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2. ヤンキー君と引きこもりちゃん

16. 謝罪

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 渚美琴は自分のベッドの上で静かに目を覚ました。そして、いつものように手を伸ばし、目覚まし時計を自分の所へ持ってくる。時刻は午前五時。窓から見える空は僅かに白み始めて入るが、まだ星が輝いている早朝だ。普段であれば二度寝を決め込み、もう一時間か一時間半くらいはベッドから起き上がらないのだが、今日はそういうわけにはいかない。無理やりにベッドから体を起こし、両頬をパチンッと叩いて気合を入れる。

「ふぁぁ……おはよう。今日は随分と早いのね」

 手早く朝支度を整え、玄関で革靴を履いていると、寝室から出てきた母親が欠伸混じりに声をかけてきた。

「……学校に行く前にどうしても行かなきゃいけない所があるから」
「あらそうなの? ……もしかしてコレ?」

 意味深な笑みを浮かべながら、美琴の母親が親指を立てる。それを見た美琴は心底呆れたようにため息を吐いた。

「そんなんじゃないわよ。……いってきます」
「いってらっしゃーい」

 母親の暢気な声に送られる形で、美琴は家を出た。起きた時には深海だった空が、今は朝焼けで橙色に輝いている。昨日の雨が嘘のようだ。助かる。分厚く覆われている雲は心にまで暗い影を作ってしまうから。
 美琴の家から環の家までは、歩いていけなくはないにしろそこそこの距離がある。だから、それなりの時間がかかるはずなのに、さっき家を出たと思ったら、もう彼女の家の住宅地に着いてしまっていた。思わず自分の腕時計を確認してしまう。時計はきっちり家を出てから三十分経っている事を示していた。

「……あなたはやればできる子なのよ渚美琴。自分を信じなさい」

 爆動する心臓を鎮めるように、自分に言い聞かせる。だが、それは気休めにもならなかった。一歩足を進めるだけで、指数関数的に鼓動が速くなっている気がする。恐怖と緊張。環の家に近づくにつれ、雪崩のように襲い掛かってきた。
 僅かに震えている右手を見て美琴は思った。自分はこんなにも臆病な人間だっただろうか? 少し前までは、心の中で恐怖心を持ちつつも気丈に振る舞えていたはず。ではなぜ?
 その理由ははっきりしている。ぶつくさと文句を言いつつも、なんだかんだ隣に立って支えてくれる相手が出来たからだ。だからこそ、神宮司誠に自分の意見をぶつけられた。不登校の生徒の家に突撃する事が出来た。そして、その子が学校に来るようになると信じられた。
 どうやら自分は、学校でつまはじきにされていた男を随分と頼りにしていたようだ。それなのにあんなにもひどい事を言ってしまった。見捨てられたような気がして、ただただそれが悲しくて、そんな自分を認めたくなくて、それを誤魔化すためだけに心無い言葉を乱暴に叩きつけてしまった。
 自分が悪い事は分かっている。自分が素直じゃない事も。それでも謝らなければならない──

 ──そう、あのどうしようもないヤンキーに。

「あっ……」

 美琴の口から小さな声が零れる。その視線はムスッとした顔をしながら、藤代家の前で足をやや広げてしゃがんでいるヤンキー男に釘付けだった。

「……よぉ」

 美琴に気づいた颯空が、不貞腐れた表情のまま軽く右手を挙げる。だが、あまりの驚きに、美琴は動く事が出来ない。

「……こんな朝早くに何をしているの?」

 やっとの思いで絞り出した言葉がそれだった。そんな美琴の様子を見て、颯空が頭をガシガシと掻きながらその場で立ち上がる。

「どこぞの泣き虫が絶対来ると思ったからよ。環んちに迷惑かけないか見張りに来たんだよ」
「……別に迷惑なんかかけないわよ」

 眉をしかめながら美琴は藤代家へ一歩近づいた。不思議と心臓の鼓動は落ち着いている。恐怖と緊張も、どうやら朝の日差しに溶かされてしまったようだ。
 家の目の前で立ち止まった美琴は、何とも言えない顔で立っている颯空に視線を向ける。

