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1巻
1-2
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「いい加減にしてもらえないかしら?」
「ククッ……いや、もう少し……ブフッ、待ってくれ……クククッ」
目の前の男は先ほどの私の無様な様子に、いまだ腹を抱えて笑っている。
かれこれ十分以上は笑っているのではないかしら? 本当に失礼な男だわ。私なんて、まだ心臓が口から飛び出そうなほどバクバクしているのに!
「それで、私はこれからどうなるの? どこの牢屋に入れられるの?」
「ははっ……は? 牢屋?」
「貴方はユークリッド帝国軍の人間でしょう? ここはユークリッド帝国が管理しているのだから、私は不法侵入者として処罰を受けるのではなくて?」
実際にこの森に入ったと思われる者は、誰ひとり帰ってきていない。まともな扱いをされるかどうかもわからない。
だけど最後は本当の私らしく、後悔の念を持つことなく天に還りたい。
「もう覚悟は決めたわ。せめて楽に処刑してちょうだい」
「いや待て、誰がそんな物騒な話をした?」
心底わからないという表情だ。
私の覚悟はできているのだから、隠さなくてもいいのに。
「誰がって……ここは冥府の森よね?」
「そうだ」
「ユークリッド帝国軍が管理しているのよね?」
「ああ」
「それなら私は許可なくこの森で生活していたのだから、不法侵入者よね?」
「いや、そこが違う」
「え?」
なんですって? なにがどう違うのよ?
青年はようやく笑いがおさまったらしく、いたって真剣に話をしてくれる。その様子に嘘はないようだ。
「ユークリッド帝国が管理はしているが、所有はしていないから不法侵入にはならない」
「……そうなの? それなら私は侵入者として牢屋に入れられるのではないの?」
「魔石を窃取しに来たなら話は別だが、罪を犯していないのに牢屋に入れるわけがないだろう。少なくとも帝国軍が管理している限り、そんな横暴なことはしない」
呆れたように小さなため息をつき、青年は説明をしてくれた。
「なんてことなの! 私はまだ自由なのね‼」
私は嬉しくて、満面の笑みを浮かべる。
青年はなぜかカキンッと固まった後、咳払いして姿勢を正す。そして真正面から私を見すえて続けた。
「自由なのは構わないが、最低限の条件はつけさせてもらう」
「最低限の条件?」
青年はぐっと眉間にシワを寄せて、一切の妥協を許さないというような決意に満ちた表情で条件を挙げていく。
「まず、テントは禁止だ」
「あら。それなら寝袋はいいのかしら?」
青年の眉間のシワが一本増えた。
「もっとダメだ! 次に狩りも禁止だ」
「それなら釣りしかないわね。道具の用意は頼めるかしら?」
青年は眉間のシワをさらに増やして、激しく禁止事項を口にする。
「道具は用意しない! 野草だけで食事を済ますのもダメだ! 結界も張らずにのんびり外でお茶を楽しむのもダメだ!」
「待って、それでは私がここで生きていけないわ! 食べるものは森の中で手に入れないと無理よ!」
あまりの厳しい条件に思わず大きな声を上げてしまう。森で手に入れられないのなら街まで買いに行かなければならないのだが、最寄りの村まで歩いて片道二日はかかる。
念のために持ってきていた転移魔道具は帝国軍の騎士たちから逃れる時も使っていたので、次は魔石を交換しないと利用できない。魔石を交換するにも街にある魔道具専門店まで行く必要がある。馬車なんてこの辺は通らないし、そこまで歩いていけということなのか。
……それにしても、ここに来てからの暮らしぶりが筒抜けだ。どうやら私の存在はバレていたらしい。必死に逃げ回っていたのに、なんともいえない気持ちになる。
「無理ではない。この屋敷にいればいい」
「……なにを、おっしゃっているのか、よくわからないわ」
この方はなにを血迷ったことを口走っているのかしら? 私はそんなことを望んでいるわけではないわ。ただ自由がほしいだけよ。
「このお屋敷はユークリッド帝国のものではないの?」
「正確には帝国から派遣された管理者と騎士たちが使える屋敷だ」
「それなら尚更ですわ。私はカメロン王国の元浄化の認定聖女で、追放されてこの森に捨てられた者です。ここでお世話になるわけにはいかないわ」
これでわかってくれたかしら? あまり話したくなかったけれど、納得してもらうためには仕方ないわ。
「……追放の話は知っている。いったいなぜそんなことになったんだ?」
「そうですわね。簡単に申し上げると、新たな想い人ができた元婚約者が、私から認定聖女の地位を剥奪し冤罪を着せてこの森に追放したのです」
自分で説明しておいてなんだけど、相当悲惨な話に聞こえる。ひどすぎて笑えてくるほどだ。
「なるほど……それは後で詳しく聞かせてくれるか?」
え、どうしてこの方が機嫌を悪くするの? なにか気分を害するような内容だったかしら?
