先生

藤谷 郁

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素描

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「お、男の人って、うちの社員の人ですか?」

「そうよ。それも、複数の人達」


私は信じなかった。

それはきっと、松山さんがグラビアアイドル並みにスタイルのいい魅力的な女性と付き合ってると聞いて、僻んで言ったに違いない。

私は反論しようとしたが、小橋さんがあまりにも真剣なので、ただ唇を引き結ぶのみだった。


「彼って、この辺りの高校を出てるらしいから、誰かがどっかで聞いてきたみたい。17、8の年でもう次から次に女を取っ替え引っ替えしてたらしいよ」

「まさか!」


思わず叫んだ。松山さんはそんなことをする人じゃない。 


「でしょ? あのコワモテでさ、信じられないよね」


小橋さんは私の叫びを別の意味で受け取ったらしい。

よく見ると良い顔してるよと、見当違いな台詞が出かけたが、余計に誤解されそうなので私は黙った。


「だから、昼間は面白がって茶化しちゃったけど、忠告しようと思って。星野さんって、松山さんと凄く親密そうだから」

「しっ、親密って」


私が否定しようとすると、小橋さんは唇の前に指を立てた。そして、声を潜めて言ったのだ。


「だって、トラックのところで長いこと喋ってたじゃない、今日。それもかなり深刻そうに」

「あ、あれはですね……」


私は慌てて、弁解しようとする口を押さえた。松山さんの婚約解消について小橋さんは知らない。うっかり漏らすところだった。

それにしても、彼女はよく見ている。私はもう少し人目を気にするべきかもしれない。


「第一、松山さんには婚約者がいるじゃない。マジでやめておきなよ。遊ばれちゃうよ」


私は侮辱を感じた。私にも松山さんにも、失礼な勘繰りだと思った。不愉快な表情を見て取ったのか、小橋さんは取り繕うようにして続けた。


「これ、最近分かったことだからね。一部の人しか知らない。あなたには話したほうがいいと思って、今教えるのよ」


つまり、彼女にとっては親切心なのだ。それはわかる。顔にも声にも、どこにもからかいの要素が無い。

何も言えずに俯くと、小橋さんは私の背中をポンポンと叩き、なだめるように言った。


「彼って確かにコワモテだけど、なんていうか、男らしい魅力はあるよね。でもやっぱり恐いから、星野さん気をつけなよ」


小橋さんが先に帰った後、私はしばらく呆然としていた。松山さんについての噂。それが真実かどうかは定かではない。いや、私は信じない。

だけど、聞いてしまった噂は記憶から離れない。


――女癖が悪い。


強く頭を振ると、スケッチブックを開き、昼休みに描いた松山さんの顔をじっと見つめた。


(違う。松山さんはそんな人じゃない)


私は胸で繰り返した。確かにちょっぴりスケベだけど、心が温かくて、とても良い人だと知っている。それなのに、「飲みに行くの、やめにしようか」と、ひどい考えが頭をよぎってしまった。

7時まであと5分を切った。


「私の恩知らず!」


自分をなじると、スケッチブックを乱暴に閉じて小脇に抱え、猛ダッシュで教室へと急いだ。
 



教室に辿り着いたのは午後7時7分。遅刻してしまった。


「そんなに慌てなくても大丈夫ですよ」


息荒く詫びる私に、先生は優しく声を掛けてくれた。

私はそれでも悪いような気がして、姿勢を低くして定位置の窓際へと進む。

今日は補助講師の人が来て、教室を手伝っている。作品の仕上がり具合によっては先生の手が回らない時がある。そういった場合、助っ人を頼んでいるらしかった。

そんなわけで先生は油絵のほうを見て、私達水彩の受講生は補助の先生が見てくれる。少し残念だが仕方がない。こういう日もあるのだ。

遠藤えんどうさんは、普段は土日の担当をしている。島先生と同じ美術大学を出た、30半ばくらいの男性だ。私が指導してもらうのはこれで二回目だが、先生とはまた違った角度からアドバイスをしてくれるのが面白い。

