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序章
EP.1出会い、想いの始まり
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上空を飛んでいたある夜のことだった。
その日は激しい雨が降り注いでいた。任務のため、空を旋回し地上の様子を探っていたその時だった。
突然、俺の身体を落雷が貫いた。
神罰だろうか。そう思える心当たりがいくつもあった俺は、意識を手放しながら墜落していった。
ふと気づくと俺は、見知らぬ天井を見つめながら目を覚ました。体の痛みは和らいでいたが、まだ完全には回復していない。
「ここは...?」
自分の身体を確認すれば、擦り傷や打撲の跡があり、それに処置を施されている。誰かが俺を拾って介抱してくれたのだろうか……。
誰かが階段を登る足音が聞こえて、ふと気づいた。俺が天使であることは知られてはいけない。
背中に生えている翼と、頭の上にある光輪を見られたら、人間ではないことがバレてしまう。それは任務の上では不味いことだ。
咄嗟に天使の力を使って、翼と光輪を隠した。翼は骨が折れているようで、動かすだけでも痛みが走る。
さぁ誰が俺を介抱した?天使だと気づかれていたなら、記憶消去もやむなしだが……と考えている刹那、部屋のドアが開き、一人の少年が入ってきた。
その瞬間、俺は息を呑んだ。
扉を開けて入ってきた少年は、紺色の髪と青い瞳を持ち、まるで絵画から抜け出してきたかのような美しさだった。
俺は一目見ただけで、彼に心奪われていた。そう。俺は天界では禁じられているが、男でありながら男に惹かれる性質の持ち主なのだ。
「気がついたみたいですね、よかった~。」
「気分はいかがですか?」少年が優しく尋ねる。
思わず微笑んだ。「ああ、だいぶ良くなったよ。あんたが助けてくれたんだな。ありがとう。」
少年は小さく頷いた。微笑む姿も可愛らしい。
「あなた、雷に打たれたみたいで……拾った時は身体が裂けてたり、骨が折れてたりで、すごく大変そうだったんですよ。僕にできる範囲で手当てはしましたが、しばらくは安静にしていてくださいね。」
「そうか……重ねて感謝するよ。」
雷に直撃して、人間だったら生きている方が稀だと思うが……この少年はその事に気づいてはいないようだ。
「そうだ。あんた、名前は?」この少年に近づきたい。己の欲望のまま尋ねていた。
「あ、ええと……」
少年は少し躊躇しているようだった。不思議に思いつつ、少年の返答を待つ。
「ごめんなさい、僕は……記憶がないんです。」
「記憶がない……?」
随分奇妙な状態だな、と思った。記憶がないのに、どうやって俺の手当てをしたんだ?
「あっ、えっと、知識は、ちょっとはあるんです。ネットで色々調べて、手当ては見様見真似でやってみたんですけど、自分の名前はその……わからなくて……。」
「ごめんなさい、変な答えをしてしまって。呼び名がなくて不便なら、どうぞ好きなように呼んでください。」
少年は申し訳なさそうに俯いた。その姿を見て、力になってあげたいと、本能的に感じていた。
「……その、顔を、よく見せてくれないか。」
「?はい、どうぞ。」
そう言って少年は俺に身を寄せた。美しい青色の瞳が天井の照明を反射し、それを彩るように、紺色の前髪が顔全体を整えていた。
「……うん、やっぱり綺麗だ。」
「紺碧、そう呼ばせてくれ。」
俺は目の前の少年の美貌を見て、ふと口に出していた。
少年―紺碧は、名付けられた瞬間、目を見開いたような気がした。それを見て俺は、少し言い寄るようなことを言いすぎたか?と反省する。
「いやっ!一目見た時から、綺麗だなって思ってただけだから。決してその、口説いているわけではなくてだな……。」
言い訳虚しく、紺碧はくすくすと笑った。
「紺碧、ですか。」
「……いい名前だと思います。ありがとうございます。」
彼は穏やかに微笑んだ。警戒されていたりはしないようで、ほっとした。
「では、何かあったらいつでも呼んでください。お大事に。」
と告げて、紺碧は部屋を後にした。
「紺碧……。」
胸が高鳴る音が止まない。この時俺は既に恋に落ちていたのだとは、知る由もなかった。
