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第二章 炎の山

24. 生への執着

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 『炎の山』の頂上。人族と魔族が壮絶な戦いを繰り広げた人魔戦争から五十年間、誰一人として立ち入ることがなかったこの場所で、夕焼けに染まっていく空をたった一人でぼーっと見つめている少女がいた。今までに何度この景色を見てきただろうか。もはや見飽きているはずなのに、なぜだか今日はいつもと違って見える。

「奇麗なのじゃ……」

 自然と口から出た言葉に、タマモは戸惑いを覚えた。これまでは何の感慨も湧かなかったというのに、今は眼前に広がる真紅の空から目を離す事が出来なくなっている。

「それにしても不愛想な男じゃったのう」

 美しい景色を見ながら、タマモは昨日出会った人間を思い出していた。夜になると広がる闇を思わせる黒いコートに三白眼で人相の悪い顔。どうにもとっつきにくい雰囲気を醸し出してはいたが、なぜだかタマモは温かさを感じていた。

「……もう来てはくれんのじゃろうな」

 ここから去る時、あの男は怒っていた気がする。なぜだかわからなかったが、その原因が自分にある事だけは確かだ。眉を落としたタマモは自分の膝に顔をうずめる。

 ぐぅ~。

 そんなタマモのお腹から気の抜けるような音が鳴った。

「お腹すいたのう……」

 何年振りに空腹を感じたのだろうか。あの牢の中にいる間は何も感じる事ができなかった。その事実を少しだけ喜んだタマモであったが、当然の事ながらここには食べ物などない。どんどん強くなる飢餓感をごまかそうと顔を上げたタマモの目に何かが留まった。それはここを去る前に颯空が置いていったものだった。

「サクは何を置いていったのじゃ?」

 少しでも空腹が忘れられれば、と立ち上がったタマモが、フラフラな足取りで岩の上に置いてある物に近づき手に取る。それは保存に適した干し肉とパン、さらに水の入った革袋であった。思わずごくりと唾を飲み込む。きょろきょろと周囲を見回してから、タマモは恐る恐るパンを一口かじってみた。

「っ!? お、おいしいのじゃ……!!」

 颯空が置いていったパンはどこにでも売ってるような平凡なものだ。だが、タマモにはどんな高級料理よりもおいしく感じた。別にパンを食べたのが初めてというわけではない。にもかかわらず、口から入ったうま味が瞬く間に全身を駆け巡り、脳を痺れさせた。
 無我夢中で食物を体内へと取り込む。水ですら感動するほどに美味かった。干し肉を必死にかじっていたところで、タマモはある事に気が付く。

「あれ……うちは泣いとるのか?」

 頬にあてた手が濡れていた。どうしてだかわからないが、自分は涙を流している。別に悲しい事など何もないというのに。なぜだか涙が止まらなかった。
 颯空が置いてってくれたものを完食し、涙も止まったところで、タマモは森の方に目を向けた。

「外の世界、か……あの森の奥はどうなっているのかの?」

 颯空がやってきた世界、それがあの森の奥に広がっている。そう思うと無性に行ってみたくなった。タマモはゆっくりと立ち上がり、今までずっと自分がいた場所の方へ振り返った。自分を囲っていた石の牢獄は、颯空によって瓦礫の山となっている。だが、自分がいた空間は跡になって残っていた。それを見て、思わず苦笑いを浮かべる。

「我ながら随分と狭苦しいとこにおったのじゃな」

 広さにして三メートルほど。あの中にいた時は狭いなど感じなかった。むしろ、自分しかいないあの場所を広すぎると感じたくらいだ。膝を折り、ただひたすら座っているだけだった自分には無理もない話かもしれない。
 タマモの中で不思議な感情が湧き上がってくる。何も考えずに、ただただ時間が過ぎるのを眺めていたあの頃には感じなかった気持ち。未知なるものへの高揚感。自分がこの山に住んでいたのはずっと昔の事だ。今はまるっきり様変わりしているはず。見たい、聞きたい、嗅ぎたい、感じたい。あらゆる欲求がタマモの中で生まれていく。その溢れんばかりの興奮を、タマモは無理やり抑え込んだ。

「……何を考えているのじゃ。うちは死にたかったはずじゃ」

 颯空に願ったあの言葉は、紛れもなく本心だった。自らの愚かな過ちにより、全てを失った。そんな自分には生きていく資格はない。血が滲むほどにグッと唇を噛みしめる。

「……死ぬ前に故郷を一目見ても、罰は当たらんかのう?」

 罪悪感を感じつつも、そう望まずにはいられなかった。その面影がなかったとしても、自分の母親が命を落としたあの場所へもう一度行って、ちゃんと謝罪がしたい。
 意を決してタマモは森の中へと入っていく。葉を踏み鳴らす感触、木々の匂い、視界を遮る植物。忘れていた感覚が矢継ぎ早に襲ってきた。自分でも驚くほどに森の中を軽快に進んでいく。

「森の景色が全然違っても、体は覚えているもんじゃのう」

 もはや初見の場所なのではないかと思えるほどに見覚えがなくても、勝手に足が動いていった。もう少し……もう少し行けば、自分の住んでいた集落にでる。忌み子と嫌われ、爪はじきにされても、母と二人で仲良く暮らしていたあの村に。
 自然と森の中を行く速度が上がった。息が切れようとも構わず突き進んでいく。すっかり日は沈み、視界はほとんどない。だが、そんな事は関係なかった。木の根っこに足を取られ何度も転び、泥だらけになっても全く意に介さない。もうタマモには前しか見えなかった。

