東野君の特別

藤谷 郁

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深海の世界

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 練習開始10分前に、監督やコーチ、トレーナーの人達を遼子さんから紹介されて、私は緊張しながら挨拶をした。

 部長にだけは入部申し込みのさいに挨拶を済ませてあった。
 経済学部の宮坂(みやさか)教授である。
 めったにグラウンドには現れないそうで、「わしはサッカーのルールも知らないのだよ、きみ」と、大まじめに言われて驚いたが、部長が運動部の現場にタッチしないのは、特に珍しいことではないらしい。
 それよりも、その話し方の特徴から、以前幸平さんが物真似をしていた教授らしいとわかり、吹き出しそうになって困った。


 部員の皆には練習が始まる直前に、グラウンドで自己紹介をした。
「よろしく、山室さん。俺は主将の甲斐かいみつるです」
 煙突を連想させるように背の高い人で、ゴールキーパーだそうだ。ほんわかとした雰囲気が優しくて、部員からは癒しのみっちゃんと呼ばれているとのこと。

「4年は3名、3年は10名、2年は7名、1年は……何人だっけ?」
「5名です」
 主将が思い出そうとするところへ、東野君が横から教えた。そこで初めて知ったのだが、彼は副主将なのだ。
(そうだったの?)
 一瞬目が合ったけれど、彼は軽く頷いただけで、特に反応せずに流した。私もそれ以上彼に注目せず、クラブ中はこんな感じでいいのだなと理解した。

「そうそう、つまり総勢25名ね。昨年度よりも少なくなっちゃったけど、皆で頑張れば大丈夫、うん。ええ~と、あと、練習日は月曜から木曜で、午前9時と午後4時からのどっちか。その月によって予定は変わります。それと今は地区Bリーグの試合が土曜日に入ったりします。詳しいことは緑マネージャーから聞いて打ち合わせて下さいね」

 おっとりとした口調で教えてくれた主将だが、最後に皆に向かって
「それではこれから一緒に頑張ってくれる山室佐奈新マネージャーに、礼!」
 轟くような声で号令した。
「オース!」
「よろしくお願いしまッス!」
 男子ならではの低音な挨拶に、私は思い切り頭を下げた。
(びっくりした……やっぱり大学生って、すごい)

「練習始めるぞ!」
 選手達はグラウンドに散らばっていった。
 顔も名前も全然わからないが、徐々に覚えていけば良いと、個人個人の紹介はされなかった。
 不安だけれど、きっと何とかなる。明るいチームのムードに、私はそう感じる。

 ただひとつの心配を除いては。

 自己紹介をする間、鋭い視線を感じていた。
 早乙女翔也先輩――

 まるで私の一挙手一投足を見張るような視線だった。
(気のせいだよね)
 希望的観測にすがりつつ、遼子さんについて仕事を覚える作業に取り掛かった。私にはやるべきことがあり、ひとつの気がかりに囚われてぼんやりしている場合ではないのだ。
 そう自分に言い聞かせた。


 第一日目はあっという間に過ぎた。
 気を張りつめていたせいか、心身ともにクタクタになってしまったけれど、何とか無事に終わった。とにかく、まずはスタートを切れたことに、私はホッとする。

 東野君が電話をくれたのは、大学正門のところで遼子さんと別れた後だった。
「今日はお疲れさん。頑張ったな」
 声を聞いて、安堵した。優しい響きが耳に心地良く、疲れも飛んでいきそうだった。
「これから店に寄るんだけど、佐奈も来ないか」
「あ、東野珈琲店?」
 今は午後の6時半である。

「行きたいです」
「よし、それじゃ先に行って待ってる。あ、寄り道することは香川さんに電話しておきなよ。それと、腹減ってるか」
 唐突な問いに、私はお腹を押さえた。そういえば、安心した途端に空腹を覚えたような。
「お腹、空いてます!」
「はは……良かった。いや、うちで食べないかなと思って」

 東野君のところで。ということは、東野君と一緒に……
 私は是非そうしたいと答えてから通話を切り、すぐ叔母に連絡した。夕飯の用意はまだだから、ゆっくりしておいでと言ってくれた。
 叔母は、東野君に関しては積極的に付き合うことをすすめてくれる。彼に全幅の信頼を置いているようで、私にはとても助かる信頼関係だった。


 東野珈琲店のドアを開けると、いつもどおりのコーヒーの香り、そしてマスターと君江さんが笑顔で迎えてくれた。お客さんはこの時間は少ないようで、空席が目立っている。
(あれ、東野君がいない?)
 先に待っているはずの彼の姿が見えずキョロキョロしていると、マスターが嬉しそうに教えてくれた。
「渉、何か作ってるよ」
「食べられるものだといいけどね~」
 君江さんがからかうようにウエスタンドアに声をかけると、それを合図に彼が出てきた。

「どういう意味ですか、それは」
 首を竦める母親をじろりと睨んでから、東野君は私の前にジュウジュウと音を立てるそれを置いた。 熱々の鉄板にのった、オムライスだった。
「すごい! 美味しそう」
 まるっこくてかわいい黄色のドームにデミグラスソースがとろりとかけられている。食欲をそそるいい匂い。思わず見とれていると、鉄板の横に小鉢のサラダが出された。
「勝手に作っちゃったけど、どうかな」
 エプロンをつけた東野君が、照れくさそうにするけど、私はもちろん、「いただきます」と手を合わせた。

「よかった。もし嫌いだったらって、心配してたんだ」
「好き嫌いは無いですよ」
 私が言うと、マスターがカウンターから身を乗り出して、「ほう、それは感心感心。素晴らしいねえ」と、真顔で褒めてくれた。
 思わぬ言葉に、「いえ、そんな」と、もじもじするが、マスターは首を振りつつ感心する。

「いやいや、俺はこんな仕事してるけど結構苦手な食べ物があってさ、お袋によく叱られたんだ。商売する人間が好き嫌い言ってどうする。人の好き嫌いして商売が出来るかってね。食べ物と人を一緒にしてるんだけど」
 君江さんがマスターの隣で頷き、続きを受ける。
「一理あるのよね。佐奈ちゃんは人の好き嫌いは無いほうでしょ」
「えっ、そんなことないですよ」
 そんなはずはない。私だって嫌いな人はいる。高校でも、気の合わないクラスメイトや苦手な先生とか、存在していた。

(苦手な……)

 ふと、彼が頭に浮かんだ。

(早乙女先輩)

 ぶるぶるっと首を振る。最初からそんなことを考えて、ネガティブになりたくない。
「佐奈、いいから食べて。冷めちゃうよ」
 東野君は、「邪魔しないでくれよ」と言って両親の間に割り込むと、冷たいお茶を出してくれた。それから自分のぶんのオムライスも調理場から運んできて、私の隣に腰掛ける。
「サッカーボールっぽい形にしようとしたけど、うまいことまとまらなくってさ。でも味は自信有り!」
 明るく笑った。不安もたちまち消え去るような、ホッとする笑顔だった。

 ほっこりと和んだ心で、東野君の手作りオムライスをいただいた。とてもとても美味しくて、明日も元気になれそうなパワーが湧いてくる。
(大丈夫です。私、頑張ります)
 あの人を忘れ、一緒に笑った。

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