天使の再生力は強い。俺の怪我はたった一週間で完治してしまった。紺碧との時間は本当に楽しかったが、俺には任務がある。もう留まるわけにはいかないと、重い口を開く。
「紺碧、そろそろお暇させてもらおうと思うんだ。」
その言葉を聞いて、紺碧は反射するようにこう答えた。
「えっ、嫌です!」
「もう少しいてくれませんか?迷惑とか、気にしなくていいので……。」
紺碧は俺の手を取って、上目遣いで見つめてきた。
紺碧が俺の滞在を続けることを望んでいたのは意外だったが、その驚きと、突然の可愛らしい仕草に、俺の心は大きく揺れた。理性が飛んでしまう。
「付き合って欲しい」
思わず口走ってしまった言葉に、俺は自分でも驚いた。本音が……!本音が漏れてしまった……!すぐに訂正しなければ、と思っていた矢先、驚くべき返事がすぐに返ってきた。
「いいですよ」紺碧は即答したのだ。
えっ……いいの!?本当に!?やったー!と心の中で舞い上がる。しかし彼は、こうも後に続けたのだ。
「どこにですか?」と。
俺は紺碧の言葉に戸惑いながら、苦笑いをせずにはいられなかった。
「いや、そういう意味じゃなくて...」
そして、交際の意味を説明しながら、俺は紺碧との新しい関係の始まりを感じていた。同時に、天界の仕事を放り出していることへの罪悪感と、紺碧への想いの間で揺れ動く自分を意識した。
これが、俺と紺碧の出会いだった。この時は想像もしていなかった。この出会いが、俺の運命を大きく変えてしまうものになるとは━━
居候生活が始まって数日が経った。あるから結局交際の意味を説明し、改めて承諾をもらえたが、俺は紺碧の様子を観察しながら、この家の不自然さに違和感を覚えていた。
一人暮らしにしては広すぎる家。部屋は必要以上に多く、紺碧はそのほとんどを使っていないようだった。
「紺碧、この家で他に誰か住んでるのか?」と尋ねてみたが、彼は首を横に振るだけだった。
ある日、庭に置いてある自転車を見つけた俺は、紺碧を誘ってみることにした。
「紺碧、サイクリングでも行かないか?」
「サイクリング...ですか?」彼は少し困惑した表情を浮かべた。
「ああ、自転車に乗って外を走るんだ。楽しいぞ」
紺碧は少し躊躇したが、最終的に同意してくれた。しかし、彼が自転車に跨ろうとした瞬間、俺は驚愕した。紺碧は完全に乗り方を知らなかったのだ。
自転車が跨るものとも認識できずに、紺碧は持ち上げたり車輪を回したりしている。まるで自転車に乗る人間さえ見たことがなさそうだった。
俺は紺碧に基本的な乗り方を教えたが、彼はすぐに転んでしまった。どうやら本当に乗ったことがないようだった。
不思議に思いつつも昼下がりになり、そろそろ夕食の献立を決める頃だろう時、紺碧に声をかけた。
「紺碧、カレーが食べたいんだけど、一緒に作らないか?」
彼は嬉しそうに頷いた。「はい、いいですよ。」
紺碧のことを知るチャンスだと思った俺は、さりげなく質問を投げかけた。
「紺碧は普段どんなカレーを食べてるんだ?」
すると、紺碧の表情が一瞬固まった。「どんな……ですか?」
「ああ、にんじんが入っているかとか、肉はチキンかポークかとか……」
紺碧は顔に疑問符を浮かべていた。問い詰めると、彼がにんじんという言葉すら理解していないことに気がついた。カレーは知っているのに、その材料を知らないなんて、そんな記憶の失い方があるのか?と疑問に思った。
「あの……僕はどうしたら…...」紺碧は言葉を詰まらせた。
俺は紺碧の困惑した表情を見て、急いで話題を変えた。
「大丈夫だ。じゃあ、実際に材料を買って作ってみようか。俺が教えるから」
紺碧は安堵したように微笑んだが、俺の心の中では疑問が渦巻いていた。記憶喪失に詳しいわけではないが、何かが変だ……。そう思いながらも、俺たちは近くの店に材料を買いに行った。
この家は山の真中にあり、最寄りの食料品店まで、片道三十分は歩く羽目になった。それでもなんとかカレーの材料を買う事はできたため、調理を開始する。
キッチンに立つと、紺碧は少し緊張した様子で俺の動きを追っていた。俺は彼の反応を観察しながら、ゆっくりと調理の準備を始めた。
「まずは野菜を切るんだ」俺が言うと、紺碧は興味深そうに頷いた。
「まな板はどこにある?」と尋ねると、紺碧は困惑した表情を浮かべた。