「ええ、それは構わないけれど……私はむしろ自由になれて喜んでおりますの。だからできれば好きにさせてほしいのです」
すると彼はふわりと溶けるように優しい顔になって、琥珀色の瞳で私を見つめてくる。この方の反応がいまいち理解できない。
「本当に君は……ならば、管理者としての命令だ。ギルティア・エル・マクスター。君が冥府の森にいる間は、この屋敷に逗留せよ」
「いえ、ですから私は自由が……私は、名乗っておりませんわ……そういえば森でも名を呼ばれたような……しかも管理者? 貴方は管理者ですの⁉」
「ああ、俺が冥府の森の管理者レクシアス・ハデスだ」
なんてこと! この方が管理者だったなんて、聞いてなくてよ――⁉
* * *
冥府の森の管理者レクシアス・ハデス。俺がそう呼ばれるようになってから、もう三年が経った。
まさかこんな場所でギルティアと会えるなんて想像もしていなかった。
俺の目の前でころころと表情を変える彼女から目が離せない。そんなギルティアを堪能しながら、俺は初めて彼女と会った時のことを思い出していた。
俺がギルティアに出会ったのは十一歳の時だ。
俺は父の仕事に同行してカメロン王国を訪れていた。後学のためにと、毎回必ず兄弟の誰かが連れていかれていた。その時はたまたま俺だったんだ。
父たちが仕事の話をしている間は、俺の遊び相手として仕事相手の娘があてがわれた。それがギルティアだった。
銀糸のような細い髪は光に透けてキラキラしていて、神秘的な紫の瞳は宝石のアメジストみたいだった。まあ、それだけならここまで俺の心に残らなかったと思う。
ある時ふたりで庭園を散歩中に、鳥の雛が巣から落ちて怪我をしているのを見つけた。ギルティアはその雛を介抱すると言い出して、俺も暇だったから世話を手伝った。でもその甲斐なく、雛はわずか三日で儚くなってしまった。
ギルティアが泣くと思った。彼女はまだ八歳の子供だし、泣かれたら面倒だなって思っていた。
だけどその八歳の少女は凛とした佇まいで、聖女の特別な魔法を使った。
『黒薔薇の鎮魂歌』
ギルティアがそう言うと、雛の魂は七色の光を放って彼女の前に現れた。黒薔薇の花びらがあたりに舞い散っていて、とても美しかった。心を奪われたのはその時だ。
俺の目にはギルティアしか映らなくなった。
『最後の言葉はある?』
とても不思議な光景だった。俺には魂の言葉は聞き取れなかったけど、七色の光が天に還った後に彼女がこう言ったんだ。
『あの雛が、寂しい時に撫でてくれて嬉しかったと言っていました』
それを聞いて俺は不覚にも泣いてしまった。
夜は俺が雛の世話をしていたんだけど、寂しかったのは俺だったから。
後学のためと言って連れてこられても、いつも放置されていた。自国でも俺は妾の子供だったから待遇はよくなかったし、友達だってひとりもいなかった。母は長い間病に臥せっていて甘えることもできなかった。
そっと触れた雛の温もりは心地よくて、俺の寂しさを埋めてくれた。
そんなみっともなく泣いている俺を、ギルティアは優しく抱きしめた。
俺より小さい女の子なのに、まるで包み込まれたようだった。
俺は完全にギルティアに堕ちた。
それから俺は勉強や剣術、魔法の習得に励んだ。ギルティアに求婚して受け入れてもらえるように、あんな情けない姿は二度と晒さないようにするためだ。そうして五年後に、また俺がカメロン王国に行ける機会が回ってきた。
前に会った時はメロンタルトが好物だと言っていたから、カメロン王国の王都で一番人気のある店も調べておいた。市井を視察するといえば、外出の許可は出るだろう。
やっと再会できると期待していたのに、話し相手として来たのはギルティアの兄だった。さりげなくギルティアのことを聞いたら、浄化の認定聖女に選ばれて第三王子の婚約者になったという。
ショックなんてものじゃなかった。その後なにをどうしていたのか、うろ覚えだ。
あげく、この五年の努力の結果なのか、俺を厄介払いしたくてわざと危険な任務をやらせたいのか、魔物があふれる冥府の森の管理者に任命された。まあ、その時の俺にはどうでもよかったから黙って引き受けた。
俺は冥府の森に引きこもって、砂を噛むような日々を過ごした。
森全体に結界を張り、とりあえず森から魔物たちが出られないようにして、増えすぎた時は間引きした。冥府の森の影響で結界の外でも魔物は大量発生していたけど、他国の領土だし、それくらいは自分たちで処理するべきだろう。
ああ、カメロン王国の方角だけはギルティアがいるから、結界の外も手が回る時は魔物を処理しておいた。磁場の影響なのか、そちらの方向はやたら魔物が多く発生していたからできるだけ気を配っていたんだ。ギルティアがあの国にいない以上、もう必要ないが。
魔物の異質な存在はよく目立つから、結界の中にいる個体ならすべて把握できていた。戦う時以外は、執務室でただ目の前の作業をこなすだけの時間を過ごした。
そんなある日、騎士たちから森に若い女性が迷い込んでいるという報告が上がった。たまに誤って迷い込んだり、なにかの罰でこの森に追放されたりする人間がいるので、今回もそうだと思っていた。いつものように見つけたら帝国へ連れていくか、希望の国へ送り届けるように指示を出して終わるはずだった。
ところがある日、俺の右腕である冥府の騎士団の副団長、エイデンから追加で報告を受けた。
「レクシアス様、先日報告した女性の件ですが、どうやら森で自活しているようです」
「は? 女がひとりでこの森で生活なんて……できるのか?」
冥府の森で自活なんて、聞いたこともない内容に耳を疑った。
「していますね。テントを持ち込んでいるようで、野営の跡もありました。騎士たちが声をかける前に姿を消すので、まだ本人から話を聞けていませんが」
騎士たちの報告をまとめると、テントで寝起きして、結界も張らずに優雅にお茶を楽しみ、魔物を狩ったり野草を摘んだりして過ごしているようだ。にわかには信じがたいが、複数の報告が上がっているから間違いないだろう。
場合によっては強制的に帝国に送り届けることも視野に入れて、あらためて指示を出した。報告書には銀髪の若い女性とある。俺の心から決して消えない愛しい彼女が頭をよぎる。
だけどそんな都合のいい話があるわけがない。
そもそもこんなところに認定聖女であるギルティアがいるわけがないと、くだらない考えを捨てた。
それから数日後、強い魔物の気配を感じ取った。
雰囲気からして大型のグレートマミーだ。タイミングの悪いことに帝国で大きな祭りが開かれていて、家族がいる騎士たちは休暇を取っていた。ほかの騎士たちも巡回や魔物の討伐で手がふさがっていたので、面倒だなと思いながらも俺は単身、討伐に向かった。
――そこで目にしたのはあの日カメロン王国で見た黒薔薇の花びらと、さらに美しく成長したギルティアの姿だった。
あまりに望みすぎて白昼夢でも見ているのかと思った。
ギルティアを見間違うことはないと自信があったが、ここは冥府の森だ。なにが起きてもおかしくない。
慎重になりつつも、心の中は歓喜にあふれていた。そこで騎士たちから上がっていた報告を思い出す。
まさか、冥府の森で自活していた女性が本当にギルティアだったのか?