 そして、ようやく目的地にたどり着く。必死に枝をかき分けやって来たタマモの前に広がっていたのは、村の名残すらないただの荒れ地だった。
 膝に手をつき、乱れた呼吸を整える。少し落ち着いたところで、タマモは辺りを見渡した。

「そっか……全て燃えてしまったんじゃった」

 僅かでもあの日の風景が残っている事を心の中で期待していたタマモが落胆に耳を折る。とはいえ、ここが自分の村であることは間違いない。気を取り直して村だった場所をゆっくりと歩き始める。

「……ここには村長の家があったのう。ここは井戸じゃったか? うちからは少し遠くて水を汲みに行くのが大変だったのじゃ。……そして、ここは」

 荒れ地の中心でタマモの足が止まった。そして、膝をつき、祈るようにその場で蹲る。

「……母上、今戻ったのじゃ」

 絞り出した声は微かに震えていた。

「ここに来るまで随分と時間がかかってしまったのじゃ。じゃが、ようやく来ることができた……だからこそ、言わせ欲しいのじゃ。……母上、言いつけを守らず本当にごめんなさい」

 地面に額をあて、謝罪の言葉を述べる。あの場所に閉じ込められてから幾度となく頭の中で繰り返した言葉を、ようやく母親が眠るであろうこの場所で言う事が出来た。それをする機会を与えてくれた颯空に、感謝の気持ちでいっぱいになる。

 ……がさりっ。

 その時、自分が来た森の方から物音がした。不審に思ったタマモは立ち上がり、音のした方へと顔を向ける。
 そこにいたのは暗褐色の魔物だった。自分とは比較にならないほどに筋骨隆々で巨大な体躯を持つその魔物は、ぐるると低い唸り声をあげながら、こちらへとゆっくり近づいてくる。その白い目で睨みつけられたタマモは、まるで蛇に睨まれた蛙のように指一本動かせなくなった。

「あ……あ……」

 懐かしい感情がタマモの体を支配していく。それが『恐怖』である事に気が付くのに数秒を要した。
 逃げなければ。そう思い体を反転させ駆け出そうとしたタマモだったが、ピタリとその動きが止まる。そして、震える体でもう一度魔物の方へ向き直ると、大きく両手を開いた。

「お、お主がうちを、こ、こここ、殺してくれるのかの?」

 がちがちと奥歯が震え、上手くしゃべることができない。

「は、ははは、母上に、あ、あああ、謝る事が、で、で、できたのじゃ! も、もう思い残す事は何もない!」

 寒さなど微塵も感じないというのに体の震えが止まらなかった。それでも、タマモはのそりのそりと近づいてくる魔物をまっすぐに見据えている。

「さ、さぁ魔物よ! うちを母上の下に送ってくれ! え、遠慮することなどない! ひ、一思いに食らうのじゃ!!」

 虚勢をごまかすようにタマモが大声を上げた。もはや体の震えは自分では制御できない域に達している。だが、死は自分自身が熱望したことだ。それを与えてくれる存在に感謝はすれど恐怖する必要などないはず。こんなにも怯えている意味がわからない。
 もう目の前まで死は迫ってきてくれていた。後はあの大樹のように太いあの腕が振り下ろされれば、自分は母のところに行くことができる。自分は死を享受しているのだ。これこそが自分の望みなのだ。
 それなのになぜ、庇うように両腕を前に出しているのだろうか。それなのになぜ、あの腕から逃れる様に地面を転がっているのだろうか。

「つぅっ!!」

 避けそこなった魔物の爪が、腕の肉をえぐる。だが、痛みに喘いでいる暇はない。今は生きるためにこの場から逃げ出さなければ。
 ……生きるために?
 血が流れる腕を押さえながら森の中を駆け抜けながら、自分の中の矛盾に気づく。自分は死にたいと願っていたはずだ。なのにどうして……どうしてこんなにも死に物狂いで走っているのか。
 感謝はしている。彼と会わせてくれたのだ。

「死にとうない……」

 脳を介さず言葉が出る。

「死にとうない……!!」

 なぜ、こんな事を口走っているのか。

「死にとうないっ!!」

 どれだけ強がったところで、本心を偽ることはできなかった。

「嫌なのじゃあ!! もっと、もっと生きていたい!! もっとこの目で世界を見てみたい!! うちは……うちは……死にとうないんじゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 絶叫しながら森を疾走する。自分が生きる事など許されないかもしれない。自分が生きる事など誰も望まないかもしれない。それでも生たいと思った。あのパンを食べた時の感動を、もう一度味わいたいと願った。

「あっ……」

 地面に足を取られ、体が宙に浮かぶ。自分が倒れいく様がまるで走馬灯のようにタマモの目には映った。背後から気をなぎ倒す音が聞こえる。先ほどの魔物が追ってきている事は見なくてもわかった。このまま倒れてしまえば、確実に自分は殺される。それが頭では理解できても、もうどうする事も出来なかった。魔物の気配はすぐ後ろまで迫っている。

 誰か……誰か助けて。

「――'絶影ぜつえい'」

 ガキンッ!!

 地面を滑るタマモの耳にぶつかり合う金属音が聞こえた。どういうわけか魔物の攻撃が地面を横たわる自分には届いていない。慌てて体を起こしながら振り返ったタマモは、大きく目を見開いた。

「たくっ……世話のかかる狐っ子め」

 そこに立っていたのは、ボロボロの姿で自分を守る不愛想な男の姿だった。
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