一億円の花嫁

藤谷 郁

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夢の時間

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「さあ、着いた。足元に気を付けて」
「すみません」

 ゴンドラを降りるとき、由比さんが手を取って支えてくれた。
 手袋越しに、温もりが伝わってくる。

「この先に展望台があります。歩くのはトンネル型の通路なので、雪はありませんが、床が濡れています。滑るといけないので、私に掴まってください」
「えっ?」

 由比さんに腕を差し出され、さすがに戸惑う。だけど、男性のスマートな振る舞いに対し、遠慮するのはかえって失礼な気がして、そっと掴まった。

「寒くないですか?」
「はい」

 寒いどころか、全身が熱い。王子様と腕を組んで歩くなんて、考えてもみなかった。というか、男の人とこんなに密着した経験がなくて、ますます緊張して、汗が出てくる。

「……可愛い」
「!」

 耳元で、はっきりと聞こえた。
 間違いなく、彼が私のことを可愛いと言った。

「大月さんは、可愛い」
「う……」

 緊張を通り超えて、気を失いそう。
 この人は、なぜそんな嘘を平気で口にするのか。

「か、からかわないでください」

 聞こえないふりもできず、つい反応してしまう。

「からかう? どうして、そう思うのです」
「どうしてって……」
「本当のことですよ?」

 見上げると、大真面目な顔があった。

「信じてください」
「由比さん……」

 もしかして、本気で私のことを?
 一瞬、そんなうぬぼれが胸をよぎるが、すぐに消える。
 可愛いはずがない。きっと、彼は別の意味で言っているのだ。たとえば、昔飼っていたペットに似て、可愛いとか。

 我ながら卑屈だと思う。

 でも、そんなことはどうでもいいような気もする。
 今はただ、王子様との時間を大切にすれば良い。一生に一度の思い出なのだから、可愛いという言葉をそのまま受け入れ、夢に浸ろう。

 そうでしょう?
 だって、もう本当に最後なんだから。

「……信じます」
「ありがとう」

 嬉しそうな彼に、私も微笑みを返す。
 泣きそうになりながら。

「じっとしていると寒い。歩きましょう」
「はい」

 彼の腕にしっかりと掴まり、前に進んだ。



 ゴンドラを降りた場所は上級者コースの出発点だが、初心者が練習できるような平らなエリアもあった。昼間はスキー教室が開かれ、賑わっているとのこと。
 散策コースは、その一角に設けられている。

「上級者からビギナー、そしてスキーをしないお客様にも、素晴らしい景色を味わってもらいたい。そのためには、しっかりした散策コースが必要ということで、新しく通路を設置したのです。これまではゴンドラも展望台も、スキーヤーだけのものでしたから」
「素敵です……!」

 散策コースは現在、プレオープンの状態であり、本格的な営業は年明けとのこと。
 私の歩調に合わせて歩きながら、由比さんが話してくれた。

 通路は吹雪にも耐えられる、頑丈な造りだそうだ。ライトを落とした空間にイルミネーションが飾られ、とてもきれい。
 本当に、クリスマスデートのよう。


 ピリリリ――

 しばらく歩いたところで、スマホの着信音が聞こえた。
 前を行くカップルの男性が、ポケットからスマホを取り出し、ぺこぺこと頭を下げながら話し始める。手を離された彼女が、不満そうにするのがわかった。
 もしかして、仕事の電話だろうか。

 男性の様子を見ながら、私はふと思い至った。今日は朝からずっと、由比さんに付き合ってもらっている。

「あの、お仕事は大丈夫でしょうか」
「仕事?」

 いまさらながらの質問に、由比さんが歩きながら答える。

「今日は重要な予定もないし、リモートもオフにしています。私が不在でも困らないよう体制を整えてあるので、ご心配なく」
「それならいいのですが」
「私には、頼りになる秘書と、最強のチームがついています。些細な問題は、彼らが片付けてくれますよ」

 一流企業のトップともなると、まわりに優秀な人材を揃えているようだ。考えてみれば、私ごときが心配するのはおこがましい。由比さんは三保コンフォートのCEOであり、経営者一族の御曹司なのだから。
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