一億円の花嫁

藤谷 郁

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新たな見合い話

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 俺って実は転生者? と最初に思ったのはいつだったか……妙な夢と現実の境界線を曖昧にしたまま育ち、成人を前にしてようやく折り合いがついた気がする。日本という国で暮らしていた、この記憶から推察するならば、俺はどうやら異世界に転生したようだった。

 平和な日本に生まれ、国を出る事もなく波風立てずに平凡に生きて、そこそこの中年になり、ごくごく普通に天寿を全うした面白味のない男の一生の記憶が不思議と俺の中に根付いている。細かい事は忘れた部分もあるのだろうが自分の名前に始まり、両親の顔も名前も周囲の人々も、自分の中で印象的だったものはしっかりと覚えていると思う。

 今の俺からすれば前世の記憶……だと思うのだが、鮮明なわりに正直あまり自信はない。証拠なんてものはないし、俺の想像力が無駄に逞しく、思い込みが激しいだけという可能性も十分にあり得るからだ。無論、誰かに話すつもりもない。

 だってそうだろう。

 今暮らすこの世界は本やゲームに登場していたファンタジー世界に似ている。似ているからこそ怪しい。仮に魔王なんていう存在でも居たならば、少しは信憑性が増すかもしれないが、生憎とそんなものは聞いた事がない。そして俺はパン屋の息子。地味だ。地味過ぎる。もしこれが転生なのだとしても、そこに特別な意味などなく、俺はただ再び面白味のない人生を繰り返すだけなのだろう……と漠然と思って過ごしていた。

「あー……くそ……腹減った」

 そんな日本語が聞こえてくるまでは。




 パン屋の朝は早い。朝飯を買いに来る客の為に日が昇る頃には全てのパンを焼き上げておかなければならないからだ。生まれて以来ずっとそんな環境に居たから、成人して自分の店を持ってからも早起きを辛いと感じた事はなかった。川を挟んだ隣町にある実家でも両親は早朝に目覚め、俺と同じように慌ただしくパンを並べていることだろう。

 実家を出て、大きな通り沿いに小さな店を出したのは一年前。資金こそ辛うじて自分の力で貯めたものの、場所も仕入れ先も親に口利きしてもらい、完全に自立したとは言い難いところだが常連さんも居て、そこそこ上手くやっている。実家の店より繁華街が近く、夜は治安が悪かったりもするけれど、うちはとっくに店じまいして寝ている時間帯の事だ。翌朝店の前が汚されてウンザリする以外、トラブルは案外少なかった。

 起きて、前日に仕込んでおいたパンを焼き、冷ましている間に店の前を掃除する。そんないつものルーティンの中でその衝撃は訪れた。

 夜明け前の薄暗い通りをフラフラと覚束ない足取りで男が一人歩いてきた。薄汚れた布を頭から被っていたので顔までは見えないが、遠目にも体格で男だと思った。店先で掃除をしていた俺は一瞬そちらに目を向けたが、特に珍しくもない浮浪者だと判断するとすぐに視線を逸らす。これが見るからに物騒な男だったら慌てて店に逃げ込んだだろうが、地面だけを見つめて歩いているだけの男に脅威は感じられなかった。ただ、もしもの為に警戒だけは向けていた。

 酷く疲弊しているのか男の歩みはゆっくりだった。出来れば早く通り過ぎてしまって欲しいという願いも虚しく、俺の店から数歩離れた所でその男は突然ピタリと足を止めてしまう。途端、ギクッと身体が強張った。何かされるかもしれないと男の挙動に全神経を集中させる俺の耳に、俄かには信じられない音が飛び込んできたのだ。

「あー……くそ……腹減った」

 腹減った。たぶん独り言なんだろう。誰に言った訳でもないその小さな呟きに、俺は頭が真っ白になった。

 その響きは間違いなく俺の知る日本語だったからだ。

「っ、あ」

 驚きのあまり変な声が漏れた。そんな俺に構う事なく、男は再び歩き出す。たぶん店から漂ってきたパンの匂いに反応してしまっただけなのだ。他意は感じられなかった。男の背中がゆっくりと店から遠ざかっていく。

 ――空想じゃなかったんだ!