面白いというと語弊があるが、絵を描く技法の幅が広がるという意味だ。先生と触れ合う時間は少なくなるけど、私は充実した時間を楽しんでいる。


「ええっと、星野さんは静物をたくさん描いておられますね。うん、モチーフもさまざまで奥行きのある構図もこなれてる。かなり上達していますね」


遠藤さんに最初に見てもらったのは入会して間もなくだ。あれからデッサンの数だけは重ねている。その成果が少しは出ているようで、私は嬉しくて頬を緩ませた。


「おや?」


ふと、スケッチブックのページをめくる手を止めた。


「これはなかなか……上手く描けてますねえ」


遠藤さんは開いたページをまじまじと見つめている。私は、どのスケッチのことかすぐに分からなかった。


「人物にも挑戦されているのですね」


開いたページをこちらに向けて、胸の前に掲げた。

松山さんのスケッチだ。

私はぶんぶんと手を振り、補助講師が褒めるのを否定した。


「いえ、それはなんとなく描いただけで、ちゃんとした練習ではなく……」

「えらくごつい男だね~。会社の人?」


背後から突然、市田さんの声が聞こえた。私はびっくりして後ろを向き、さらに驚く。市田さんと達川さん、そして島先生が立っている。


「これ、どうですか。人物画は難しいですけど、なかなかいい感じでしょう」


遠藤さんが先生にスケッチブックを差し出し、意見を求めた。

私は先生に渡った絵を無理に取り戻すこともできず、松山さんのスケッチが評価されるのを待つほか無い。


「ねえ、島先生」


遠藤さんがさらに促した。もう、やめてほしかった。これはモデルを前にしたちゃんとしたデッサンではない。いうなれば出鱈目なのだ。何と言われるか……


「良いんじゃないですか」


先生は微笑を浮かべると、スケッチブックを閉じて私に戻した。あっさりとした反応に、遠藤さんはぽかんとする。私も、周りに集まった受講生も同様だ。

先生は構わず、講座を進める。


「遠藤さん、僕も水彩を見たいですから、油のほうを頼みます」


油絵の皆がぞろぞろと移動して行くと、先生は水彩の指導を始めた。

私は恥ずかしかった。下手すぎて、未熟すぎて、言葉も無かったのだろう。遠藤さんを恨んでしまう。どうして先生に、あの絵を見せたのか……

唇を噛みながら、今日の課題であるティーセットと花を組み合わせたモチーフを、懸命にスケッチした。

気を散らすなら絵に集中するのが一番だ。



「どこかで見たと思った」

ハッとして顔を上げる。

先生が私の横に来て、パイプ椅子に腰掛けていた。いつの間にそばに来たのか、本当に気付かなかった。


「あ、島先生……」


私の画板から彩色途中の絵を抜き取ると、顎に手を当て考えはじめた。


「あの、どうでしょうか」


難しい顔で考え込む先生に、私は不安になって声をかけた。だが、返ってきた言葉は絵の評価ではなかった。


「宅配便の人だね」

「え……」


私はぽかんとするが、すぐにスケッチブックの松山さんのことだと分かった。


「はい、そうです。あ、私の会社に荷物を届けてくれるドライバーさんです。先生のところにも配達に来ると言っていました」

「うん、そうだ。あの人だ。よく描けてる」


先生は静物画から視線を外し、私を見た。

どきりとした。

絵を評価したり、受講生を指導する時、先生の瞳にはきらりとした輝きがいつもある。それは彼の熱心さの表れであり、私達はその光に呼応するように、絵の制作に取り組んでいる。

だけど、今の先生の眼差しはあまりにも静かで、まるで夜の凪いだ海を思わせるような、沈んだ色をしている。


「すみません」


なぜか謝っていた。どうしてか、自分が悪いような気がして。


「どうして謝る?」


先生が訊く。目の色と同じ、静かで沈んだ声。

私は困惑した。どうしてなのか、自分でも分からず困惑した。


「人物画はね、難しい。嘘をつけない。誤魔化しても、すぐに見破られる」


傍らに置いた私のスケッチブックを取り上げると、先生はぱらぱらとめくり、松山さんのページで手を止めた。


「この絵には嘘が無い。君の見たままの彼だ」


私はぼんやりとしたまま、先生が話すのを聞いている。これは、絵の指導だろうか、それとも……


「きれいな男だ」


先生はスケッチブックを閉じて、私の手に戻す。

そして立ち上がると、他の受講生のほうへすたすたと歩いて行った。


今のはどういうことだろう。


私は描きかけの水彩画をそのままに、今言われた言葉について繰り返し考える。

それ以降、練習にならなかった。
 
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