「あの……?」
少し高めの透き通るような声が、俺の鼓膜を震わせる。子供の頃とは違うけど、ずっと聴いていたいほど心地いい。
俺が余韻に浸っていると、ギルティアは急に顔を引きつらせてウエストポーチを漁り始めた。
「おい! 待っ――」
そして、あっという間に姿を消してしまった。
あまりにも突然で、あまりにも一瞬で。
夢か現実か自信がなかったけれど、グレートマミーの魂は確かに天上に還っているし、黒い薔薇の花びらも残っていた。
ギルティアがいる。
俺の手の届く場所にいる。
それが夢ではないと確信したくて、魔道具の痕跡を頼りにギルティアの後を追った。幸いにも魔道具での転移は魔石の魔力を変換するため、わずかにタイムラグが生じる。
俺は転移魔法で先回りして、疲れた様子のギルティアに眠りを誘う香を使った。多少は卑怯なやり方だったかもしれないが仕方ない。愛しい人の健康には代え難いのだ。
「やっと……捕まえた」
もう決して離さないと誓いながら、俺は腕の中で眠るギルティアを屋敷に連れ帰った。
屋敷に戻るや否や部下に指示を出して、カメロン王国でなにがあったのか調べた。
結果、カメロン王国の第三王子は万死に値するという結論に至った。
俺がどんなに望んでも手に入れられなかったギルティアを、やすやすと手に入れておいて婚約破棄だと? しかも大勢が集まる夜会でだと? ああ、そうだ。脳みそが足りてない相手の女も万死に値するな。
改めて確認してみると、カメロン王国の国王から、ギルティア捜索のために冥府の森に入りたいと申請が届いていた。もちろん即却下しておいた。自分から手放しておいて捜索する意味がわからない。
今はギルティアの回復が最優先だ。それに、こんな素晴らしい女性を捨てるような王国のヤツらに渡せるわけがない。
なにより俺がもう手放したくない。ギルティアを俺のものにすると決めたんだ。
だけどなぜ彼女は俺から逃げ出したんだ?
やはり子供の頃にたった一度会ったくらいでは覚えてないか……いや、いいんだ。俺がギルティアのことを覚えていれば問題ない。
彼女を屋敷の一番いい部屋に運び、最高の寝具でゆっくりと眠らせる。そろそろ目覚める頃かとソワソワしていたら、突然、真上にある彼女の部屋からガタンッというものすごい音が聞こえてきた。慌てて窓から見上げたら、彼女がシーツに掴まってぶら下がっていた。
驚いたのと、笑いたいのと、目のやり場に困るのと、いろんな感情がごちゃ混ぜになったけれど、とりあえず逃走は阻止できたようでホッとした。
ギルティアが俺を見つけた時の絶望的な顔が、たまらなく愛しいと思った。
そうだ、そうやってあきらめて、俺に堕ちてきて。
またあのアメジストみたいな瞳で俺を見つめて。
美しいその声で俺の名前を呼んで。
ギルティア・エル・マクスター。君をもう逃すつもりはないのだから。
* * *
「で、ギルティアはなんと言ったんだ?」
「……黒いドレスを着ているのは死者の魂を弔うためですわ。ニコリともしないのは申し訳ないことでしたが、殿下のお話には笑顔になる要素がございませんでしたので、と」
私は今、尋問を受けている。しかも帝国軍の管理者直々にだ。
なぜだかわからないけど、婚約破棄の時の話を根掘り葉掘り聞かれていた。
「そうか、さすがギルティアだ。ククッ、容赦ないな」
「こんなことを聞いてどうされるのですか?」
ハデス様は姿勢を崩して挑戦的な視線を向けてくる。頬杖をついていても美青年なのは変わらないのね……と考えてしまう自分が情けない。
いけないわ、見目のいい男に騙されないようにしなくては。ブランド殿下の件で、学習したはずよ。しかもブランド殿下より素敵なんですもの、用心しすぎても足りないくらいだわ。
「ギルティアはどうしたいんだ?」
「質問しているのは私ですわ。それから私のやりたいことは決まっています」
「なんだ? 言ってみろ」
「とにかく自由になりたいのです。誰からも強制されず、ただ、自分の心のままに生きていきたいのです」
彼はその言葉に腕を組む。さっきまでの楽しそうな気配はなりをひそめて、なにかを真剣に考えているようだ。
もし本当に侵入者として処罰しないのなら、ある程度自由にさせてくれてもいいと思うのだけれど。
「そうだな、善処しよう」
ハデス様の言質を取ってから一週間が過ぎた。
『善処しよう』
そう言ったわよね? ハデス様はそう言ったわよね⁉ それなのに、いまだに部屋から出してもらえないのだけど、どういうことかしら⁉
「しかもここに来てからハデス様にしか会ってないし……待って、やっぱり私を牢屋に入れるつもりかもしれないわ」
