Destiny

藤谷 郁

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忘れられない思い出

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「わあああ、ありがとうございます! なんで気づかなかったんだろ。ほんとにすみません。お騒がせしました!」

「いやいや、灯台下暗しってやつです。意外と盲点だったりしますよ」


恥ずかしさのあまり顔が熱くなった。それに、盗まれたなんて考えた自分が情けない。勝手に落としたくせに、被害妄想にもほどがある。


「ともあれ、見つかって良かったです」

「はい。本当に助かりました。ありがとうございます」


何度もお礼を言うと、掛井さんはちょっと照れた感じになる。

会社ではほとんど話したことのない営業の人を、私は初めて真正面から見た気がした。

そして納得したのだ。

彼が現れたとき安堵したのは、ほんわかとした雰囲気に包まれたから。困っている私を放っておけず声をかけてくれた彼が、慈悲深い仏様に見えた。

なんて良い人だろう!


「ところで、これから電車でお帰りですよね。駅までお送りしますので、少し待っていてくれますか?」

「えっ?」


何を言われたのか分からず、まごついた。しかし、車で送るという意味だとすぐに気づいて遠慮しようとしたが……


「社に戻るついでなので」


と、掛井さんは傘を私に持たせたまま、通りの向こうにある駐車場へと駆けだしてしまった。雨が降っているのに。



しばらく待っていると、『楓屋』とプリントされたバンが目の前に止まった。運転席から合図されて、私は小走りで近づいて助手席に乗り込んだ。


「すみません。何から何まで」

「いいえ。それにしてもすごい雨だなあ。昼間はあんなに晴れていたのに」


掛井さんの髪が濡れている。私は申しわけなくなり、バッグからハンカチを取り出して彼に渡した。


「髪を拭いてください。私、いつもハンカチは二枚持ってて、これはまだ使ってないから、きれいなので」

「ああ、大丈夫ですよ。すぐに乾きます」

「髪が濡れたままなのは、よくないです。風邪をひいてしまいます」


半ば強引に押し付けると、彼は遠慮がちに受け取り、髪を拭いた。


「ありがとう。今度、洗濯してから返しますね」

「そんな、気にしないでください。親切にしていただいたんだから、ハンカチくらい」

「はは……親切だなんて、大げさですよ」


掛井さんは濡れたハンカチをポケットに入れて、ハンドルを握った。私は何も言えなくなり、ただただ申しわけなくなる。


「名古屋駅でもいいですか? ちょうど前を通るので」

「あ、はい。すごく助かります」


ウインカーを出して走りだす。和菓子の箱を積んだ社用車は甘い香りがした。古い車だけれど、乗り心地が良いのは彼の運転が上手だから。


「夏目さん。お仕事はもう慣れましたか?」

「え、ええ。覚えることがたくさんで大変ですが、なんとか……」

「それは良かった」


助手席で小さくなる私に、掛井さんが話しかけてくれた。明るい口調と優しい笑顔のせいか、私はリラックスして受け答えができた。

名古屋駅に着くと、彼も車を降りて見送ってくれた。最後の最後まで親切にされて、感動する。

穏やかな人だけど、行動がてきぱきとしたところは年上の男性らしくて頼もしい。言葉遣いや態度には、人柄のよさが表れている。

彼はきっと、私が得意先の人間でなくても、親切にしてくれただろう。

そう確信できた。



あれから一年以上が過ぎたけれど、忘れられない大切な思い出だ。掛井さんのおかげでこの街が好きになり、仕事も頑張ることができたのだから。

それに私は、彼のことをますます好きになっている。


「だけど、彼のほうは私のことを、特になんとも思ってないよね」


会社で顔を合わせても、挨拶をしたり、天気の話をするぐらいの間柄だ。もちろん、彼が私の気持ちに気づいた様子もない。自分に自信が持てたら、違っていただろうけど……

とにかく、彼は私のことをなんとも思っていない。それは確かなはず。


「でも、これは一体……?」


夜、ベッドに入ってから、掛井さんがくれたチケットをしげしげと眺めた。


和菓子の『楓屋』犬山店
歳末特別販売会 ご招待チケット


「どうして私に? 楓屋さんの担当は安田さんなのに」


他の皆様には内緒でお願いします。


意味深なセリフを思い出し、あらぬ妄想にとらわれるが、慌てて打ち消した。


「た、たまたまだよ。チケットが残ってたのを思い出して、ちょうど私が声をかけたから、渡してくれただけで……」


電気を消して、ふとんを被る。

今夜は北風が強く、狭いアパートの部屋をごうごうと鳴らした。


「明日は寒そうだから、掛井さんの言うとおり暖かくして出かけよう」


ひとりごちて、目を閉じる。

なかなか眠れなかった。


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