「まな板……ですか?」
俺は眉を上げながら、引き出しを開けてまな板と包丁を取り出した。紺碧の反応を見ていると、まるでそれが何なのかわからないようだった。
「これだよ。野菜を切るときに使うんだ」
紺碧は興味深そうにまな板を観察し、小さく頷いた。
次に、俺は包丁を取り出した。「じゃあ、玉ねぎを切ってみようか」
紺碧に包丁を渡すと、彼は人を刺す時のような握り方をした。その姿を見て、俺は本当に握ったことがないんだなと思った。
「違うんだ。こう持つんだよ」俺は優しく紺碧の手を取り、正しい持ち方を教えた。彼の手に触れたとき、少しドキッとしたが、それを悟られないよう平静を装った。
「玉ねぎの皮をむいて、こうやって薄く切るんだ」
俺が見本を見せると、紺碧は真剣な眼差しで観察していた。その表情が妙に可愛らしくて、どこか庇護欲をくすぐられた。
「じゃあ、紺碧も試してみて」
紺碧はゆっくりと、しかし真剣に玉ねぎを切り始めた。その姿は初々しく、成長を見届けるような、期待と不安が入り混じる気持ちで胸が満たされる。
しばらくすると、玉ねぎの刺激で俺の目に涙が溢れてきた。特に驚くべきことでもないので、黙って袖で涙を拭った。
しかし、紺碧は俺のその様子に驚いたように、俺を見つめてきた。
「大丈夫ですか?どうして……今泣いてたんです?」
その反応に、俺は一瞬言葉を失った。玉ねぎを切っているのに、まるでその刺激を全く感じていないようだ。
「玉ねぎを切ると、目がしみるんだよ。紺碧は平気なのか?」
紺碧は首を傾げた。「僕は何も……。」
この瞬間、俺の中で何かが引っかかった。普通の人間なら必ず感じるはずの玉ねぎの刺激を、紺碧は全く感じていない。これは単なる記憶喪失では説明がつかない。
「そうか...」俺は深く考え込みながら、調理を続けた。
紺碧の不思議な反応に、俺の疑念は深まるばかりだった。しかし同時に、彼の一生懸命な姿は、かけがえのないものだとも感じている。
この相反する感情を抱えながら、俺たちはカレー作りを進めていった。
カレーの香りが部屋中に広がり、俺たちは食卓を囲んだ。紺碧は興味深そうにカレーを見つめている。その無邪気な表情に、俺は複雑な思いを抱えていた。
「いただきます」
俺たちは同時に口にした。紺碧は初めて食べるかのように慎重にスプーンを口に運んだ。
「おいしい……!」彼の目が輝いた。
その反応を見ながら、俺の頭の中では、一つ確信を得ていた。
紺碧は記憶喪失ではない!知識に偏りがある何かだ!
紺碧はカレーを知っていた。でも、にんじんやじゃがいもといった野菜の名前は知らなかった。包丁の持ち方も知らなかった。
それだけの知識の偏りがあるが、裂傷や骨折と言った怪我のことは、治療法を調べられる程度には知っていた。生存に関する知識はあるということだ。
自転車は家にあったのに、乗り方を知らなかった。この広い家には紺碧しかいないようだが、一人暮らしにしては不自然なほど広く、少しだけ埃を被っている。
そして何より、俺という見知らぬ人間をこんなにも簡単に受け入れてしまう。
これらの矛盾する事実が、俺の中で整理がつかない。
「なぁ、紺碧」慎重に言葉を選びながら、俺は尋ねた。
「会ったばかりの俺のこと、どうしてこんなに好きになってくれたんだ?」
紺碧は一瞬考え込むような仕草を見せた後、無邪気な笑顔で答えた。
「名前をつけて呼んでくれた、初めての人だからです。それがとってもうれしかったんです!」
その答えに、俺の胸が締め付けられるのを感じた。名前をつけられて喜ぶ……まるで、それまで名前すら持っていなかったかのような反応だ。
普通の人間なら、たとえ記憶喪失だったとしても、自分の名前があったことくらいは、覚えているはずだ。しかし紺碧は、まるで生まれて初めて名前を与えられたかのように喜んでいた。
そして、「初めての人」という言葉。これまで誰とも関わりを持たなかったのだろうか。この家には生活の痕跡があるのに。
「そうか……。」俺は微笑みを浮かべながら答えたが、心の中では様々な可能性を考え始めていた。
本当に記憶喪失なのか?いや、それだけでは説明がつかない。
何か実験的な存在?でも、この家にはそんな設備があるようには見えない。
もしかして、人間ではない何か?