この屋敷に来てから、ハデス様以外の人間に会っていない。彼が食事を運んできてくれて、部屋の掃除も魔道具ひとつで済ませてくれる。
身の回りのことは訓練の一環でできるようになっていたので、私は問題なかったけれど、もしひとりでは着替えもできない深窓の令嬢だったら大変なことになっていた。
「人の気配は感じるけど……私と会わせたくないのかしら?」
「なんだ? 会いたいヤツでもいるのか?」
ヒュッと喉が絞まるような圧迫感を感じて振り返ると、ハデス様が突き刺さりそうな冷気をまとい扉にもたれて立っていた。いつもはちゃんとノックしてくれるのに、今回はいきなり扉を開けたようだ。
文句のひとつも言いたいが、全面的に世話をされている立場だ。出かけていた言葉を呑み込み、代わりに嫌味をこめて問いかけに答えた。
「違いますわ。ここに来てからハデス様以外、どなたともお会いしないので不自然に感じたのです」
私を人前に出せない理由でもあるのかと、暗に尋ねる。
だってハデス様がしているのは、本来なら侍女やメイドがやる仕事だもの。
「そうか……この部屋には近づくなと命じてあるからな。心配しなくていい」
えーと、そんな命令が出されていたの? いったいなぜ……? 三食昼寝つきで、十分すぎるほど贅沢な毎日を過ごさせてもらっているけれど、納得できないわ。
「ハデス様、私は他の方と交流を持ってはいけないのですか?」
そうよ、この状態は軟禁しているということではないのかしら? 私がまた逃げ出さないように、外部との接触を絶っているのではなくて?
「交流など必要ない。俺がすべて対応する。不満か?」
ハデス様はすこぶる機嫌が悪くなって、眉間にシワを寄せている。
ハデス様以外に誰にも会わないよう部屋に閉じ込められているなんて、環境だけは素晴らしい牢獄じゃない。やっぱりここから逃げ出さないと、私に自由はないようだわ。
「いいえ、不満はございません。わかりました。大人しくしておりますわ」
と言いつつ、私は必ずここから逃げ出すと心に誓う。私がほしいのは自由なのだ。
「そうしてくれると安心だ。そうだ、ギルティアが好きなメロンタルトを用意したんだ。食べるだろう?」
「メロンタルトですの⁉ ええ! もちろんいただきますわ!」
そうね、逃げ出すのはこのメロンタルトをしっかりと堪能してからでも遅くないわ。私の大好物を用意してくれるなんて、なかなかやり手のようね。
「変わってなくてよかった」
「え? 今なにかおっしゃいまして?」
「いや、ほら一緒に食べよう」
メロンタルトのあまりの美味しさに、この日はうっかり幸せな気持ちで過ごしてしまい、逃亡計画は立てられなかった。
翌日は綺麗にラッピングされた包みを渡された。
「これはなんですの?」
「開けてみたらわかる」
そっとリボンを解いて包みを開けると、フワリと優しく甘い香りが鼻をくすぐった。
「これは……名店フラワーガデスの石鹸ですわね? しかもいつも使っている私が好きな香りですわ!」
「前に頼んでいたものがやっと届いたんだ。こんな場所だから時間がかかってしまった。すまない」
「まあ、わざわざ取り寄せてくださいましたの? ハデス様、ありがとうございます!」
せっかくだから今日はこの石鹸を使って、ゆっくりバスタイムを楽しみましょう。逃亡計画は明日考えますわ。
さらに翌日は、美しく洗練された黒いドレスをプレゼントされた。
「このデザインは帝国のものだが……どうだ?」
「まあ! 帝国のデザインはずっと憧れていましたの! そうです、この肘から先にフレア状のレースが飾られているのが、かわいらしくてたまりません! 胸もとの金糸の薔薇の刺繍も本当に美しいですわ! ハデス様、とっても素敵です!」
「明日は……その、俺が贈ったドレスを着てもらえないか?」
「ええ! もちろんですわ! ああ、明日が楽しみです!」
明日はこの素敵なドレスを着ると約束してしまったから、逃亡計画を立てるのはまた今度にしましょう。
翌日は朝から張り切ってドレスに着替えた。こんな風に誰かに見せるために着飾るのなんて、中央教会ではなかったことだから心が弾んでいる。いつもは下ろしているだけの髪もハーフアップにした。
「ハデス様、早速いただいたドレスを着てみたのですが……いかがでしょう?」
「ああ、よく似合っている」
そう言って、ハデス様がとろけるような笑みを浮かべる。いつもはわりと硬めの表情が柔らかく崩れて、破壊力が半端ない。
ちょっとこの笑顔は反則ではないかしら……⁉ うっかり勘違いしそうになってしまうじゃない! ダ、ダメだわ、いい加減流されすぎよね。毎日毎日私の心をグッと掴む贈り物をもらっても、自由がないのは変わりないわ!
