一億円の花嫁

藤谷 郁

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横浜デート

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 トイレを先に済ませてから、パウダースペースで化粧を直した。由比さんとすれ違ってはいけないので、手早く作業する。

 化粧室には私と、もう一人の女性が隣にいるだけ。仕切りがあるので顔は見えないが、若い女性のようだ。
 静かな空間に、クラシック曲が控えめに流れている。

「よし、できた」

 ポーチを仕舞い、急いで外に出ようとした。

「ねえ、待って。もしかして奈々子じゃない?」
「えっ?」

 ふいに名前を呼ばれ、びっくりする。
 振り向くと、隣でメイクをしていた女性がこちらを見ていた。

「……!」

 一瞬、誰か分からなかった。
 だがすぐに、彼女であると理解した。
 そして、反射的に身体が動かなくなったことに自分で驚く。

「やっぱり奈々子だ。わあ、驚いた!」

 なぜ、どうしてここに?
 突然の出来事に愕然としながら、激しく後悔する。
 あの頃より声が低くて、彼女だと気づかなかった。もし気づいていたら、呼ばれても振り向かず、全力で逃げたのに。

「きゃー、懐かしい。元気だったあ?」

 躊躇わず近づいて来る彼女を、瞬きもせず見つめた。
 相変わらず可愛い。いや、綺麗と言ったほうが相応しい。艶やかな長い髪。隙のないメイク。ハイブランドの洋服をしっくり着こなしている。

 あの頃、私たちはまだ子どもだった。でも今の彼女は大人の女性であり、もちろん私もそのはずだ。
 それなのに、身体が動かない。まるで14歳の頃に戻ったみたいに、萎縮して。

「どうしたのよ。まさか私のこと、忘れちゃった?」

 すぐそばに来て、上から見下ろす。

 どうしてこんな風に、何ごともなかったかのように、普通に話せるの? あなたこそ忘れてしまったの?

 恐れや怒り、悲しみ。ありとあらゆる負の感情に支配される。私はまったく乗り越えられていない。それを痛感して、涙が出そうだった。

「ねえってば。私の名前、覚えてるわよね?」
「……」

 中学2年の春。私は彼女と横浜に遊びに来た。
 可愛くて、成績が良くて、誰もが憧れるお嬢様。彼女を中心とするグループの仲間となった私は、それから……

綾華あやか

 震え声で名を呼ぶと、彼女は楽しげに笑った。

「良かったー、覚えてたんだ。そりゃそうよね、少しの間だけど、私たち友達だったもの」

 違う、私だけじゃない。この子も変わっていないと、はっきり感じた。
 ぎらぎらした瞳は、あの頃のまま。いたぶる相手を見つけて、喜びに輝いている。
 気のせいじゃない。
 気のせいならどんなにいいか。

「ほんと懐かしいなあ。奈々子ってば、別の高校に行っちゃうんだもん。せっかくの付属校なのに、どうして内部進学しないのかなあって、みんな不思議がってたのよ?」

 信じられない発言だった。
 だがこれが彼女、西崎にしざき綾華なのだと思い出す。
 わざととぼけて傷つけて、私が戸惑ったり悲しむ姿を、彼女は楽しんでいた。
 強烈なフラッシュバックに襲われ、私の身体はぐらぐらと揺れはじめる。
 
「あ、そうそう。みんなと言えば、莉央りおが今度結婚するから、久々にグループで集まることになったのよ」

 ビクッとする私を見て、綾華が微笑む。嗜虐的な恐ろしい笑顔が、私の心をさらに萎縮させた。
 莉央。
 忘れるはずもない名前だった。

「そうよ、加納かのう莉央。懐かしいよね、奈々子が一番仲良かったものね。あっ、良かったら二次会に来ない? 私が伝えておくから、連絡先を交換しようよ」

 綾華がスマホを取り出すのを見て、総毛立った。

「アプリでもいいし、SNSでも……」
「あ、あの!」

 言葉を遮るように、けんめいに声を出した。情けないほど膝がガクガクする。

「あの……ごめんなさい。私、もう行かなきゃ」

 由比さんの顔が頭に浮かぶ。
 早く彼のところに戻ろう。一分一秒でもこの場にいたくない。
 また、ズタズタにされる。

「ええ? なんでよ。ちょっとぐらい話そうよ。せっかく再会したのに、奈々子ってば相変わらず冷たーい」

 冗談めかすが、目が笑っていない。私は本当に泣きそうだった。

「ひ、人が待ってるから。ごめんなさい……さよなら!」
「あ、ちょっと待ちなさいよ!」




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