37 / 82
交叉する人々
1
しおりを挟む
一晩中降り続いた雪は、辺り一面を雪景色に変えた。
白銀の世界と表現されるが、まさにそのとおり。朝陽が反射して、あまりにもまぶしい。
8年ぶりに再会したあの青年……原田もそうだと、美那子は思った。
(彼は28歳、私は33歳)
年月の重みが、のしかかる。 彼の若さを目の当たりにし、 めまいを起こしそうになった。
彼はまた、えもいわれぬ男らしさを身に着けていた。
低い声、まっすぐな眼差し、頼もしい体躯。
男……
男などという生き物は、とうに自分の世界から追い払ったはずなのに。
その男らしさに今、胸がざわめいている。
美那子は独り窓辺に座り、雫を落とす小さな氷柱を見つめた。
やがてかぶりを振って立ち上がり、照明のスイッチを入れると、工房の掃除に取りかかる。カフェの客や会員が来る前に、やらねならないことがたくさんある。
「しっかりしなきゃ」
美那子は自分に言い聞かせ、机を拭いたりゴミを捨てたりした。
最後に、文治のエプロンを洗濯するためにポケットの中を調べた。かさりと音がして、小さな紙切れが出てきた。何かのメモである。
「可愛い・純粋・25歳」
つぶやくように読み上げた美那子は、作品のイメージメモだと気付く。
更によく見ると、読めるか読めないかのかすれた字で『ハラダ』と記してあるのがわかった。
「ハラダ……原田良樹君」
美那子は、アクセサリーを受け取りにきた良樹を思い出す。
良樹に良い人ができたと文治が言っていた。アクセサリーは、その女性への贈り物だと。
つまりこのメモは、彼女のイメージなのだ。
「可愛くて、純粋な、25歳」
美那子は単語を組み立てて読んだ。
何とも言えない想念が暗雲となって湧き上がる。一旦は頭を振って払おうとしたが、駄目だった。
見も知らぬその若い女を、憎らしいと思う。
自分が過去に男に裏切られてボロボロになったのも25歳だった。
同じ25という年齢で、彼女はあの理想的に成長した青年から愛され、贈り物を受け取っている。
さぞ幸せだろうと想像し、美那子は誰もいない工房の中、崩れるように膝をついた。
どれだけ理不尽なのか分かっている。
分かっているが、憎しみの気持ちをどうすることもできない。
あの時、美那子は25歳だった。
一年ほど付き合い、結婚を約束した男性が傍らにいた――
美那子は大学卒業後、一流企業に就職した。
本社ビルの受付に配属された彼女は、その美貌と女性らしい魅力で、たちまち評判になる。
男達は競ってアプローチした。美那子に憧れ、自分のものにしようと必死だ。貢物と称してプレゼント攻勢をかける者までいた。
しかし美那子は、その誰とも違う方法で接する男に攻略された。
同期の社員、酒本浩二という男である。
彼はすらりと背が高く、美形で、女性社員に当然モテる。仕事も新人ながらやり手であり、とにかく目立つ男だった。
浩二も美那子を口説く一人だが、やり方が違っていた。
美那子を強引に誘ったかと思えば、翌日には知らん顔をする。何でもない日にプレゼントするなど……変則的な方法が、ちやほやされることに慣れた美那子には効果的だった。
そんな浩二に、美那子はいつしか惹かれ始める。
身勝手に女を振り回す言動を、男らしさだと勘違いしたのだ。彼女は見栄えの良いプレイボーイの術中に、気が付けば深く嵌っていた。
やがて恋人となった浩二に、美那子は結婚を申し込まれる。もちろん、二つ返事で承諾した。
彼こそが私の運命の人。素晴らしいロマンス。
美那子はすっかり舞い上がり、浩二以外目に入らない。彼に関する黒い噂も、振られた人達のやっかみだと思い込んだ。
浩二を愛するあまり、彼に隷属しているという自覚がまったくなかった。
例えば浩二とデートする時、食事や交通費を負担するのは、ほとんど美那子である。それだけではない。浩二は、なんだかんだと言い訳しては美那子に財布を開けさせるのだ。
「結婚したら、倍にして返すよ」
「大丈夫、わかってるから」
「愛してるよ」
『結婚』、そして『愛してる』の言葉は、魔法の呪文だ。美那子はもう、何もかもそれで許してしまう。
完全に、"初めての男"の、虜だった。
美那子は当時も、実家で暮らしていた。
同居する文治は、美那子の生活が乱れていることに、ある日気が付く。それは明らかに、酒本浩二という恋人ができてからだ。
(どうも、たちの悪い男だ……)
浩二は時々、車で美那子を迎えにくる。しかし、文治に挨拶もせず、美那子を乗せると逃げるように走り去ってしまう。
何か後ろ暗いことでもあるように。
文治は娘の交際相手に疑問を持った。父親として意見しようと思った矢先、浩二と結婚すると、美那子に告げられる。
文治は我慢がならなかった。
大切なひとり娘が、あんな怪しげな男と結婚など、とんでもない話だ。
