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告白
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先生に押さえ込まれている。
雲のようなベッドの上、何も身に着けていないあられもない姿。
動きを封じられ、上手く声が出せない。
(どうして……)
一瞬の疑問はすぐに消える。
そんなことはどうでも良いことであり、私はただうっとりとして、先生を見上げた。いつもの作業着、いつもの袖口のほつれたセーター、油絵の具の匂い。優しい眼差しで私を見下ろしている。
信じられない。先生も私を好きだったなんて。
「先生」
女の声が聞こえる。私の声だ……私がこんな声を出すなんて。
先生は私を抱きしめ、いつものように囁いた。
「そうそう、その調子ですよ、星野さん」
……いつものように?
ベッドが揺れているのか、世界が揺れているのか判然とせず、私はされるがままになっている。
「君はいい。実に良い。上達しますよ」
とにかく私は揺れている。先生と一緒に、同じリズムで。
「あの……」
「また来週、お会いしましょうね」
「先生、あの、私」
「宅配便です!」
「えっ、ええ?」
忽然と、彼は消えた。
目を覚ました私は、口の端に垂れたよだれにぎょっとして、慌ててハンカチで拭った。
眠っていたのだ。
そして、今のは夢だった。
「う、うわあ」
思わずきょろきょろと辺りを見回す。事務所には私一人だけ……そう思ってほっとしかけて、叫びそうになった。カウンターの向こうに、松山さんが宅配の荷物を手に、困ったような顔で立っていた。
「……こんちは。休憩時間にすみません。あの、受け取りお願いします」
気のせいか口調が遠慮がちで、どこか戸惑っているようにも見える。
血の気が引いた。
まさか、まさかまさか!
職場の休憩時間。ほんの数分の間に、私は夢を見たのだ。とんでもない夢を!
弁当を食べ終わったあと、自分の席についてぼんやりしている内に、うたた寝したらしい。
「ごごっ、ごめんなさい、今すぐっ」
留守番しているはずの別の事務員は手洗いにでも行っているのか見当たらない。私は焦ってつんのめりそうになりながら課長のデスクに行き、引き出しの中の受領印を取ると、松山さんの前に立った。
「すみません」
彼は野太い声でもう一度詫びると、私と目を合わせた。
だが、すぐに逸らした。
(嘘だ、嘘だ)
私は震える手で伝票に押印すると、荷物を受け取った。
「どうも」
いつもなら、世間話を少しする。そうでなくても、短く言葉を交わす。
だけど彼はすぐに大きな背を私に向けると、ドアの取っ手を押し、出て行こうとした。
「松山さんっ」
つい、呼び止めてしまった。呼び止めてどうするのか、ぐるぐると考えを巡らせたが、思いつかない。だが、社員がいつ入ってくるかしれない。躊躇してはいられない。
「何すか」
ぶっきら棒な言い方で、背中を向けたまま彼は訊いた。
「今、私、何か言ってた?」
「……」
松山さんは静かにかぶりを振った。
でも、それは嘘だ。
私は自覚していた。
絶対に言っていた……とんでもない寝言を!
このカウンターからさほど離れていない、自分のデスクで。
あの、あの、女の声で。
聞こえなかった振りをする彼に合わせて、いっそ何も無かったことにしようか。波打つ胸を押さえながら、そう考え始めた。だけどその時……
「俺だけでよかった」
松山さんは帽子を被り直すと、強面を私に向けた。
今日は気温が高く蒸し暑いためか、それともこの状況のためか、彼の首筋には、汗が光っている。意外なほど綺麗な双眸が、陽炎のようにゆらめいて。
私は、彼が怒っていると思い込んだ。初めて見る怒った顔だった。
だけど、ふと頬を緩ませると、静かな口調で彼は言ったのだ。
「俺しか聞いてないから、なんてことないっすよ」
瞬きも忘れて見上げる私に、彼はくふっと笑みを浮かべた。皆は怖いと言うが、私は可愛いいと思っている、彼の笑顔だった。
「松山さ……」
何か言おうとする私を遮ると、顔を近付け、目の中を覗くようにした。
そしてもう一度怒った顔に戻ると、
「あんな声、他の奴に聞かしちゃ駄目です」
大柄な体に似合わぬ身のこなしで、風のように出て行ってしまった。
私は、受領印を汗ばんだ手の平に握り締めたまま呆然とした。
今のは、どういう意味なのか。
ポケットから携帯電話のアラームがけたたましく鳴り、私は飛び上がった。奥の扉から、社員達の足音が聞こえてくる。午後の仕事が始まるのだ。
電話も慌しく鳴り出し、私は忙しさに取り紛れ、夢のことも、松山さんの言葉も、意識の底に沈めてしまった。
雲のようなベッドの上、何も身に着けていないあられもない姿。
動きを封じられ、上手く声が出せない。
(どうして……)
一瞬の疑問はすぐに消える。
そんなことはどうでも良いことであり、私はただうっとりとして、先生を見上げた。いつもの作業着、いつもの袖口のほつれたセーター、油絵の具の匂い。優しい眼差しで私を見下ろしている。
信じられない。先生も私を好きだったなんて。
「先生」
女の声が聞こえる。私の声だ……私がこんな声を出すなんて。
先生は私を抱きしめ、いつものように囁いた。
「そうそう、その調子ですよ、星野さん」
……いつものように?
