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第一章 呪われた男

14. 玄田隆人の憂鬱

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「くそ……くそっ!!」

 悪態をつきながら隆人は壁を乱暴に殴りつける。今まで感じたことのないような猛烈な怒りが彼の中で暴れまくっていた。

「あの屑が、あの屑が……ざけんじゃねぇぇぇぇぇ!!」

 怒りに任せて殴った壁に大きなヒビが入る。その頭の中では、先ほど見た忌々しい光景が繰り返し流れ続けていた。



 食堂で夕食をとった後、イライラしていた隆人は部屋に戻る気にはなれず、一人プラプラと散歩をしていた。

「なんで小鳥遊たかなしが屑柴を庇うんだよ……!!」

 イライラの原因はそれだった。いつもの調子で御子柴颯空を虐げたら、なぜか小鳥遊すずの逆鱗を買ってしまったのだ。ちょっといいな、と思っていた女子から怒りを向けられ、しかもそれがストレス発散のサンドバッグみたい奴が原因だから、隆人のフラストレーションは溜まりに溜まっていた。

「けっ! あの屑を呼び出して鬱憤でも…………ん?」

 中庭で誰かが話している声が聞こえる。うちのクラスのやつが逢引きでもしてんのか? と、考えた隆人が興味本位でこっそり覗いてみたところそこには信じられない光景が広がっていた。

「な、んで御子柴と藤ヶ谷が……?」

 頭の中が真っ白になる。あの二人に接点などありえない。そもそも住む世界が違うのだ。一人は美貌も人気も手にしている自分の憧れの女性。もう一方は陰鬱な表情をいつも浮かべている生きている価値のない男。同じ空気を吸う事すら許されないのだ。だというのに、お互い下の名前で呼び合っている。無意識のうちに隆人は自分の拳を強く握りしめた。
 会話が終わり、二人が城の方に戻っていくのを黙って見ていた隆人の中に嫉妬の激情がメラメラと燃え上がる。その抑えきれない激情に身を任せ、隆人はひたすら壁に八つ当たりをするのであった。



 翌日、目を覚ましても心のモヤモヤは一切晴れていなかった。

「玄ちゃん大丈夫?」
「……あぁ」

 久我くが誠一せいいちが隆人の顔を覗き込んでくる。呻くように相槌を打った隆人を勝と健司が心配そうな顔で見てきた。それすらも気に入らない。心配してくれている誠一ではなく、心配させる原因となった颯空が、だ。

「ちょっと疲れが出ただけだから気にすんな」
「そう? もうそろそろ時間だから行こうぜ?」

 気遣うような笑みを浮かべて誠一が歩き出す。少しぶっきらぼうな言い方になってしまった事を後悔しながら、隆人は誠一達の後についていった。

 城門前には殆どのクラスメート達が集まっていた。その中心で点呼を取っていた澪の顔を見ると、隆人の灰色だった世界に色が入る。まさに女神。凛々しさと美しさを兼ね備えたその顔に思わず目を奪われた。
 早まる心臓を抑えつつ、近づいて話しかけようとした隆人の目が颯空の姿を捉えた瞬間、暗い感情が一気に心を蝕んでいく。澪から視線を背けた隆人はふさぎ込むようにその場に座り込む。その心には、もはや明るい気持ちなどひとかけらも存在していなかった。
 ガイアスが調査における注意事項を話しているが隆人の耳には入らない。その視線は一番前で真剣に話を聞いている澪にくぎ付けだった。しばらくするとガイアスが隆人に班を告げにやってくる。そこで初めて班分けがされるという事実に気づいた隆人は、澪と一緒の班になれるかもしれない、と期待に胸が膨らんだ。だがそんな淡い気持ちはチームメンバーを見た瞬間に粉々に打ち砕かれる。そこには澪などおらず、憎しみすら抱いている御子柴颯空の姿があった。



 内心舌打ちをしながら隆人はパンにかじりつく。森の中を進むときは颯空の顔を見なくて済んだため、無心でいられたのだが、昼食はチームでまとまって取るため、嫌が応にも颯空の顔が視界に入ってくる。
 勝と二人で黙々と食事をとっていると、咲が遠慮がちにハーブティーを持って来た。絡んできてほしくない、というのが隆人の本音だったが、断っても面倒くさそうであったので、適当な態度でハーブティーを受け取る。そのまま心に巣食うモヤモヤをなんとか消そうと、自分の世界に没頭しはじめた。
 考えても考えても心が晴れる兆しがない。いくら忘れようとしても、昨夜の澪と颯空が話している映像がちらついた。その度に鉛を飲み込んだような気分になる。
 出口の見えない迷宮に苦しんでいると、ふと咲からもらったハーブティーが鼻をくすぐった。なぜだろう、この匂いを嗅ぐと、心が落ち着いてくる。元々受け取るだけで飲むつもりがなかった隆人だったが、試しに一口飲んでみた。その瞬間、霧を晴らすように思考が明瞭になる。

「そうか……あいつは'敵'なんだ」
「え?」
「いや、なんでもない」

 ぼそりと呟いた言葉に勝が反応を見せるが、隆人は適当に流した。全然難しいことではないじゃないか。自分の邪魔をする障害ならば取り除けばいいだけの話だ。
 宣戦布告とばかりに憎しみを込めた一瞥を'敵'に向けると、残ったハーブティーを一気に飲みほし、そっとほくそ笑んだ。



 夜になっても昼間の自分が嘘のように心がすっきりしていた。

 何を悩んでいたんだか……あんな屑が'敵'なんだ。楽勝だろ?

