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ささやかな抵抗
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用意周到という言葉は、由比さんのためにあるのかもしれない。
それほどまでに彼の行動は計画的で、怖いくらいにぬかりなく、緻密かつ大胆。
そして、とにかく強引だった。
◇ ◇ ◇
12月4日 月曜日。
私は今、朝早く迎えに来た由比家の車に乗せられ、区役所へと向かっている。
婚姻届を提出するために。
「あ、あのう……」
出発して間もなく、私から話しかけた。
運転手付きの車なので、由比さんは後部席に座っている。私の隣で、ゆったりと足を組んで。
白いジャケットを羽織り、甘く微笑む彼は王子様のよう。
でもそれは仮の姿。実体は化け猿であるのを忘れてはならない。
「どうした」
「ええと……その……」
ちゃんと言わなければ。このままではいけない、絶対に。
「奈々子? 具合でも悪いのか」
「いっ、いいえ、そうじゃなくて……」
本当は、今にも倒れそうだった。
深い深い後悔に苛まれて。
いくら腹を括ったと言っても、このまま結婚してもいいのだろうか、と。
昨夜、彼の勢いに押されて婚姻届にサインしてしまった。
それから私は、父と由比さんがビジネスの話をする間も、母が淹れた紅茶を皆で飲む間も、ああでもないこうでもないとぐるぐる考えてばかり。
夜中も落ち着かなくて、ネットで答えを探したり、部屋の中をうろうろしたり、ほとんど眠れずに夜明けを迎えて、今に至っている。
「ああ、もしかして緊張してるのか」
「え? ……きゃっ!」
いきなり抱き寄せられた。
額がくっつきそうなほど、顔を近づけてくる。
「ちょ……、由比さん、ダメです!」
私は焦るが、運転手は前を向いたまま。CEOの振る舞いには干渉しないというルールなのだろうか。
遠慮なく迫ってくる由比さんの、熱い眼差しが暑苦しい。
「分かるぜ……いよいよ夫婦になるんだもんな。こんな時は、誰だって緊張する」
「は…………はい?」
頬を赤らめる男に、私はぽかんとする。
「俺も嬉しくてしょうがないよ。昨夜はほとんど眠れなかったな……奈々子もそうなんだろ?」
「う……」
確かに眠れなかった。
でも、私の場合は嬉しかったからじゃない!
都合のいい解釈をする由比さんを、キッと睨んだ。そして、迫りくる大きな体を両手で押し戻す。
私なりの、せいいっぱいの抗議である。
「おいおい、照れなくてもいいじゃないか」
「違います。あっ、あなたに言いたいことがあるんです……婚姻届を出す前に!」
聞き入れてもらえるかどうか分からない。
だけど、絶対に言うべきだ。誰よりも自分自身のために。
(そうよ。だって私の味方は、私だけなんだから)
昨夜の顔合わせで、父も母も、男性のレベルに厳しい姉ですら、由比さんをべた褒めしていた。
さすが由緒ある家柄の御曹司。若く、眉目秀麗。それでいて大企業のトップとしての風格を十分備えている。
非の打ちどころのない、素晴らしい人物だと。
彼が突然差し出した婚姻届に、父は証人として迷わずサインした。そして、もう一人の証人が誰であるのか確かめ、目を輝かせていた。
由比一人――三保グループの代表取締役会長にして、由比家の現当主。
つまり、由比さんの父親である。
証人欄に並ぶ二つのサインは、両家がこの結婚を認めたという証拠だった。
由比さんは完璧な計画で、この結婚を進めていたのだ。私以外の誰も彼も味方に付けて、用意周到に。
「俺に言いたいこと、ね……ふうん」
由比さんがフッと笑みを浮かべた。
腹が立つくらい、余裕たっぷりの態度である。
「この期に及んで、結婚をやめるとか言うんじゃないだろうな」
「……違います」
それができるなら悩んだりしない。人身御供を拒否して、とうに逃げ出している。
「私は、あなたと結婚します。だけどこの展開は、いくらなんでも納得できません。だって私たちはまだ……」
「まだ?」
面白そうに覗き込んでくる彼を、じっと見つめた。こちらは大真面目なのだ。
「デートもしていません。結婚する前に、そういった段階を踏むべきだと思います」
由比さんはぽかんとした。意味が分からないという反応である。
「デート? 何言ってるんだ。長野でしたじゃないか」
「あれは……違います。あの時、あなたは王子様のふりをしていました。本当の由比さんじゃなかったから、ノーカンです!」
「……」
車が信号待ちで停止した。静かすぎる空間に、私の荒い呼吸が際立つ。