私が一番ほしいのは自由なのよ‼
ブランド殿下からはプレゼントなんて贈られたことがなかったから、浮かれすぎてしまったのね。いつの間にかこの屋敷に来てから二週間も経っているわ。気を引きしめて今夜にでも逃亡計画を立てるのよ!
「ククッ……いや、もう少し……ブフッ、待ってくれ……クククッ」
目の前の男は先ほどの私の無様な様子に、いまだ腹を抱えて笑っている。
かれこれ十分以上は笑っているのではないかしら? 本当に失礼な男だわ。私なんて、まだ心臓が口から飛び出そうなほどバクバクしているのに!
「それで、私はこれからどうなるの? どこの牢屋に入れられるの?」
「ははっ……は? 牢屋?」
「貴方はユークリッド帝国軍の人間でしょう? ここはユークリッド帝国が管理しているのだから、私は不法侵入者として処罰を受けるのではなくて?」
実際にこの森に入ったと思われる者は、誰ひとり帰ってきていない。まともな扱いをされるかどうかもわからない。
だけど最後は本当の私らしく、後悔の念を持つことなく天に還りたい。
「もう覚悟は決めたわ。せめて楽に処刑してちょうだい」
「いや待て、誰がそんな物騒な話をした?」
心底わからないという表情だ。
私の覚悟はできているのだから、隠さなくてもいいのに。
「誰がって……ここは冥府の森よね?」
「そうだ」
「ユークリッド帝国軍が管理しているのよね?」
「ああ」
「それなら私は許可なくこの森で生活していたのだから、不法侵入者よね?」
「いや、そこが違う」
「え?」
なんですって? なにがどう違うのよ?
青年はようやく笑いがおさまったらしく、いたって真剣に話をしてくれる。その様子に嘘はないようだ。
「ユークリッド帝国が管理はしているが、所有はしていないから不法侵入にはならない」
「……そうなの? それなら私は侵入者として牢屋に入れられるのではないの?」
「魔石を窃取しに来たなら話は別だが、罪を犯していないのに牢屋に入れるわけがないだろう。少なくとも帝国軍が管理している限り、そんな横暴なことはしない」
呆れたように小さなため息をつき、青年は説明をしてくれた。
「なんてことなの! 私はまだ自由なのね‼」
私は嬉しくて、満面の笑みを浮かべる。
青年はなぜかカキンッと固まった後、咳払いして姿勢を正す。そして真正面から私を見すえて続けた。
「自由なのは構わないが、最低限の条件はつけさせてもらう」
「最低限の条件?」
青年はぐっと眉間にシワを寄せて、一切の妥協を許さないというような決意に満ちた表情で条件を挙げていく。
「まず、テントは禁止だ」
「あら。それなら寝袋はいいのかしら?」
青年の眉間のシワが一本増えた。
「もっとダメだ! 次に狩りも禁止だ」
「それなら釣りしかないわね。道具の用意は頼めるかしら?」
青年は眉間のシワをさらに増やして、激しく禁止事項を口にする。
「道具は用意しない! 野草だけで食事を済ますのもダメだ! 結界も張らずにのんびり外でお茶を楽しむのもダメだ!」
「待って、それでは私がここで生きていけないわ! 食べるものは森の中で手に入れないと無理よ!」
あまりの厳しい条件に思わず大きな声を上げてしまう。森で手に入れられないのなら街まで買いに行かなければならないのだが、最寄りの村まで歩いて片道二日はかかる。
念のために持ってきていた転移魔道具は帝国軍の騎士たちから逃れる時も使っていたので、次は魔石を交換しないと利用できない。魔石を交換するにも街にある魔道具専門店まで行く必要がある。馬車なんてこの辺は通らないし、そこまで歩いていけということなのか。
……それにしても、ここに来てからの暮らしぶりが筒抜けだ。どうやら私の存在はバレていたらしい。必死に逃げ回っていたのに、なんともいえない気持ちになる。
「無理ではない。この屋敷にいればいい」
「……なにを、おっしゃっているのか、よくわからないわ」
この方はなにを血迷ったことを口走っているのかしら? 私はそんなことを望んでいるわけではないわ。ただ自由がほしいだけよ。
「このお屋敷はユークリッド帝国のものではないの?」
「正確には帝国から派遣された管理者と騎士たちが使える屋敷だ」
「それなら尚更ですわ。私はカメロン王国の元浄化の認定聖女で、追放されてこの森に捨てられた者です。ここでお世話になるわけにはいかないわ」
これでわかってくれたかしら? あまり話したくなかったけれど、納得してもらうためには仕方ないわ。
「……追放の話は知っている。いったいなぜそんなことになったんだ?」
「そうですわね。簡単に申し上げると、新たな想い人ができた元婚約者が、私から認定聖女の地位を剥奪し冤罪を着せてこの森に追放したのです」
自分で説明しておいてなんだけど、相当悲惨な話に聞こえる。ひどすぎて笑えてくるほどだ。
「なるほど……それは後で詳しく聞かせてくれるか?」
え、どうしてこの方が機嫌を悪くするの? なにか気分を害するような内容だったかしら?
