夫のつとめ

藤谷 郁

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オレ色に染めてやる

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 童貞

 童貞

 童貞ってなんだっけ――

 南村の告白を、希美は頭の中で反芻する。そして懸命に、耳慣れない単語の意味を思い出そうとした。

「……えーと」

 視線を泳がせながら、なんとなく椅子を立つ。とにかくこの場を離れて、落ち着いて考えなければ。希美は彼の手をそっと解放した。

「北城さん?」
「ごめんなさい、ちょっとその……食事も済んだことだし、お化粧を直しにいってくるわ」
「あの……」
「すぐに戻るから」

 不安げに見上げる南村をテーブルに残し、足早に立ち去った。

 通路を抜ける途中、さきほどロビーで会ったカップルが食事しているのに気が付く。向こうも気が付いたようで、男はデザートフォークを持つ手を休め、女のほうは嫌そうな顔で希美を見てくる。

 しかし、そんなことはどうでもよかった。
 南村に突き付けられた案件をなんとかするのが急務である。



 化粧室に入ると、そこには誰もおらず希美は一人きりになれた。
 鏡の前に立ち、気を落ち着けるように胸を押さえる。

(どうていって、確かアレよね。今、彼が言ったとおり女の人を抱いたことがない……ぶっちゃけ、やったことがないって意味よね?)

 希美はこれまで、そんな男を相手にしたことがない。誰もが経験者であり、物言わずとも組み合える猛者ばかりだった。

(それにしても、わざわざ童貞を宣言する男ってどうなのよ)

 バッグを開いてスマートフォンを取り出すと、せかせかと指を動かしてアドレスを繰る。そっち方面に詳しい人間を探し、どんなあんばいなのか訊いてみようとした。
 しかし、どうやって訊けというのだ――
 スムーズにやれるのか、それともテクニックが要るの……とか?

「かっこ悪すぎる……」

 ぴたりと指を止める。
 希美の端末にはたくさんの番号が登録されているが、そこまで訊ける友人は皆無なことに気付かされた。

(参ったわねえ) 

 きれいに磨かれた鏡の中、困惑する女がいる。
 南村のために最高の自分を演出してきたのに、なんてざまだろう。というより、あと一歩のところで返し技をくらったことが悔しい。
 しかも童貞という、かつて受けたことのない荒業である。

 南村を夫にするつもりなら、今夜はいわば『初夜』のようなもの。夫婦生活の第一歩で躓くわけにはいかない。
 最高の一夜にしなければ――

「そうだわ。彼女なら経験豊富だし、確かな答えが聞けるかも」

 希美はふと閃いて、アドレスのグループを切り替えた。エッチの相談だからと言って、友人に拘る必要はない。
 そわそわしながらスマートフォンを耳に押し当てると、彼女が応答した。

『はい、山際武子でございます。お嬢様、いかがなされましたか』

 低く迫力のある声が聞こえてきて、希美はほっとする。誰より頼もしい味方の存在を忘れるなんて、どうかしていた。

「武子さん、お休みのところごめんなさい。緊急事態なの」

 彼女は住み込みの家政婦だが、月に6日ある休みには自宅に戻っている。今夜がその日だった。

『大丈夫ですよ。今は私一人ですので、ご遠慮なく』

寛人ひろとさんはお仕事なの?」

『オフィスビルの引越しだそうで、夜中の作業に駆り出されました』


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