一億円の花嫁

藤谷 郁

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独身最後の贅沢

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「ようこそお越しくださいました。大月おおつき奈々子ななこ様でいらっしゃいますね。本日より二泊のご予約を承っております」
「お世話になります」

 さすが、海外のエグゼクティブも利用するという高級ホテル。建物だけでなく、従業員の接客にも一流の雰囲気が感じられる。

 時間が早いためか、館内は人が少ない。外観と同じく和のデザインが施されたフロアは、居心地の良い静けさに満たされている。


「大月様。どうぞこちらへ」

 部屋へ案内される前に、ラウンジでウエルカムドリンクをいただいた。地元産の果物を使ったというフレーバーティーは優しい香りがする。

「美味しい。それに、景色も素敵!」

 ガラス張りの窓に湖が広がり、その向こうには白銀の山々が連なっている。

 真っ白なアルプスは、旅行雑誌の写真で見るよりはるかに美しい。最高のロケーションに感動し、心から来て良かったと思う。

 これが最後のチャンス。結婚したらもう、自由なんてないから。

 カップを置いて、小さく震えた。
 私は来月、両親のすすめに従い、十五も年上の男性とお見合いをする。

 お相手は、父の会社が取引する社長で、バツイチ男性。再婚相手に『従順な女性』を求めていると聞き、父が勝手に話を進めてしまったのだ。

 私は現在独身で彼氏もいない。というか二十五歳になるこの年まで、男性と付き合った経験がない。そこへきて、いきなりの縁談である。

 がんばって断ろうとしたが、『たまには役に立て。この落ちこぼれが』と父に睨まれ、母には『お父様の言うことを聞きなさい』と突き放された。
 そして姉は、見合い相手の写真を見て面白そうに笑っていた。

 確かに私は大月家のお荷物。逆らえず、うなずくほかなかった。

 だから今回は、最初で最後の贅沢な旅。独身時代の素晴らしい思い出になるよう、憧れの宿で自由を満喫するのだ。

 でも本当は、それ以上に経験したいことがあるのだけれど……

 もう一度カップを取り上げ、お茶を飲むふりで斜め前方を見やった。

 中央に据えられた大暖炉の向こうに、一人の男性が座っている。ソファで悠々と脚を組み、タブレットを手に思案の様子。

 年齢は二十代後半だろうか。はっとするほど整った顔立ちに、ライトブラウンの髪がよく似合う。スーツに包まれた身体は肩幅が広く、背も高そうだ。
 実は、さっきからずっと気になっていた。

 精悍な王子様といった風情が、高級ホテルのラウンジにしっくりと馴染み、とても絵になる。男性としての魅力をすべて持ち合わせた姿は、おとぎ話に登場する王子様のよう。

 そう、まさに現代の王子様だ。

(彼のような人をエグゼクティブと呼ぶのね)

 うっとりしながら、妄想に耽る。

 一生に一度、ロマンス小説のような恋愛ができたら――例えば、彼のような人と。一夜限りでもいいから、忘れられない経験をこの身に刻んで。

 大胆な妄想が湧くのは、旅先という非日常の空間にいるから? それにしても、私らしくもない大それた望みである。

 かつてないときめきに戸惑いつつ、吸い込まれるように『王子様』を見つめた。

「あ……」

 彼がふと顔を上げた。視線に気づかれたと焦り、カップに目を落とす。一瞬、目が合った気がした。

 でも、数秒後に視線を戻すと、ソファに彼の姿はなかった。

 じろじろ見てくる変な女と思われたかしら。
 急に恥ずかしくなり、お茶の残りを一気に飲み干した。

「お待たせいたしました。大月様の担当をさせていただく接客係アテンダント関根せきねと申します」

 ぴしっと背筋の伸びた制服姿の女性がそばに来て、丁寧に挨拶した。

「それでは、お部屋へとご案内させていただきます」
「あ、すみません」

 彼女が荷物を引き受け運んでくれる。私は椅子を立つと、まだドキドキする胸を押さえながらラウンジを後にした。
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