「ええ、それは構わないけれど……私はむしろ自由になれて喜んでおりますの。だからできれば好きにさせてほしいのです」
すると彼はふわりと溶けるように優しい顔になって、琥珀色の瞳で私を見つめてくる。この方の反応がいまいち理解できない。
「本当に君は……ならば、管理者としての命令だ。ギルティア・エル・マクスター。君が冥府の森にいる間は、この屋敷に逗留せよ」
「いえ、ですから私は自由が……私は、名乗っておりませんわ……そういえば森でも名を呼ばれたような……しかも管理者? 貴方は管理者ですの⁉」
「ああ、俺が冥府の森の管理者レクシアス・ハデスだ」
なんてこと! この方が管理者だったなんて、聞いてなくてよ――⁉
* * *
冥府の森の管理者レクシアス・ハデス。俺がそう呼ばれるようになってから、もう三年が経った。
まさかこんな場所でギルティアと会えるなんて想像もしていなかった。
俺の目の前でころころと表情を変える彼女から目が離せない。そんなギルティアを堪能しながら、俺は初めて彼女と会った時のことを思い出していた。
俺がギルティアに出会ったのは十一歳の時だ。
俺は父の仕事に同行してカメロン王国を訪れていた。後学のためにと、毎回必ず兄弟の誰かが連れていかれていた。その時はたまたま俺だったんだ。
父たちが仕事の話をしている間は、俺の遊び相手として仕事相手の娘があてがわれた。それがギルティアだった。
銀糸のような細い髪は光に透けてキラキラしていて、神秘的な紫の瞳は宝石のアメジストみたいだった。まあ、それだけならここまで俺の心に残らなかったと思う。
ある時ふたりで庭園を散歩中に、鳥の雛が巣から落ちて怪我をしているのを見つけた。ギルティアはその雛を介抱すると言い出して、俺も暇だったから世話を手伝った。でもその甲斐なく、雛はわずか三日で儚くなってしまった。
ギルティアが泣くと思った。彼女はまだ八歳の子供だし、泣かれたら面倒だなって思っていた。
だけどその八歳の少女は凛とした佇まいで、聖女の特別な魔法を使った。
『黒薔薇の鎮魂歌』
ギルティアがそう言うと、雛の魂は七色の光を放って彼女の前に現れた。黒薔薇の花びらがあたりに舞い散っていて、とても美しかった。心を奪われたのはその時だ。
俺の目にはギルティアしか映らなくなった。
『最後の言葉はある?』
とても不思議な光景だった。俺には魂の言葉は聞き取れなかったけど、七色の光が天に還った後に彼女がこう言ったんだ。
『あの雛が、寂しい時に撫でてくれて嬉しかったと言っていました』
それを聞いて俺は不覚にも泣いてしまった。
夜は俺が雛の世話をしていたんだけど、寂しかったのは俺だったから。
後学のためと言って連れてこられても、いつも放置されていた。自国でも俺は妾の子供だったから待遇はよくなかったし、友達だってひとりもいなかった。母は長い間病に臥せっていて甘えることもできなかった。
そっと触れた雛の温もりは心地よくて、俺の寂しさを埋めてくれた。
そんなみっともなく泣いている俺を、ギルティアは優しく抱きしめた。
俺より小さい女の子なのに、まるで包み込まれたようだった。
俺は完全にギルティアに堕ちた。
それから俺は勉強や剣術、魔法の習得に励んだ。ギルティアに求婚して受け入れてもらえるように、あんな情けない姿は二度と晒さないようにするためだ。そうして五年後に、また俺がカメロン王国に行ける機会が回ってきた。
前に会った時はメロンタルトが好物だと言っていたから、カメロン王国の王都で一番人気のある店も調べておいた。市井を視察するといえば、外出の許可は出るだろう。
やっと再会できると期待していたのに、話し相手として来たのはギルティアの兄だった。さりげなくギルティアのことを聞いたら、浄化の認定聖女に選ばれて第三王子の婚約者になったという。
ショックなんてものじゃなかった。その後なにをどうしていたのか、うろ覚えだ。
あげく、この五年の努力の結果なのか、俺を厄介払いしたくてわざと危険な任務をやらせたいのか、魔物があふれる冥府の森の管理者に任命された。まあ、その時の俺にはどうでもよかったから黙って引き受けた。
俺は冥府の森に引きこもって、砂を噛むような日々を過ごした。
森全体に結界を張り、とりあえず森から魔物たちが出られないようにして、増えすぎた時は間引きした。冥府の森の影響で結界の外でも魔物は大量発生していたけど、他国の領土だし、それくらいは自分たちで処理するべきだろう。
ああ、カメロン王国の方角だけはギルティアがいるから、結界の外も手が回る時は魔物を処理しておいた。磁場の影響なのか、そちらの方向はやたら魔物が多く発生していたからできるだけ気を配っていたんだ。ギルティアがあの国にいない以上、もう必要ないが。
魔物の異質な存在はよく目立つから、結界の中にいる個体ならすべて把握できていた。戦う時以外は、執務室でただ目の前の作業をこなすだけの時間を過ごした。
そんなある日、騎士たちから森に若い女性が迷い込んでいるという報告が上がった。たまに誤って迷い込んだり、なにかの罰でこの森に追放されたりする人間がいるので、今回もそうだと思っていた。いつものように見つけたら帝国へ連れていくか、希望の国へ送り届けるように指示を出して終わるはずだった。
ところがある日、俺の右腕である冥府の騎士団の副団長、エイデンから追加で報告を受けた。
「レクシアス様、先日報告した女性の件ですが、どうやら森で自活しているようです」
「は? 女がひとりでこの森で生活なんて……できるのか?」
冥府の森で自活なんて、聞いたこともない内容に耳を疑った。
「していますね。テントを持ち込んでいるようで、野営の跡もありました。騎士たちが声をかける前に姿を消すので、まだ本人から話を聞けていませんが」
騎士たちの報告をまとめると、テントで寝起きして、結界も張らずに優雅にお茶を楽しみ、魔物を狩ったり野草を摘んだりして過ごしているようだ。にわかには信じがたいが、複数の報告が上がっているから間違いないだろう。
場合によっては強制的に帝国に送り届けることも視野に入れて、あらためて指示を出した。報告書には銀髪の若い女性とある。俺の心から決して消えない愛しい彼女が頭をよぎる。
だけどそんな都合のいい話があるわけがない。
そもそもこんなところに認定聖女であるギルティアがいるわけがないと、くだらない考えを捨てた。
それから数日後、強い魔物の気配を感じ取った。
雰囲気からして大型のグレートマミーだ。タイミングの悪いことに帝国で大きな祭りが開かれていて、家族がいる騎士たちは休暇を取っていた。ほかの騎士たちも巡回や魔物の討伐で手がふさがっていたので、面倒だなと思いながらも俺は単身、討伐に向かった。
――そこで目にしたのはあの日カメロン王国で見た黒薔薇の花びらと、さらに美しく成長したギルティアの姿だった。
あまりに望みすぎて白昼夢でも見ているのかと思った。
ギルティアを見間違うことはないと自信があったが、ここは冥府の森だ。なにが起きてもおかしくない。
慎重になりつつも、心の中は歓喜にあふれていた。そこで騎士たちから上がっていた報告を思い出す。
まさか、冥府の森で自活していた女性が本当にギルティアだったのか?
