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握り潰した揚羽蝶
しおりを挟む昨日の昼、窓枠に嵌められた鉄格子の隙間から腕を伸ばして、外を飛んでいたアゲハ蝶を捕まえた。ただ、ちょっとうっかりしていて、あまりに遠慮なく掴んだものだから、握りしめた蝶の羽はバラバラに砕けてしまった。
死んでしまったのだろうか。待っていたら、いつか、また飛び始めるだろうか。少しの期待を込めてしばらく見つめていたら、少し目を離した隙に飛び立って居なくなってしまうような気がして、一時も目を離せなくなってしまった。
そうして鉄格子の外へ手を伸ばした体勢のまま、すっかり日は暮れ、今はもう夜。蝶はまだ動かないし、私はお腹が減ってきた。腕はとうにつかれたが、いつ頃からか痛みも痺れも気にならなくなった。
やはり、アゲハ蝶は死んでしまったのだろうか。私はただ、鉄格子のこちら側はあまりにも変わり映えしないから、鮮やかなアゲハ蝶でも招き入れて、心を慰めたかっただけなのに。
自分のことを虫籠の中の蝶のようだと感じることがある。部屋にひとつだけの窓には、ぎりぎり腕が一本出せる程度の鉄格子が嵌っていて、外に出ることは叶わない。いや、ここに来て随分と痩せたから腕が細くなり通るようになっただけで、私をここに飼っているあの人は腕も出せやしないと思っているかもしれない。
窓の外を人が通りかかったことはない。やって来る生き物は虫や鳥なんかだけで、話し相手にすらなりやしない。捕まえて部屋で飼おうかと思っても、ご覧の通り握りつぶして殺してしまう始末だ。私に助けを求められる相手なんかいない。
私もいつか、このアゲハ蝶のように、あの人の手に捕まって殺されてしまうのかもしれない。私をこんな所に閉じ込めたくせに、一度たりとも会いに来やしない薄情な人。私が都会にいた頃には、暇さえあれば私の後ろを追いかけて、愛だ恋だ惚れただのと五月蝿かったくせに。捕まえて閉じ込めたら、もう飽きてしまったのだろうか。ひどい人。いっそのことその手で私を殺してくれたら、よろしいのにね。
もう半年ほど前になるだろうか、私は愛してやまない美しいあの人を捕まえた。
愛しくて、愛しくて、あんまりつれないから、尚更恋しくなって。迷惑ですという態度でそれでも決して無視することなく私を追い払う彼女は、世界中の誰よりも美しくて、つい、出来心で山奥の別荘に連れ去ってしまった。そう、たぶん、出来心だった。別荘の改築を行ったことも、彼女の帰宅路のデータを集めたことも、彼女が急に行方知れずになっても騒がれないように根回しをしていたことも、あの晩、誰にも見られることなく彼女を攫ったことも、すべて、出来心だったのだ。
ずっと、ずっと彼女を私のものにしたかった。けれど、準備は周到にしていても、それを実行する気は無かったんだ。彼女を追いかけることが好きだった。私の軽口を一欠片も本気にせず、迷惑そうに追い払おうとする彼女を見るのが好きだった。そして、迷惑そうにするくせに、決して無視はせず、誠実に僕の気持ちを右から左へ聞き流す彼女の心が好きだった。だから、あの晩、彼女が持ち歩いていた退職願と遺書を見比べて、苦しそうな顔して退職願の方を破り捨てようとしたから、つい出来心で連れ去ってしまったんだ。
死にたいなら死ねばいい。あなたにとって生き辛いこんな社会なら、あなたの願い通り殺して逃してあげる。でも、どうか、あなたのことを諦めきれない私のわがままも、許してほしい。
あれから半年の時間をかけて、誰にも不審に思われないように綿密に、彼女は亡くなった。夜の山に迷い込み、遭難、そして死体で見つかった。事故として処理された。葬儀もあげて、彼女は法的にも周囲の人間の記憶の中でも死亡して、いまは墓の中に眠っている、ことになっている。
彼女は、自分が死んだということを知らない。彼女は私の出来心で囚われて、自分の知らないうちに殺されてしまったのだ。半年も閉じ込められて、自分を攫った犯人を恨んでいるだろうか。その犯人が「昨晩は用意された食事を食べなかったようだ」という報告を受けて、彼女の体調が心配で一日中食事が喉を通らず水しか摂取していないなんて、考えつきもしないのだろう。
彼女は、元気でいてくれているだろうか。毎日別荘からの報告には目を通しているが、やはりそれだけでは分からないことも多い。
会いたい。会って、それから、何をしようとも望まないから、姿を見ていたい。ちゃんとあなたが生きていることを確認したい。
半年もあなたに会えなくて、そろそろどうにかなりそうだ。
ただ、会えばどのような顔をされるか想像もつかなくて、勇気が出ない。
ただ、会いに行けば「ああ、やっぱりあなただったのね」と、あの迷惑そうな顔でため息混じりに言ってくれそうだと期待している気持ちも、ずっと、捨てられずにいるのだ。
外を自由に飛んでいた綺麗なアゲハ蝶を、この手で掴んで殺してしまった。私は、恨まれているだろうか。それでも、許してもらえるだろうか。
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