先生

藤谷 郁

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黎明

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家の奥へと進むにつれ、圧迫感が強くなる。もう引き返せないような、これ以上進んではいけないような、自由を奪われる感覚。

不安になるのは、ここが先生のテリトリーだから。

私は頭を振り、密かに深呼吸した。先生は私のことをお客さんだと言った。そう、ただの客だと思えばいいのだ。

先生は何もしない。何も起きない。ただ絵を描くためだけに、私を連れて来たのだ。

ますます速くなる鼓動に困惑しつつ、私は何度も自分に言い聞かせた。



先生は私を客間に案内した。ソファに腰掛けるように言うと、庭に面した掃き出し窓を開け放ち、こもった空気を外に逃がした。

窓を開けても暑さは変わらず、私の首筋や胸元も汗ばんでくる。下着が素肌に張りつくのを感じて、もじもじした。カーディガンを脱ぎたいと思うが、脱いでしまうと下はノースリーブだ。肌を露出することになるので、それは出来ない


「それにしても暑いね」

「は、はい」


先生は窓を閉め、エアコンのスイッチを入れた。


「喉が渇いたでしょう」


振り向いて、にこりと笑う。

相変わらずどきどきしているが、いつもの先生らしい笑顔に緊張が緩み、私も何とか微笑み返すことができた。


「麦茶だけは常備してるんだ。少し待ってて」

「えっ、あの、お構いなく」


私は遠慮するが、先生は廊下に出てしまった。



「きれいなお家……」


あらためて部屋を見回す。客間は壁紙を張り替えたのか、まるで新築のよう。ソファなどの調度品も新品だ。

客間なので、普段は使わない部屋なのだろう。

先生のことだから、在宅時間の大半をアトリエで過ごすに違いない。どんなアトリエなのかとても気になる。


吹き出し始めたエアコンの冷風にほっとしていると、ドアが開いた。先生はグラスをふたつのせたトレイを手にしている。


「はい、どうぞ」

「すみません、いただきます」


本当にお客さん扱いなので恐縮する。どう振舞えばいいのだろう。


「さてと、まずは休憩だ」


先生は私の向かいにゆったりと腰掛けた。

料理店の個室と違い、ここは真実二人きりの部屋だ。

誰の話し声も、物音もしない。お茶を含む音まで大きく響きそうで、私はぎこちない動きになる。ずっとこんな状況を夢見ていたはずなのに、いざとなると気詰まりで落ち着かない。

嬉しいのに、堅苦しくなって言葉が出てこない。それどころか、まともに目も合わせられないのだ。汗が再び滲んでくるのを感じ、赤面しそうになる。

どうして私はこう、不器用なのだろう。


「星野さん」

「はいっ」


大きな声が出て、慌てて口を押さえる。

先生はくすくすと笑った。


「君は実にいいね。初めて会った時から変わらない」

「はあ……」


空になったグラスをテーブルに置く。私は膝の上で手を絡め、視線を落とした。


「星野さん」


もう一度呼んだ。

優しくて穏やかな先生の声。

緊張はまだ解けないが、私はしみじみと今の幸せを噛みしめる。

喫茶店での告白。松山さんのことを気にして、感情を露わにした先生。私をすぐに描きたいと、自分の家まで招き入れた。

本当に、本当に先生は私のことを……


「僕は初めから、君を好きだったと思う」


思わず目を上げた。あまりのタイミングに、息が止まりそうになる。

先生はもう笑っていない。

私はますます固くなるが、倒れそうな身体を気力で支え、次の言葉を待った。


「君が教室の見学に訪れた日、僕は水彩画を描いていた。あの頃、油絵の大作を仕上げたばかりで、僕は少しばかり疲れていた。安らぎがほしくて、好きな水彩画に集中していたんだ」


黄昏の中の、先生の横顔を思い出す。純粋で、何も欲さない無垢な佇まいに、私は見惚れた。


「ふと、君がいることに気が付いた。君はいつの間にか入り口に立ち、静かに僕を見守っていたね」


先生は立ち上がるとテーブルを回り込み、私の横に腰を下ろす。

こんなに間近で目を合わせるのは初めてで、私は口もきけず、動くこともできない。


「ショックを受けた」


胸の辺りを押さえ、少し笑う。

だけどすぐに真顔に戻る。


「君に、絶対に教室に入って欲しいと感じた。ショックを受け、動揺したその気持ちが何なのか分からないまま、僕は入会を熱心にすすめたよ。覚えてるかな……絵筆でコーヒーを」

「はい」


つい、笑みがこぼれる。

あの時、先生は絵筆を間違えてコーヒーカップに入れ、かき回していた。


「あんな僕は初めてで、とにかく落ち着こうとした。君と二人ぶんのコーヒーを淹れたのは、もっと引き止めたかったからだ」

「先生」


甘い呼びかけに自分でも驚く。

でも、今は甘くて蕩けそうで、どうしようもないほどの気持ちだった。

先生は腕をソファの背に回し、私を包む姿勢になる。まっすぐな眼差しに捕獲されて、微動だにできない。


「僕は君におまじないを施した。いい年をした男が馬鹿みたいと思うだろう。でも、どうしても、君に続けて欲しかったんだ。いつまでも教室に通い続けて欲しいと、強く願った」

「知らなかったです、私」


そんなの、自信のない私には分からない。分かるはずないでしょうと、責めたくなる。

それに……

私が言いたいことを察してか、先生は辛そうに唇を噛んだ。後悔の色が瞳に滲んでいる。


「君に告白された時は、夢かと思ったよ。信じられないかもしれないが、その場で抱きしめてしまいたいと……」

「あっ」


強い力が私を包んだ。

微かな油絵の具の匂いが、頬に当たる胸板から鼻先に伝わる。

それは先生の匂い。大好きな彼の力強い腕に拘束されて、恍惚と目を閉じた。
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