「あの……?」
少し高めの透き通るような声が、俺の鼓膜を震わせる。子供の頃とは違うけど、ずっと聴いていたいほど心地いい。
俺が余韻に浸っていると、ギルティアは急に顔を引きつらせてウエストポーチを漁り始めた。
「おい! 待っ――」
そして、あっという間に姿を消してしまった。
あまりにも突然で、あまりにも一瞬で。
夢か現実か自信がなかったけれど、グレートマミーの魂は確かに天上に還っているし、黒い薔薇の花びらも残っていた。
ギルティアがいる。
俺の手の届く場所にいる。
それが夢ではないと確信したくて、魔道具の痕跡を頼りにギルティアの後を追った。幸いにも魔道具での転移は魔石の魔力を変換するため、わずかにタイムラグが生じる。
俺は転移魔法で先回りして、疲れた様子のギルティアに眠りを誘う香を使った。多少は卑怯なやり方だったかもしれないが仕方ない。愛しい人の健康には代え難いのだ。
「やっと……捕まえた」
もう決して離さないと誓いながら、俺は腕の中で眠るギルティアを屋敷に連れ帰った。
屋敷に戻るや否や部下に指示を出して、カメロン王国でなにがあったのか調べた。
結果、カメロン王国の第三王子は万死に値するという結論に至った。
俺がどんなに望んでも手に入れられなかったギルティアを、やすやすと手に入れておいて婚約破棄だと? しかも大勢が集まる夜会でだと? ああ、そうだ。脳みそが足りてない相手の女も万死に値するな。
改めて確認してみると、カメロン王国の国王から、ギルティア捜索のために冥府の森に入りたいと申請が届いていた。もちろん即却下しておいた。自分から手放しておいて捜索する意味がわからない。
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なにより俺がもう手放したくない。ギルティアを俺のものにすると決めたんだ。
だけどなぜ彼女は俺から逃げ出したんだ?
やはり子供の頃にたった一度会ったくらいでは覚えてないか……いや、いいんだ。俺がギルティアのことを覚えていれば問題ない。
彼女を屋敷の一番いい部屋に運び、最高の寝具でゆっくりと眠らせる。そろそろ目覚める頃かとソワソワしていたら、突然、真上にある彼女の部屋からガタンッというものすごい音が聞こえてきた。慌てて窓から見上げたら、彼女がシーツに掴まってぶら下がっていた。
驚いたのと、笑いたいのと、目のやり場に困るのと、いろんな感情がごちゃ混ぜになったけれど、とりあえず逃走は阻止できたようでホッとした。
ギルティアが俺を見つけた時の絶望的な顔が、たまらなく愛しいと思った。
そうだ、そうやってあきらめて、俺に堕ちてきて。
またあのアメジストみたいな瞳で俺を見つめて。
美しいその声で俺の名前を呼んで。
ギルティア・エル・マクスター。君をもう逃すつもりはないのだから。
* * *
「で、ギルティアはなんと言ったんだ?」
「……黒いドレスを着ているのは死者の魂を弔うためですわ。ニコリともしないのは申し訳ないことでしたが、殿下のお話には笑顔になる要素がございませんでしたので、と」
私は今、尋問を受けている。しかも帝国軍の管理者直々にだ。
なぜだかわからないけど、婚約破棄の時の話を根掘り葉掘り聞かれていた。
「そうか、さすがギルティアだ。ククッ、容赦ないな」
「こんなことを聞いてどうされるのですか?」
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いけないわ、見目のいい男に騙されないようにしなくては。ブランド殿下の件で、学習したはずよ。しかもブランド殿下より素敵なんですもの、用心しすぎても足りないくらいだわ。
「ギルティアはどうしたいんだ?」
「質問しているのは私ですわ。それから私のやりたいことは決まっています」
「なんだ? 言ってみろ」
「とにかく自由になりたいのです。誰からも強制されず、ただ、自分の心のままに生きていきたいのです」
彼はその言葉に腕を組む。さっきまでの楽しそうな気配はなりをひそめて、なにかを真剣に考えているようだ。
もし本当に侵入者として処罰しないのなら、ある程度自由にさせてくれてもいいと思うのだけれど。
「そうだな、善処しよう」
ハデス様の言質を取ってから一週間が過ぎた。
『善処しよう』
そう言ったわよね? ハデス様はそう言ったわよね⁉ それなのに、いまだに部屋から出してもらえないのだけど、どういうことかしら⁉
「しかもここに来てからハデス様にしか会ってないし……待って、やっぱり私を牢屋に入れるつもりかもしれないわ」
この屋敷に来てから、ハデス様以外の人間に会っていない。彼が食事を運んできてくれて、部屋の掃除も魔道具ひとつで済ませてくれる。
身の回りのことは訓練の一環でできるようになっていたので、私は問題なかったけれど、もしひとりでは着替えもできない深窓の令嬢だったら大変なことになっていた。