だが美那子は、理性の入る隙間もない、愛欲の渦中にいた。
父親が懸命に道理を説いても耳を貸さず、浩二をひたすら愛し、信じるという体たらく。
文治は頭を抱えた。
今に娘どころか、自分の店や土地も、あの男に持っていかれるのでは――それだけのことをやりそうな雰囲気を、酒本浩二に感じる。
しかし何よりの問題は、美那子自身だ。
(私の育て方が間違っていたのか……)
妻を早くに亡くした文治は、ひとり娘の美那子を大切に育ててきた。
娘が歩く道を先回りし、危険なものは前もって排除するという、過保護なやり方である。そのせいか、周囲に箱入り娘と揶揄されることもたびたびだった。
しかし、これほど世間知らずな人間になるとは――
堕ちていく娘を見て、文治は激しい後悔に苛まれた。
(誰かに相談できれば……でも、こんなこと誰に言えようか)
文治は一人、悩んでいた。
白銀の世界と表現されるが、まさにそのとおり。朝陽が反射して、あまりにもまぶしい。
8年ぶりに再会したあの青年……原田もそうだと、美那子は思った。
(彼は28歳、私は33歳)
年月の重みが、のしかかる。 彼の若さを目の当たりにし、 めまいを起こしそうになった。
彼はまた、えもいわれぬ男らしさを身に着けていた。
低い声、まっすぐな眼差し、頼もしい体躯。
男……
男などという生き物は、とうに自分の世界から追い払ったはずなのに。
その男らしさに今、胸がざわめいている。
美那子は独り窓辺に座り、雫を落とす小さな氷柱を見つめた。
やがてかぶりを振って立ち上がり、照明のスイッチを入れると、工房の掃除に取りかかる。カフェの客や会員が来る前に、やらねならないことがたくさんある。
「しっかりしなきゃ」
美那子は自分に言い聞かせ、机を拭いたりゴミを捨てたりした。
最後に、文治のエプロンを洗濯するためにポケットの中を調べた。かさりと音がして、小さな紙切れが出てきた。何かのメモである。
「可愛い・純粋・25歳」
つぶやくように読み上げた美那子は、作品のイメージメモだと気付く。
更によく見ると、読めるか読めないかのかすれた字で『ハラダ』と記してあるのがわかった。
「ハラダ……原田良樹君」
美那子は、アクセサリーを受け取りにきた良樹を思い出す。
良樹に良い人ができたと文治が言っていた。アクセサリーは、その女性への贈り物だと。
つまりこのメモは、彼女のイメージなのだ。
「可愛くて、純粋な、25歳」
美那子は単語を組み立てて読んだ。
何とも言えない想念が暗雲となって湧き上がる。一旦は頭を振って払おうとしたが、駄目だった。
見も知らぬその若い女を、憎らしいと思う。
自分が過去に男に裏切られてボロボロになったのも25歳だった。
同じ25という年齢で、彼女はあの理想的に成長した青年から愛され、贈り物を受け取っている。
さぞ幸せだろうと想像し、美那子は誰もいない工房の中、崩れるように膝をついた。
どれだけ理不尽なのか分かっている。
分かっているが、憎しみの気持ちをどうすることもできない。
あの時、美那子は25歳だった。
一年ほど付き合い、結婚を約束した男性が傍らにいた――
美那子は大学卒業後、一流企業に就職した。
本社ビルの受付に配属された彼女は、その美貌と女性らしい魅力で、たちまち評判になる。
男達は競ってアプローチした。美那子に憧れ、自分のものにしようと必死だ。貢物と称してプレゼント攻勢をかける者までいた。
しかし美那子は、その誰とも違う方法で接する男に攻略された。
同期の社員、酒本浩二という男である。
彼はすらりと背が高く、美形で、女性社員に当然モテる。仕事も新人ながらやり手であり、とにかく目立つ男だった。
浩二も美那子を口説く一人だが、やり方が違っていた。
美那子を強引に誘ったかと思えば、翌日には知らん顔をする。何でもない日にプレゼントするなど……変則的な方法が、ちやほやされることに慣れた美那子には効果的だった。
そんな浩二に、美那子はいつしか惹かれ始める。
身勝手に女を振り回す言動を、男らしさだと勘違いしたのだ。彼女は見栄えの良いプレイボーイの術中に、気が付けば深く嵌っていた。
やがて恋人となった浩二に、美那子は結婚を申し込まれる。もちろん、二つ返事で承諾した。
彼こそが私の運命の人。素晴らしいロマンス。
美那子はすっかり舞い上がり、浩二以外目に入らない。彼に関する黒い噂も、振られた人達のやっかみだと思い込んだ。
浩二を愛するあまり、彼に隷属しているという自覚がまったくなかった。
例えば浩二とデートする時、食事や交通費を負担するのは、ほとんど美那子である。それだけではない。浩二は、なんだかんだと言い訳しては美那子に財布を開けさせるのだ。
「結婚したら、倍にして返すよ」
「大丈夫、わかってるから」
「愛してるよ」
『結婚』、そして『愛してる』の言葉は、魔法の呪文だ。美那子はもう、何もかもそれで許してしまう。