 そう考えると、とても心が楽になった。アトラスが瘴気の濃度を測定している間、余裕をもって周りの警戒に当たる。さて……どうやって排除しようか? 虐げるのは楽だが、排除となるとそれなりにお膳立てが必要になる。
 誠一あたりに相談してみようか、と考えていると、なにやら穂乃果が颯空とこそこそ話しているのが目に入った。なんと不快な光景だろうか。あの男が異性と話しているという事実だけで腸が煮えくり返ってくる。ようやく気持ちが軽くなったのだ。嫌なものを目にして気分を害したくない。
 そんな風に考え、無理やり颯空から視線を外した隆人だったが、偶然颯空の声が耳に入ってきた。

「大体俺と藤ヶ谷は」

 コロス。

 反射的に、殺意が湧き上がってくる。それは自分でもびっくりするくらい唐突に表れ、霧のようにあっさりと消えていった。

 屑の分際で俺の澪の名前を口にするな。

 激しい怒りが湧き上がるがそれを表情には一切出さない。激情にかられても隆人の頭は冷静だった。測定の終えたアトラスが隆人に次の目的地を指示する。無言で歩き出した隆人の頭は'敵'をどうやって排除するかでいっぱいだった。



 なんだこいつは?

 現れた'グリズリーベア'に体が硬直する。今まで見たこともない化物を前にして恐怖で震えが止まらない。

「全員退避ッ!! バラバラにならないように……!!」
「グオオオオォォォォオオオォォォン!!」

 アトラスが何か叫んでいるようだが耳に入らず、グリズリーベアの咆哮をまともにうけた隆人が盛大に尻餅をつく。体が全く動かなかった。あの化け物から逃げる事しか考えられない。
 そんな隆人を尻目に、魔法を撃とうとした穂乃果にグリズリーベアがロックンオンする。自分が狙われていない事に隆人は内心安堵していた。
 だが、その穂乃果を救った颯空に、恐怖よりも激情が先行する。自分ができなかった事を平然と屑がやってのけた。その事実だけで隆人の感情はコントロール不能に陥った。足元に落ちていた松明を拾うと一心不乱に森を走る。

 くそが……くそがくそがくそが。

 昨夜、中庭で見た澪と'敵'の姿を思い出す。

 邪魔邪魔邪魔邪魔……!!

 '敵'に見せた澪の表情を思い出す。

 屑のくせに屑のくせに……屑のくせにぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!

 穂乃果を助けた'敵'を思い出す。

 殺してやる……絶対に殺してやるぅぅぅウゥゥぅぅぅウウウ!!

 隆人の頭の中からグリズリーベアはもう消えていた。



 穂乃果達を残してきた隆人は血眼になって颯空の姿を探す。考える余地はない。あの男がいる限り、自分に平穏は訪れないのだ。ならば消すしかない。
 もはや、颯空の事しか頭になかった隆人の足がぴたりと止まる。……見つけた。ターゲットを視認。'敵'はグリズリーベアに崖際に追い詰められていた。なんという素晴らしいシチュエーションであろうか。 

 コロセ。

 力が湧き上がる。

 コロセ。

 慎重にポジションを決めた。

 コロセ。

 腰を落とし、 狙いを定める。

 コロセェェェェェェェェェ!!

 心の声に従い、隆人は何の迷いもなく、グリズリーベア目がけて突進した。そのまま、'敵'が崖下へと落ちていく。

「くくくっ……」

 思わず笑いが込み上げてきた。すべてが計画通り。なんという達成感か。ついに自分は障壁を取り除いたのだ。
 満足げな表情でこの場を後にしようとした隆人であったが、こちらに走ってくるアトラスの姿を見て、内心舌打ちをした。

「……グリズリーベアが走った後を追いかけてきたつもりだったんだけど、何があったか説明してくれるかな?」

 探るような視線をアトラスが向ける。どう答えようか悩んだが、事実を伝えることにした。

「俺がここに来た時にはあのクマが御子柴に襲い掛かるところで、そのまま下に落ちていったぞ」

 別に嘘はついていない。下に落ちていった原因は自分にあるが、それを報告する義務はない。
 警戒心を露にしつつ、アトラスが崖の下へと目をやる。そのあまりの高さに、深々とため息を吐いた。

「……とにかく一度戻ろう。僕の魔法に気づいた他の班が来るはずだから」

 力なくそう言うと、アトラスは森の方へ歩いていく。肩を落とすその姿を見て隆人は狂気じみた笑みを浮かべた。
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