一億円の花嫁

藤谷 郁

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夢の時間

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 小道は平坦で歩きやすく、ショートブーツでも雪に埋もれることがなかった。
 最後の数メートルだけ緩い坂になっていて、私は転ばないよう、由比さんの手に掴まって慎重に進んだ。

「ここです」

 視界が開けた場所に出た。
 数メートル先に、赤いネットが張ってある。暗くてよく見えないが、ネットの向こうにあるのは、木造の小屋のようだ。屋根の上に煙突が立っている。

「あの建物は……?」

 由比さんがスマホを取り出し、短く操作した。すると、小屋の窓がパッと明るくなる。

「わっ、びっくりした」

 スマホがリモコンのようだ。慌てる私の手を握り、彼が穏やかな声で言った。

「未完成なので、まだ利用できませんが、あなたなら喜んでくれると思って」
「?」

 一体、何があるのだろう。戸惑いながらも、由比さんに導かれるまま、小屋へと近づいた。

「雪がやわらかいので、足元に気をつけて」
「はい」

 彼はネットを外して入り口の前に立つと、かんぬきをずらしてドアを開けた。私は首を伸ばし、明るい小屋の中を、そっとのぞいてみる。

「えっ!?」

 予想外のものが目に飛び込んできた。
 そこにあるのは、陶器で造られた茶碗風呂。砂利を敷き詰めた床に据えられ、湯気を上げている。

「もしかして、温泉ですか?」
「はい。湯温が低いので追い焚きが必要ですが、正真正銘の温泉です。名付けて、『絶景独り占め温泉』」

 驚いてしまう。
 こんなところに温泉があるなんて。しかも湯船は、一人しか入れない茶碗風呂である。

「設備が完成したら小屋を取っ払い、石造りのコテージを建てます。天気の良い日に限りますが、ご予約のお客様に、絶景と露天風呂を楽しんでいただくというコンセプトですね。私とスキー場の開発担当者がアイデアを出し合い、実現しました」
「すごい。まさに独り占めですね!」

 私は興奮した。
 大自然の懐で、壮大な景色と温泉を楽しむなんて、贅沢の極みだ。
 究極のパラダイスである。

「あ……」

 思わず由比さんを見上げた。

 昨夜、私は彼に話した。一人で温泉ホテルに出かけるのが好きだと。
 家族から離れて一人になりたいからとか、細かな理由は端折ったけれど、旅と温泉に癒されると言ったら、「分かります」と、同意してくれたのだ。

 心が通じ合ったみたいで、嬉しかった。

「完成したら、ぜひ招待させてください。その時はもちろん、『まゆき』でお部屋をご用意いたします」
「由比さん……」

 感動で胸がいっぱいになる。
 昨日会ったばかりの私に、なぜここまでしてくれるのか。
 三保コンフォートのCEOだから? 責任を感じているから? でも、私に迷惑をかけたのは変態男なのに。

「いくらなんでも、親切すぎますよ。こんなにしてもらったら……」

 勘違いしそうになる。私にとってあなたは、王子様なんだから。

「大月さん?」

 涙がポロポロとこぼれた。
 目を覚ますのが怖くなる。夢の時間が終わるのが、つらい。

「どうしたんです」
「すみません。私……」

 由比さんが困っているけど、止められない。嬉しいのに、泣けて泣けて仕方なかった。

「ありがとうございます、由比さん。私なんかのために、本当に、嬉しいです」
「大月さん……」

 きっと、何かを察しただろう。
 私に事情があることを、聡明な由比さんは気づいている。
 何も言わないのは、彼の優しさだ。

 私は、本当のことを話さなければと思った。別れる前に、正直に。
 優しさに甘えて、また会いに来てしまいそうだから。

「ごめんなさい。私、黙っていたことがあります」
「黙っていたこと?」

 涙を拭い、彼と向き合った。

「私は東京に住む、平凡な会社員。それは本当だけど、『まゆき』を訪れたのは、独身最後の自由を満喫するためです。東京に帰れば、十五も年上の、父の会社と利害関係にある男性とお見合いして、結婚しなければなりません」

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