その考えが頭をよぎった瞬間、俺は自分が天使であることを思い出した。そして、天使に敵対する、諸々の人ならざる者たちのことも。
「カレー、おいしいな。」俺は自分の動揺を悟られないよう、談笑を続けた。
紺碧は嬉しそうに頷いている。その無邪気な笑顔を見ていると、真実を知ることへの恐れと、彼を守りたいという庇護欲が湧き上がってきた。
いいさ、紺碧の正体がどんなものでも、俺はきっと紺碧を好きなままでいられる。
俺は心の中でそう唱えて、再びスプーンを動かした。
その日は激しい雨が降り注いでいた。任務のため、空を旋回し地上の様子を探っていたその時だった。
突然、俺の身体を落雷が貫いた。
神罰だろうか。そう思える心当たりがいくつもあった俺は、意識を手放しながら墜落していった。
ふと気づくと俺は、見知らぬ天井を見つめながら目を覚ました。体の痛みは和らいでいたが、まだ完全には回復していない。
「ここは...?」
自分の身体を確認すれば、擦り傷や打撲の跡があり、それに処置を施されている。誰かが俺を拾って介抱してくれたのだろうか……。
誰かが階段を登る足音が聞こえて、ふと気づいた。俺が天使であることは知られてはいけない。
背中に生えている翼と、頭の上にある光輪を見られたら、人間ではないことがバレてしまう。それは任務の上では不味いことだ。
咄嗟に天使の力を使って、翼と光輪を隠した。翼は骨が折れているようで、動かすだけでも痛みが走る。
さぁ誰が俺を介抱した?天使だと気づかれていたなら、記憶消去もやむなしだが……と考えている刹那、部屋のドアが開き、一人の少年が入ってきた。
その瞬間、俺は息を呑んだ。
扉を開けて入ってきた少年は、紺色の髪と青い瞳を持ち、まるで絵画から抜け出してきたかのような美しさだった。
俺は一目見ただけで、彼に心奪われていた。そう。俺は天界では禁じられているが、男でありながら男に惹かれる性質の持ち主なのだ。
「気がついたみたいですね、よかった~。」
「気分はいかがですか?」少年が優しく尋ねる。
思わず微笑んだ。「ああ、だいぶ良くなったよ。あんたが助けてくれたんだな。ありがとう。」
少年は小さく頷いた。微笑む姿も可愛らしい。
「あなた、雷に打たれたみたいで……拾った時は身体が裂けてたり、骨が折れてたりで、すごく大変そうだったんですよ。僕にできる範囲で手当てはしましたが、しばらくは安静にしていてくださいね。」
「そうか……重ねて感謝するよ。」
雷に直撃して、人間だったら生きている方が稀だと思うが……この少年はその事に気づいてはいないようだ。
「そうだ。あんた、名前は?」この少年に近づきたい。己の欲望のまま尋ねていた。
「あ、ええと……」
少年は少し躊躇しているようだった。不思議に思いつつ、少年の返答を待つ。
「ごめんなさい、僕は……記憶がないんです。」
「記憶がない……?」
随分奇妙な状態だな、と思った。記憶がないのに、どうやって俺の手当てをしたんだ?