とにかく必死だった。このことは私のこだわりであり、身勝手な彼に対する、ささやかな抵抗なのだ。
それほどまでに彼の行動は計画的で、怖いくらいにぬかりなく、緻密かつ大胆。
そして、とにかく強引だった。
◇ ◇ ◇
12月4日 月曜日。
私は今、朝早く迎えに来た由比家の車に乗せられ、区役所へと向かっている。
婚姻届を提出するために。
「あ、あのう……」
出発して間もなく、私から話しかけた。
運転手付きの車なので、由比さんは後部席に座っている。私の隣で、ゆったりと足を組んで。
白いジャケットを羽織り、甘く微笑む彼は王子様のよう。
でもそれは仮の姿。実体は化け猿であるのを忘れてはならない。
「どうした」
「ええと……その……」
ちゃんと言わなければ。このままではいけない、絶対に。
「奈々子? 具合でも悪いのか」
「いっ、いいえ、そうじゃなくて……」
本当は、今にも倒れそうだった。
深い深い後悔に苛まれて。
いくら腹を括ったと言っても、このまま結婚してもいいのだろうか、と。
昨夜、彼の勢いに押されて婚姻届にサインしてしまった。
それから私は、父と由比さんがビジネスの話をする間も、母が淹れた紅茶を皆で飲む間も、ああでもないこうでもないとぐるぐる考えてばかり。
夜中も落ち着かなくて、ネットで答えを探したり、部屋の中をうろうろしたり、ほとんど眠れずに夜明けを迎えて、今に至っている。
「ああ、もしかして緊張してるのか」
「え? ……きゃっ!」
いきなり抱き寄せられた。
額がくっつきそうなほど、顔を近づけてくる。
「ちょ……、由比さん、ダメです!」
私は焦るが、運転手は前を向いたまま。CEOの振る舞いには干渉しないというルールなのだろうか。
遠慮なく迫ってくる由比さんの、熱い眼差しが暑苦しい。
「分かるぜ……いよいよ夫婦になるんだもんな。こんな時は、誰だって緊張する」
「は…………はい?」
頬を赤らめる男に、私はぽかんとする。
「俺も嬉しくてしょうがないよ。昨夜はほとんど眠れなかったな……奈々子もそうなんだろ?」
「う……」
確かに眠れなかった。
でも、私の場合は嬉しかったからじゃない!
都合のいい解釈をする由比さんを、キッと睨んだ。そして、迫りくる大きな体を両手で押し戻す。
私なりの、せいいっぱいの抗議である。
「おいおい、照れなくてもいいじゃないか」
「違います。あっ、あなたに言いたいことがあるんです……婚姻届を出す前に!」
聞き入れてもらえるかどうか分からない。
だけど、絶対に言うべきだ。誰よりも自分自身のために。
(そうよ。だって私の味方は、私だけなんだから)
昨夜の顔合わせで、父も母も、男性のレベルに厳しい姉ですら、由比さんをべた褒めしていた。
さすが由緒ある家柄の御曹司。若く、眉目秀麗。それでいて大企業のトップとしての風格を十分備えている。
非の打ちどころのない、素晴らしい人物だと。
彼が突然差し出した婚姻届に、父は証人として迷わずサインした。そして、もう一人の証人が誰であるのか確かめ、目を輝かせていた。
由比一人――三保グループの代表取締役会長にして、由比家の現当主。
つまり、由比さんの父親である。
証人欄に並ぶ二つのサインは、両家がこの結婚を認めたという証拠だった。
由比さんは完璧な計画で、この結婚を進めていたのだ。私以外の誰も彼も味方に付けて、用意周到に。
「俺に言いたいこと、ね……ふうん」
由比さんがフッと笑みを浮かべた。
腹が立つくらい、余裕たっぷりの態度である。
「この期に及んで、結婚をやめるとか言うんじゃないだろうな」
「……違います」
それができるなら悩んだりしない。人身御供を拒否して、とうに逃げ出している。
「私は、あなたと結婚します。だけどこの展開は、いくらなんでも納得できません。だって私たちはまだ……」
「まだ?」
面白そうに覗き込んでくる彼を、じっと見つめた。こちらは大真面目なのだ。
「デートもしていません。結婚する前に、そういった段階を踏むべきだと思います」
由比さんはぽかんとした。意味が分からないという反応である。
「デート? 何言ってるんだ。長野でしたじゃないか」
「あれは……違います。あの時、あなたは王子様のふりをしていました。本当の由比さんじゃなかったから、ノーカンです!」
「……」
車が信号待ちで停止した。静かすぎる空間に、私の荒い呼吸が際立つ。
とにかく必死だった。このことは私のこだわりであり、身勝手な彼に対する、ささやかな抵抗なのだ。
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