完全に、"初めての男"の、虜だった。
美那子は当時も、実家で暮らしていた。
同居する文治は、美那子の生活が乱れていることに、ある日気が付く。それは明らかに、酒本浩二という恋人ができてからだ。
(どうも、たちの悪い男だ……)
浩二は時々、車で美那子を迎えにくる。しかし、文治に挨拶もせず、美那子を乗せると逃げるように走り去ってしまう。
何か後ろ暗いことでもあるように。
文治は娘の交際相手に疑問を持った。父親として意見しようと思った矢先、浩二と結婚すると、美那子に告げられる。
文治は我慢がならなかった。
大切なひとり娘が、あんな怪しげな男と結婚など、とんでもない話だ。
だが美那子は、理性の入る隙間もない、愛欲の渦中にいた。
父親が懸命に道理を説いても耳を貸さず、浩二をひたすら愛し、信じるという体たらく。
文治は頭を抱えた。
今に娘どころか、自分の店や土地も、あの男に持っていかれるのでは――それだけのことをやりそうな雰囲気を、酒本浩二に感じる。
しかし何よりの問題は、美那子自身だ。
(私の育て方が間違っていたのか……)
妻を早くに亡くした文治は、ひとり娘の美那子を大切に育ててきた。
娘が歩く道を先回りし、危険なものは前もって排除するという、過保護なやり方である。そのせいか、周囲に箱入り娘と揶揄されることもたびたびだった。
しかし、これほど世間知らずな人間になるとは――
堕ちていく娘を見て、文治は激しい後悔に苛まれた。
(誰かに相談できれば……でも、こんなこと誰に言えようか)
文治は一人、悩んでいた。
0
お気に入りに追加
105
あなたにおすすめの小説
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
裏切りの代償
志波 連
恋愛
伯爵令嬢であるキャンディは婚約者ニックの浮気を知り、婚約解消を願い出るが1年間の再教育を施すというニックの父親の言葉に願いを取り下げ、家出を決行した。
家庭教師という職を得て充実した日々を送るキャンディの前に父親が現れた。
連れ帰られ無理やりニックと結婚させられたキャンディだったが、子供もできてこれも人生だと思い直し、ニックの妻として人生を全うしようとする。
しかしある日ニックが浮気をしていることをしり、我慢の限界を迎えたキャンディは、友人の手を借りながら人生を切り開いていくのだった。
他サイトでも掲載しています。
R15を保険で追加しました。
表紙は写真AC様よりダウンロードしました。
【完結】愛も信頼も壊れて消えた
miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」
王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。
無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。
だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。
婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。
私は彼の事が好きだった。
優しい人だと思っていた。
だけど───。
彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。
※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。
ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました
宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。
ーーそれではお幸せに。
以前書いていたお話です。
投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと…
十話完結で既に書き終えてます。
浮気をした王太子が、真実を見つけた後の十日間
田尾風香
恋愛
婚姻式の当日に出会った侍女を、俺は側に置いていた。浮気と言われても仕方がない。ズレてしまった何かを、どう戻していいかが分からない。声には出せず「助けてくれ」と願う日々。
そんな中、風邪を引いたことがきっかけで、俺は自分が掴むべき手を見つけた。その掴むべき手……王太子妃であり妻であるマルティエナに、謝罪をした俺に許す条件として突きつけられたのは「十日間、マルティエナの好きなものを贈ること」だった。
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる