一億円の花嫁

藤谷 郁

文字の大きさ
上 下
79 / 120
殺っちまおうぜ、今すぐ

しおりを挟む
 由比さんは決して、仕返しをやめたわけではなかった。ただ、基本的なミスに気づき、冷静さを取り戻したと言う。

「ダメだな、怒りに身を任せては。奈々子のためにも慌てず騒がず、確実にらなければ。計画を立てて、今度こそ……」
「そ、そうじゃなくて! 物騒なことはやめてください」

 殺るだなんて。
 例えではなく、ほんとうにやりかねないから恐ろしい。

「私はただ、話を聞いてほしかった。そして、あなたは受け止めてくれた。それだけでもう、十分なのです」
「……本当にいいのか」

 いじめっ子に仕返ししなくてもいいのかーーと、彼は訊いている。まるで保護者のように、心配そうに、私の瞳を覗き込みながら。

「彼女については確かにトラウマですが、あなたに話して、なんだかとてもスッキリしました。それに」

 私のために、自分のことのように怒りまくる由比さんを見て、なんていうか……嬉しかった。暴力はダメだけど、由比さんの気持ちが嬉しい。
 たどたどしく伝えると、彼はまるごと私を包み、髪に頬ずりした。

「奈々子は可愛い。世界一優しくて、いい子だ」

 ガラス越しの夜景が滲んで見えて、少し動揺した。
 過去については封印し、感情を抑えて生きてきた。それなのに、一人の男性を前に、こんなにも素直でいられるなんて。

「デート、楽しかったな」
「はい」

 由比さんはもう、綾華について言及しなかった。

 私たちは寄り添い合う。
 ごく普通の恋人同士のように。

「見ろ、奈々子。雪が降ってきたぞ」
「ほんとだ」

(あたたかい……どうしてこんなに、安心するのかしら……)
 
 穏やかな時間を過ごし、すっかり落ち着いてからカフェを出た。



◇ ◇ ◇


「おっと、忘れてた。九郎さんのところに寄るんだったな」

 エレベーターに乗ろうとして、由比さんが立ち止まった。

「何の用事か知らないが、こんな時間だ。ちょっと顔を見せて、すぐに引き揚げるとしようぜ」

 そう言って上りのボタンを押す。
 九郎さんというのは、このビルを建てたデベロッパーの代表者、羽根田社長である。


 オフィスフロアでエレベーターを降りると、由比さんがまっすぐに歩いていく。何度も来たことがあるのか、慣れた足取りだ。

「由比様、いらっしゃいませ」
「どうも。じゃまするよ」

 受付を顔パスして、奥のオーナー室の前まで来た。ドアをノックしようとするのを見て、私は慌てた。

「あ、あの! 私も一緒に入っていいのですか?」

 羽根田社長は由比さんだけに会いたいのかもしれない。せめて許可を得てから入室すべきだと思った。

「いいに決まってるだろ。奈々子は俺のヨメさんなんだから」
「……え?」

 ぽかんとする私を、由比さんが不満げに見下ろす。

「婚姻届はこれからだけど、俺たちは夫婦も同然。というより、夫婦!なんだぜ? ちょうどいいから、九郎さんに報告しておこう。結婚しましたよ~って」
「は、はあ……」

 私の返事を待たず、ドアをノックする。

(えっ、え? 結婚の報告?)

 ということは、私は由比さんの結婚相手として、羽根田社長に挨拶しなければならない。大企業の代表取締役に?
 
 いきなりの大仕事である。

 心の準備が間に合わずオロオロするうちに、ドアが開いてしまった。

「……!」

 思わず息を呑んだ。
 目の前に現れたのは、雲衝くような大男。ズイと出てきて、私たちを睨み下ろす。

「ひっ……?」

 がっしりとした体躯。太い眉、ギョロリとした大きな目に、大きな口。
 黒いスーツが迫力を倍加させている。
 由比さんの『キング』とはまた違う、ヒグマのような迫力。睨まれただけで気絶しそうだった。

「おう、ようやく来たか」

 廊下の隅々まで響くような、低い声。私は震え上がり、由比さんの腕にギュッと捕まった。
 頭の中に、反社会的勢力の文字が過ぎる。

(まさか、この人が羽根田社長?)

「おいおい、いきなり出て来てビックリさせるなよ。相変わらず人相悪いよな、つばさ

 由比さんの軽口を聞いて、えっと思う。「九郎」さんではなく、「翼」?

 恐る恐る顔を上げると、コワモテの大男が困ったように頭を掻いている。

「そんなつもりはなかったんだが……無骨ですんません」
「あ、いえ、こちらこそ、失礼しました」

 我にかえり、由比さんの腕をパッと離した。私こそ怖がりすぎたと、恥ずかしくなる。

「奈々子。こいつは羽根田社長の息子で、羽根田翼。ガキの頃は一緒に空手道場に通った幼なじみだよ」
「えっ、息子さん?」

 そういえば羽根田社長には、由比さんと同じ年の息子さんがいると聞いていた。彼がその人なのだ。

「そんなんで秘書が務まるのか? 取引先がビビって逃げ出すんじゃねえの」
「やかましい。お前こそ口の悪さを何とかしろ。この猫被りCEOが」

 二人のやり取りを、ぽかんとして眺める。彼らが幼なじみというのは間違いなさそうだが……

「お前たち、ドアを開けっぱなしで何をやってるんだ。部屋が冷えるから、早く中に入りなさい」

 奥から声が聞こえた。
 どうやらその人が羽根田社長であると、お喋りをピタリとやめた二人を見て分かった。
 




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

甘過ぎるオフィスで塩過ぎる彼と・・・

希花 紀歩
恋愛
24時間二人きりで甘~い💕お仕事!? 『膝の上に座って。』『悪いけど仕事の為だから。』 小さな翻訳会社でアシスタント兼翻訳チェッカーとして働く風永 唯仁子(かざなが ゆにこ)(26)は頼まれると断れない性格。 ある日社長から、急ぎの翻訳案件の為に翻訳者と同じ家に缶詰になり作業を進めるように命令される。気が進まないものの、この案件を無事仕上げることが出来れば憧れていた翻訳コーディネーターになれると言われ、頑張ろうと心を決める。 しかし翻訳者・若泉 透葵(わかいずみ とき)(28)は美青年で優秀な翻訳者であるが何を考えているのかわからない。 彼のベッドが置かれた部屋で二人きりで甘い恋愛シミュレーションゲームの翻訳を進めるが、透葵は翻訳の参考にする為と言って、唯仁子にあれやこれやのスキンシップをしてきて・・・!? 過去の恋愛のトラウマから仕事関係の人と恋愛関係になりたくない唯仁子と、恋愛はくだらないものだと思っている透葵だったが・・・。 *導入部分は説明部分が多く退屈かもしれませんが、この物語に必要な部分なので、こらえて読み進めて頂けると有り難いです。 <表紙イラスト> 男女:わかめサロンパス様 背景:アート宇都宮様

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

君の秘密

朝陽七彩
恋愛
「フン‼」 「うるせぇ‼」 「黙れ‼」 そんなことを言って周りから恐れられている、君。 ……でも。 私は知ってしまった、君の秘密を。 **⋆***⋆***⋆***⋆***⋆***⋆***⋆***⋆***⋆***⋆* 佐伯 杏樹(さえき あんじゅ) 市野瀬大翔(いちのせ ひろと) **⋆***⋆***⋆***⋆***⋆***⋆***⋆***⋆***⋆***⋆*

甘い支配の始まり~愛に従え 愛に身を委ねろ~【完結】

まぁ
恋愛
【失恋は甘い支配の始まり】 花園紫乃 Hanazono Shino 24歳 町田瑠璃子 Machida Ruriko 24歳 水戸征二 Mito Seiji 28歳 長谷川壱 Hasegawa Ichi 31歳 大垣誠 Ogaki Makoto 31歳 ※作品中の個人、団体、街…全て架空のフィクションです

俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜

ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。 そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、 理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。 しかも理樹には婚約者がいたのである。 全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。 二人は結婚出来るのであろうか。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

夫のつとめ

藤谷 郁
恋愛
北城希美は将来、父親の会社を継ぐ予定。スタイル抜群、超美人の女王様風と思いきや、かなりの大食い。好きな男のタイプは筋肉盛りのガチマッチョ。がっつり肉食系の彼女だが、理想とする『夫』は、年下で、地味で、ごくごく普通の男性。 29歳の春、その条件を満たす年下男にプロポーズすることにした。営業二課の幻影と呼ばれる、南村壮二26歳。 「あなた、私と結婚しなさい!」 しかし彼の返事は…… 口説くつもりが振り回されて? 希美の結婚計画は、思わぬ方向へと進むのだった。 ※エブリスタさまにも投稿

『 ゆりかご 』  ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。

設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。 最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。 古い作品ですが、有難いことです。😇       - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - " 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始 の加筆修正有版になります。 2022.7.30 再掲載          ・・・・・・・・・・・  夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・  その後で私に残されたものは・・。            ・・・・・・・・・・ 💛イラストはAI生成画像自作  

処理中です...