ベッドが揺れているのか、世界が揺れているのか判然とせず、私はされるがままになっている。
「君はいい。実に良い。上達しますよ」
とにかく私は揺れている。先生と一緒に、同じリズムで。
「あの……」
「また来週、お会いしましょうね」
「先生、あの、私」
「宅配便です!」
「えっ、ええ?」
忽然と、彼は消えた。
目を覚ました私は、口の端に垂れたよだれにぎょっとして、慌ててハンカチで拭った。
眠っていたのだ。
そして、今のは夢だった。
「う、うわあ」
思わずきょろきょろと辺りを見回す。事務所には私一人だけ……そう思ってほっとしかけて、叫びそうになった。カウンターの向こうに、松山さんが宅配の荷物を手に、困ったような顔で立っていた。
「……こんちは。休憩時間にすみません。あの、受け取りお願いします」
気のせいか口調が遠慮がちで、どこか戸惑っているようにも見える。
血の気が引いた。
まさか、まさかまさか!
職場の休憩時間。ほんの数分の間に、私は夢を見たのだ。とんでもない夢を!
弁当を食べ終わったあと、自分の席についてぼんやりしている内に、うたた寝したらしい。
「ごごっ、ごめんなさい、今すぐっ」
留守番しているはずの別の事務員は手洗いにでも行っているのか見当たらない。私は焦ってつんのめりそうになりながら課長のデスクに行き、引き出しの中の受領印を取ると、松山さんの前に立った。
「すみません」
彼は野太い声でもう一度詫びると、私と目を合わせた。
だが、すぐに逸らした。
(嘘だ、嘘だ)
私は震える手で伝票に押印すると、荷物を受け取った。
「どうも」
いつもなら、世間話を少しする。そうでなくても、短く言葉を交わす。
だけど彼はすぐに大きな背を私に向けると、ドアの取っ手を押し、出て行こうとした。
「松山さんっ」
つい、呼び止めてしまった。呼び止めてどうするのか、ぐるぐると考えを巡らせたが、思いつかない。だが、社員がいつ入ってくるかしれない。躊躇してはいられない。
「何すか」
ぶっきら棒な言い方で、背中を向けたまま彼は訊いた。
「今、私、何か言ってた?」
「……」
松山さんは静かにかぶりを振った。
でも、それは嘘だ。
私は自覚していた。
絶対に言っていた……とんでもない寝言を!
このカウンターからさほど離れていない、自分のデスクで。
あの、あの、女の声で。
聞こえなかった振りをする彼に合わせて、いっそ何も無かったことにしようか。波打つ胸を押さえながら、そう考え始めた。だけどその時……
「俺だけでよかった」
松山さんは帽子を被り直すと、強面を私に向けた。
今日は気温が高く蒸し暑いためか、それともこの状況のためか、彼の首筋には、汗が光っている。意外なほど綺麗な双眸が、陽炎のようにゆらめいて。
私は、彼が怒っていると思い込んだ。初めて見る怒った顔だった。
だけど、ふと頬を緩ませると、静かな口調で彼は言ったのだ。
「俺しか聞いてないから、なんてことないっすよ」
瞬きも忘れて見上げる私に、彼はくふっと笑みを浮かべた。皆は怖いと言うが、私は可愛いいと思っている、彼の笑顔だった。
「松山さ……」
何か言おうとする私を遮ると、顔を近付け、目の中を覗くようにした。
そしてもう一度怒った顔に戻ると、
「あんな声、他の奴に聞かしちゃ駄目です」
大柄な体に似合わぬ身のこなしで、風のように出て行ってしまった。
私は、受領印を汗ばんだ手の平に握り締めたまま呆然とした。
今のは、どういう意味なのか。
ポケットから携帯電話のアラームがけたたましく鳴り、私は飛び上がった。奥の扉から、社員達の足音が聞こえてくる。午後の仕事が始まるのだ。
電話も慌しく鳴り出し、私は忙しさに取り紛れ、夢のことも、松山さんの言葉も、意識の底に沈めてしまった。
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