「手を引くんじゃなかったっけ?」
「環を学校に連れ出す手助けはしねぇ。だが、目を逸らすつもりもねぇ」
「…………そう」

 彼らしい言葉だ、そう思いながらゆっくりと指をインターホンへと伸ばす。だが、触れるか触れないかの辺りで美琴の指はピタッと止まった。不審に思った颯空が眉をひそめる。

「……あ、あのね久我山君?」
「なんだよ?」
「昨日は……」

 ごめんなさい。その一言が出てこない。さっき謝ろうと思ったじゃないか。今がそのチャンスだ。そんな事は分かってる。なのに言葉が続かない。謝りたいのに謝れない。意地っ張りな自分がどうしようもないくらい嫌になる。

 ゴスッ。

 激しい葛藤かっとうさいなまれていた美琴の頭に、突然手刀が振り下ろされた。

「……いったぁぁぁぁぁぁ!! なにすんのよ!?」

 頭を押さえつつ、目に涙を浮かべながら美琴が睨みつけると、颯空はどうでもよさそうに鼻を鳴らした。

「昨日の事なんて忘れた。くだらねぇ事考えてないで、目の前の相手に集中しろ。……説得すんだろ? 環をよ」
「っ!?」

 美琴が大きく目を見開く。そのまま呆然と颯空を見つめていたが、表情を引き締め、インターホンに向き直った。

「……なによ。ヤンキーのくせに」
「……ヤンキーじゃねぇって言ってんだろ」

 綻びそうになる頬に力を入れる。そのまま力強くインターホンのボタンを押した。

『…………はい』
「こんな朝早くに申し訳ありません。美琴です」
『美琴さん……』

 その声から驚いている様子はまったくない。むしろ、来ることを知っていたのではないかと疑うほどに落ち着いていた。それ以上何も言わずに佳江がインターホンを切ると、程なくして玄関のドアが開いたので、美琴が礼儀正しく頭を下げる。

「おはようございます、佳江さん」
「ちーっす、おばちゃん」
「おはよう……颯空君も来てくれたのね」

 佳江が優しく微笑んだ。二人が何しにここへ来たのかなど、聞くまでもない。

「あ、あの……!!」
「うちの人はもう仕事に行ってしまったから、遠慮なく上がって?」

 美琴の言葉を聞く前に、佳江は二人を家に招き入れた。呆気なく入れてもらえた事に少しだけ面食らいつつも、二人はその言葉に従う。
 佳江が望んでいるのは今も昔も環の幸福だけだ。だから、学校側から言われた清新学園に在籍し続ける条件に付いては黙っていた。変にプレッシャーを与えてしまい、更に彼女を追い詰める結果になるかもしれないと思ったから。正直なところ、清新学園を離れる事になっても、環が幸せならそれでいいと思っていた。
 だが、その思いは二人を見て徐々に変わっていった。
 突然やって来た環の同級生。一人は真面目で可愛らしい女の子で、もう一人は少し目つきの悪いやんちゃそうな男の子。初めて見た時はなんとも凸凹な組み合わせだと思った。相反する世界を生きる二人にも見えた。だが、そんな二人と関わる事で環が少しずつ変わっていったのは事実。久しく耳にする事が出来なかった娘の笑い声を聞いた時は思わず涙が零れた。こんなにも本気で自分の娘を案じてくれる友人達がいる学校にあの子を通わせてあげたい、そんな風に思うようになっていた。

「……昨日は追い返してしまってごめんなさいね。あの子……私にすら口をきかないほどに塞ぎ込んでいたから」

 だが、その思いは投げ捨てる事になる。美琴から『学校』というワードを聞いただけで、食事もとらず、返事もしない環を見てしまえば、それは叶わぬ願いだと思ってしまった。だから、全てを諦め、あの子が傷つかない選択肢を取る事に決めた。

「佳江さん……あの事、環さんに話してもいいですか?」

 環の部屋に向かう途中で美琴が聞いてきた。佳江はまっすぐに美琴の目を見つめながら、ゆっくりと首を縦に振る。

「私はあなた達の事を信じているから、思いのままにやってちょうだい」

 決めたはずだった……最後の最後まで希望を捨てない二人を見るまでは。
 この子達なら、もしかしたら固く閉ざされたあの子の心を見つけ出すことができるかもしれない。

「……あの子の事、どうかよろしくお願いします」

 あなたの友達に一縷の望みを託す事しか出来ない母をどうか許してください。
 二人に向かって深々と頭を下げながら、佳江は心の中で自分の娘に謝罪し続けていた。
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