先生

藤谷 郁

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黎明

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喫茶店『クロッキー』は、美術大学の近くにあった。ドイツの田舎民家をイメージした、二階建ての建物である。

日曜日 午前9時50分――

約束の時間10分前に、クロッキーに到着した。先生の姿はまだ見当たらない。

楓の大木が夏の陽射しを遮る場所に移動すると、ほっと息をつく。

昨夜、よく眠れなかった。おかげで今朝は肌のコンディションが悪く、化粧ののりもいまひとつだ。


「でも、遅刻しなくてよかった」


独り言を呟いていると、駐車場に車が入ってきた。真新しいハイブリッド車が陽射しを反射させながら、目の前にとまる。

心臓が早鐘を打った。これは、島先生の車だ。

先生がドアを開けて、颯爽と降りる。

私を見て微笑んだ。

溶かしバターになりそうだ。


「ごめん、待たせたかな」


まるで恋人同士のような、いつもと違う言葉遣いに感激し、ふるふると頭を左右に振った。


「そうか、よかった」


画廊の前で会った時と同じ、真っ白なワイシャツ姿だ。本当にもう、気絶しそうに目が回る。


「星野さん?」


よろける私を、先生が支えてくれた。カーディガン越しに強い力と体温が伝わり、声を上げそうになる。


「大丈夫ですか」

「すっ、すみません」


今日一日、持つだろうか。


「さて、それじゃ入りましょう。美味しいコーヒーがありますよ」

「はいっ」


ぎくしゃくとした動きで先生のあとに続く。



広い店内は、外の暑さを忘れさせる快適な空間だった。

ブラウン系を基調とした内装が、素朴で落ち着いた雰囲気を醸す。二階部分は吹き抜けで、3分の1が客席である。

天井のシーリングファンが、涼しさを建物全体に行き渡らせていた。
 

「あら、島先生。いらっしゃいませ」

「いらっしゃい、先生」


マスターや店員が、気さくに声をかける。先生は常連客のようだ。

私達は、窓からひとつ内側の席に、向き合って座った。


「今日はさすがに学生が少ないな」


先生が周りを見て言う。

平日は美術大学の学生が多く利用するのだろう。そういえば、メニューの値段がそれほど高くない。


「僕が画学生の頃から通う店なんだ。一度改装したけど、コーヒーの味は変わらない」


正面から私を見て、説明する。足を組み、ゆったりと椅子の背にもたれ、リラックスして。休日の島先生を前に、私はまたドキドキしてきた。

店員の女性が注文を取りに来る。先ほど先生に声をかけた、恰幅のよい女性だ。


「ああら先生、珍しいこともあるわねえ。女の子と一緒だなんて」


瞳を好奇心できらりと光らせる。先生は少し困ったように、「そうだね」と頷いた。


「いつもので良いかしら」

「ええ、ブレンドで」

「お嬢さんは?」

「はい。あの、先生と一緒でお願いします」

「ウフフ……カワイイ!」


彼女は私の肩をポンと叩き、楽しそうに戻って行く。先生が照れているように見えるが、気のせいだろうか。


「あの店員さん、マスターの奥さんなんだ。僕が学生の頃からの知り合いでね」

「そうなんですか」


だから親しげなのだと、納得する。

クラシック音楽が静かに流れ始めた。管弦楽。どこかで聞いたことのある旋律に耳を傾ける。


「“展覧会の絵”だよ」

「あ……」


思い出した。確か、そんな曲名だった。


「ムソルグスキーが友人の遺作展をモチーフに作曲した、ピアノ組曲だね。これはラヴェルの編曲。間奏曲プロムナードが有名な交響曲だ」

「遺作展……あ、だから“展覧会の絵”」

「僕の好きな曲だよ」


先生が穏やかに微笑む。

ここは、先生が学生の頃から通っている、先生の好みに合ったお店なのだ。

先生の世界に入れてもらえた気がして、つい笑みがこぼれる。

今二人は、同じ世界、同じ空間にいる。誘われた時は信じられず、現実感の無いままここまで来たけれど、今、ようやく実感が湧いた。

目の前にいるこの男性は確かに島先生。出会った日からずっと憧れている、大好きな先生なのだ。


「星野さん」

「あっ、はい」


じっと見詰められた。私の姿は、瞬きもしない目の中にある。

思わず逸らしそうになるが、あまりにも距離が近すぎて、それは不可能だった。


「実は君に、頼みたいことがあって……返事はすぐでなくてもいい」

「え……」


穏やかで、落ち着いた声。でも、教室での先生と違う。まるで、一人の男性として話しかけているかのよう。

私は緊張しつつ、首を傾げた。

先生の頼みごと。私に、この人のために出来ることがあるだろうか。


「実は……」


先生は一旦、ためらうように目を伏せ、だが再び視線を上げると、はっきりと口にした。


「君を描かせてほしいんだ」


“展覧会の絵”が終わり、今度はピアノ曲になる。これは確かシューベルトだと思いながら、先生の言葉の意味を同時に考えた。


「私を……ですか」

「うん」


返事ができず、ぽかんとする私。

先生は気まずくなったのか、小さく咳払いしてから説明した。


「どこかのコンテストに出すとか、そういうのではないんだ。ただ君を描いてみたい。そう思ったから、頼んでいる。つまり……これは個人的な望みだ」

「……」

「週末に。僕の、自宅のアトリエで」

「お待たせしました~。はいどうぞ、お嬢さん」


店員の声で我に返った。


「どうかしました?」


目を丸くして見上げる私に、彼女は不思議そうに訊いた。


「いえあの、いい香りだなと思って」


慌ててカップを取り上げた。指先が震えている。


「美味しいですよ~、うちのコーヒーは。どうぞ、ごゆっくり」


にっこり笑うと、歩み去る。私と先生は、再び二人きりになった。


絵のモデル 

先生の自宅のアトリエで

週末に


言葉がグルグルして、コーヒーの味が分からない。

どう答えればいいのだろう。


「この間……」


先生はブレンドをひと口飲むとカップを置き、何も言えない私に話しかける。


「画廊の前で、会ったね」

「えっ」


真面目な表情、真面目な声。純粋な色の瞳に、私が映っている。


「あの時、僕は自覚した」

「じかく?」

「そう。僕は……」


微かに語尾を濁らせる。だが、迷いの揺らぎを振り切るように、彼は告白した。


「君に惹かれている。君のことを、教室の生徒ではなく、一人の女性として見ている」
 
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