「人の気配は感じるけど……私と会わせたくないのかしら?」
「なんだ? 会いたいヤツでもいるのか?」
ヒュッと喉が絞まるような圧迫感を感じて振り返ると、ハデス様が突き刺さりそうな冷気をまとい扉にもたれて立っていた。いつもはちゃんとノックしてくれるのに、今回はいきなり扉を開けたようだ。
文句のひとつも言いたいが、全面的に世話をされている立場だ。出かけていた言葉を呑み込み、代わりに嫌味をこめて問いかけに答えた。
「違いますわ。ここに来てからハデス様以外、どなたともお会いしないので不自然に感じたのです」
私を人前に出せない理由でもあるのかと、暗に尋ねる。
だってハデス様がしているのは、本来なら侍女やメイドがやる仕事だもの。
「そうか……この部屋には近づくなと命じてあるからな。心配しなくていい」
えーと、そんな命令が出されていたの? いったいなぜ……? 三食昼寝つきで、十分すぎるほど贅沢な毎日を過ごさせてもらっているけれど、納得できないわ。
「ハデス様、私は他の方と交流を持ってはいけないのですか?」
そうよ、この状態は軟禁しているということではないのかしら? 私がまた逃げ出さないように、外部との接触を絶っているのではなくて?
「交流など必要ない。俺がすべて対応する。不満か?」
ハデス様はすこぶる機嫌が悪くなって、眉間にシワを寄せている。
ハデス様以外に誰にも会わないよう部屋に閉じ込められているなんて、環境だけは素晴らしい牢獄じゃない。やっぱりここから逃げ出さないと、私に自由はないようだわ。
「いいえ、不満はございません。わかりました。大人しくしておりますわ」
と言いつつ、私は必ずここから逃げ出すと心に誓う。私がほしいのは自由なのだ。
「そうしてくれると安心だ。そうだ、ギルティアが好きなメロンタルトを用意したんだ。食べるだろう?」
「メロンタルトですの⁉ ええ! もちろんいただきますわ!」
そうね、逃げ出すのはこのメロンタルトをしっかりと堪能してからでも遅くないわ。私の大好物を用意してくれるなんて、なかなかやり手のようね。
「変わってなくてよかった」
「え? 今なにかおっしゃいまして?」
「いや、ほら一緒に食べよう」
メロンタルトのあまりの美味しさに、この日はうっかり幸せな気持ちで過ごしてしまい、逃亡計画は立てられなかった。
翌日は綺麗にラッピングされた包みを渡された。
「これはなんですの?」
「開けてみたらわかる」
そっとリボンを解いて包みを開けると、フワリと優しく甘い香りが鼻をくすぐった。
「これは……名店フラワーガデスの石鹸ですわね? しかもいつも使っている私が好きな香りですわ!」
「前に頼んでいたものがやっと届いたんだ。こんな場所だから時間がかかってしまった。すまない」
「まあ、わざわざ取り寄せてくださいましたの? ハデス様、ありがとうございます!」
せっかくだから今日はこの石鹸を使って、ゆっくりバスタイムを楽しみましょう。逃亡計画は明日考えますわ。
さらに翌日は、美しく洗練された黒いドレスをプレゼントされた。
「このデザインは帝国のものだが……どうだ?」
「まあ! 帝国のデザインはずっと憧れていましたの! そうです、この肘から先にフレア状のレースが飾られているのが、かわいらしくてたまりません! 胸もとの金糸の薔薇の刺繍も本当に美しいですわ! ハデス様、とっても素敵です!」
「明日は……その、俺が贈ったドレスを着てもらえないか?」
「ええ! もちろんですわ! ああ、明日が楽しみです!」
明日はこの素敵なドレスを着ると約束してしまったから、逃亡計画を立てるのはまた今度にしましょう。
翌日は朝から張り切ってドレスに着替えた。こんな風に誰かに見せるために着飾るのなんて、中央教会ではなかったことだから心が弾んでいる。いつもは下ろしているだけの髪もハーフアップにした。
「ハデス様、早速いただいたドレスを着てみたのですが……いかがでしょう?」
「ああ、よく似合っている」
そう言って、ハデス様がとろけるような笑みを浮かべる。いつもはわりと硬めの表情が柔らかく崩れて、破壊力が半端ない。
ちょっとこの笑顔は反則ではないかしら……⁉ うっかり勘違いしそうになってしまうじゃない! ダ、ダメだわ、いい加減流されすぎよね。毎日毎日私の心をグッと掴む贈り物をもらっても、自由がないのは変わりないわ!
私が一番ほしいのは自由なのよ‼
ブランド殿下からはプレゼントなんて贈られたことがなかったから、浮かれすぎてしまったのね。いつの間にかこの屋敷に来てから二週間も経っているわ。気を引きしめて今夜にでも逃亡計画を立てるのよ!
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