かず、素裸である。

「あ……びっくりした」

まさか、秀一さんが戻って来るとは思わなかった。彼も、私がモタモタしているとは思わなかったのだろう。

「はっ、恥ずかしい……」

慌ててバスルームに入ろうとすると、もう一度ドアの開く音がした。

さっきよりもさらにびっくりして振り向くと、秀一さんが立っている。手にしたバスタオルを見て、私のために持ってきてくれたのだと単純に考えた。

だけど……

私は目を逸らし、俯いた。

彼の視線に捉えられ、体が動かない。

「薫」

「……はい」

素裸の後姿を見せながら、私は胸が苦しくなった。どうして秀一さんがそこに立ったままでいるのか、どうして怒ったように私を呼ぶのか。

「バスルームに入って。僕も一緒に使う」

「……」

恐る恐る彼を窺う。

秀一さんはタオルを籠に放ると、ワイシャツを脱ぎ始めた。焦れたような、ぎこちない手つきになっている。

シャツを取り去り、日に焼けた肌が現れると、私は何も考えられず、何の覚悟も出来ないまま、バスルームの扉を押した。




リビングのソファに横たわる私を、秀一さんが支え起こした。

私にペットボトルのスポーツドリンクを含ませると、額に乗せた濡れタオルを取替えてくれる。

「薫」

不安そうに呼びかけ、顔を覗き込んだ。

私はのぼせてしまった。

秀一さんが言うには原因はふたつ。

ひとつはシャワーの温度が高めに設定されていたこと。そしてもうひとつは……

「僕のせいだ」

胸に私をもたれさせると、大事そうに抱きかかえた。

同じバスルームにいて、その、運動量は私よりもずっと多かったはずなのに、彼は何とも無さそうである。やはり、私の体力不足だと思う。

「秀一さんのせいじゃないの」

私は彼の胸を離れると、そっと立ち上がってみせた。さっきまでぐらぐらしていた状態が、少しは回復している。

「ほら……大丈夫です」

「座って、薫」

私の手を取り、ソファに戻した。

「無理しないで。水分を取って、横になってくれ」

濡れた髪もそのままに、はだけたローブの胸元に汗を浮かべた秀一さんが、私の世話ばかりしている。

バスルームで倒れた私に驚き、付きっきりでいるのだ。

「本当に、大丈夫かな」

手を握り、じっと見詰めるその顔はまるで、母親を心配する小さな子どものよう。潤んだ瞳に、胸がきゅんとした。

こんなに心細げな秀一さんは、初めて見る。

「ほんとに、平気だから」

安堵する彼を見て、思わずその頬を撫でた。ずっと年上の男性なのに、子どもを宥める母親の心境になってしまう。

だけど、彼はやはり大人の男だと、口付けを受けながら私は思い出す。

情熱的だった。

彼だけではない。理性を失い、我を忘れ、私は何度も彼にせがんだ。彼はその度に応え、私たちは夢中で貪り合い、求め合ったのだ。

今となってはまるで実感がない。あれは本当に自分であったのかと疑ってしまうほど。こんなにも身体は憶えているのに。

私はあらためて秀一さんを見る。彼はいつものとおり穏やかな、でも少し寂しげな微笑を浮かべた。

「びっくりしたよ。どうしようかと思った」

「ごめんなさい」

「違うよ、謝るのは僕のほうだ。君を……あんな風にしたのは」

ふいと、視線を逸らした。

「秀一さん?」

「ごめん。どうしても君には……我が儘になってしまう」

睫を伏せ、唇を結ぶ。髪の先から落ちた一粒の雫が、涙のように頬を伝った。

「平気です、私……分かっています」

「え?」

「あなたが本当は頑固で我が儘な人だって、分かっています」

きょとんとする彼に私は微笑み、種明かしをした。

「英子さんと、クロッキーでお茶を飲んだの」

「……英子さんと?」

今度は呆然とする彼が何だかとても可愛くて、可笑しくて、柔らかな気持ちになった。

「いろんなことを、聞いてしまったの」

「い、いろんなことって?」

彼は急に落ち着きをなくし、サッと立ち上がる。

「秀一さん?」

「洗濯物を干してくる。ちょっと待ってて」

私をソファに寝かせると、そそくさと部屋を出て行ってしまった。

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