 胸の中を忙しなく戸惑いと驚きと嬉しさが駆け巡った。この世界の言葉とは明らかに異なった日本語の響きに勝手に口角が上がってしまう。懐かしさ、なのかもしれない。何故か涙まで込み上げてきた。平凡なりに積み上げてきた人生も、自分の記憶の中にだけ存在する人々も、本当に実在していたのだと思うと泣けてくる。俺はきっと寂しかったのだ。

 無意識に男の姿を見つめたまま呆然としていたが、衝撃が過ぎて気づいたのは彼が何者かということ。日本語を話す彼は転生者、もしくは転移者なんだろうか。布で覆われているせいで容貌や髪色などは分からない。見えるズボンや靴は擦り切れてボロボロだった。それでも、その手首に腕時計のような物がチラリと見えて、俺は慌てて彼を追った。

 走りながら呼び止める為に声を掛けた。特に意識はしてなかったからか普段使っているこの世界の言葉で「ちょっと待ってくれ」と発したのだが、男は無反応だった。

「――お願い! ちょっと待って」

 追いつきそうになって掛けた日本の言葉に、男の足がピタリと止まる。振り返ろうか止めるべきか、決めかねている様子の彼が落ち着くのを息を整えながらその場で待った。彼が警戒して無視するのなら無理に追うつもりはない。俺も面倒事は避けたいし、積極的に関わりたい訳ではないから。

 ただ……フラフラと歩く彼がこの世界に不慣れな転移者なんだと確信してしまったから、何もせずに見過ごす事が出来なかったのだ。

「あんた……言葉が……分かる、のか?」
「分かるよ。お腹空いてるんだろ、パンで良かったら食べて行きなよ」

 振り向かないまま恐る恐る震えた声で問いかけられたから、安心させるように努めて明るく返した。自分でも声を掛けてどうするかなんて決めてなかったけれど、彼が余りにも心細そうな声を出すから、ホッと息をつける時間をあげたいと思ってしまっていた。

「パン? 俺に……恵んでくれるって?」
「うん。あなたと話がしたいから、そのついでだと思ってくれれば良い。うち、パン屋だしね」
「あんたの店?」
「そう、さっき通ったよね? 俺だけしか居ないよ」

 そこまで言うと彼は少し黙って、本当に言葉分かるんだなって絞り出すみたいに呟いた。彼はこっちの言葉が分からないんだろう。そのままじっと動かないのでしばらく待ってみたものの、辺りが少し明るくなってきた事に気づき、どうしても開店時間が気になった俺は彼が振り向くのを待たずに「ついてきて」と踵を返す事にした。

 本当についてくるかは彼の判断に任せたつもりだが、戸惑いながらもこちらを追ってくる足音がして俺は安心していつもよりゆっくりと歩いた。

 「――招いておいて悪いんだけど、店の準備しなきゃいけないんだ。こっち座って待ってて。とりあえずパンは持って来るから」

 店に戻り、そのまま奥の居住スペースまで案内する。俯いたままの彼が俺に言われるがまま素直にテーブルにつくのを見届けてから離れ、何の変哲もない水とカゴいっぱいの焼き立てパンを急いで用意した。

「戻って来るまでゆっくり食べててくれる? 少ししたら店も落ち着くと思うから。パンはいくらでもあるし、後で良いならスープも食べて……あっ!」

 ちょっと慌てていた俺はペラペラと勝手に喋っていたが話す途中でハッと気付き、日本でいう所のおしぼりを彼に手渡した。俺の記憶が合っているなら必要なものだ。

「これ、良かったら使って」
「……あんた、ほんと……」
「あああーごめん! 話しは後で!」

 そうこうしてる間に外は随分明るくなってきた。慌てた俺は彼の言葉をぶった切って店に駆け込み、ガシャンガシャンと騒音を鳴らしながらフル回転で開店準備に勤しんだのだった。


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