「あっ、えっと、知識は、ちょっとはあるんです。ネットで色々調べて、手当ては見様見真似でやってみたんですけど、自分の名前はその……わからなくて……。」
「ごめんなさい、変な答えをしてしまって。呼び名がなくて不便なら、どうぞ好きなように呼んでください。」
少年は申し訳なさそうに俯いた。その姿を見て、力になってあげたいと、本能的に感じていた。
「……その、顔を、よく見せてくれないか。」
「?はい、どうぞ。」
そう言って少年は俺に身を寄せた。美しい青色の瞳が天井の照明を反射し、それを彩るように、紺色の前髪が顔全体を整えていた。
「……うん、やっぱり綺麗だ。」
「紺碧、そう呼ばせてくれ。」
俺は目の前の少年の美貌を見て、ふと口に出していた。
少年―紺碧は、名付けられた瞬間、目を見開いたような気がした。それを見て俺は、少し言い寄るようなことを言いすぎたか?と反省する。
「いやっ!一目見た時から、綺麗だなって思ってただけだから。決してその、口説いているわけではなくてだな……。」
言い訳虚しく、紺碧はくすくすと笑った。
「紺碧、ですか。」
「……いい名前だと思います。ありがとうございます。」
彼は穏やかに微笑んだ。警戒されていたりはしないようで、ほっとした。
「では、何かあったらいつでも呼んでください。お大事に。」
と告げて、紺碧は部屋を後にした。
「紺碧……。」
胸が高鳴る音が止まない。この時俺は既に恋に落ちていたのだとは、知る由もなかった。
天使の再生力は強い。俺の怪我はたった一週間で完治してしまった。紺碧との時間は本当に楽しかったが、俺には任務がある。もう留まるわけにはいかないと、重い口を開く。
「紺碧、そろそろお暇させてもらおうと思うんだ。」
その言葉を聞いて、紺碧は反射するようにこう答えた。
「えっ、嫌です!」
「もう少しいてくれませんか?迷惑とか、気にしなくていいので……。」
紺碧は俺の手を取って、上目遣いで見つめてきた。
紺碧が俺の滞在を続けることを望んでいたのは意外だったが、その驚きと、突然の可愛らしい仕草に、俺の心は大きく揺れた。理性が飛んでしまう。
「付き合って欲しい」
思わず口走ってしまった言葉に、俺は自分でも驚いた。本音が……!本音が漏れてしまった……!すぐに訂正しなければ、と思っていた矢先、驚くべき返事がすぐに返ってきた。
「いいですよ」紺碧は即答したのだ。
えっ……いいの!?本当に!?やったー!と心の中で舞い上がる。しかし彼は、こうも後に続けたのだ。
「どこにですか?」と。
俺は紺碧の言葉に戸惑いながら、苦笑いをせずにはいられなかった。
「いや、そういう意味じゃなくて...」
そして、交際の意味を説明しながら、俺は紺碧との新しい関係の始まりを感じていた。同時に、天界の仕事を放り出していることへの罪悪感と、紺碧への想いの間で揺れ動く自分を意識した。
これが、俺と紺碧の出会いだった。この時は想像もしていなかった。この出会いが、俺の運命を大きく変えてしまうものになるとは━━
居候生活が始まって数日が経った。あるから結局交際の意味を説明し、改めて承諾をもらえたが、俺は紺碧の様子を観察しながら、この家の不自然さに違和感を覚えていた。
一人暮らしにしては広すぎる家。部屋は必要以上に多く、紺碧はそのほとんどを使っていないようだった。
「紺碧、この家で他に誰か住んでるのか?」と尋ねてみたが、彼は首を横に振るだけだった。
ある日、庭に置いてある自転車を見つけた俺は、紺碧を誘ってみることにした。
「紺碧、サイクリングでも行かないか?」
「サイクリング...ですか?」彼は少し困惑した表情を浮かべた。
「ああ、自転車に乗って外を走るんだ。楽しいぞ」
紺碧は少し躊躇したが、最終的に同意してくれた。しかし、彼が自転車に跨ろうとした瞬間、俺は驚愕した。紺碧は完全に乗り方を知らなかったのだ。
自転車が跨るものとも認識できずに、紺碧は持ち上げたり車輪を回したりしている。まるで自転車に乗る人間さえ見たことがなさそうだった。
俺は紺碧に基本的な乗り方を教えたが、彼はすぐに転んでしまった。どうやら本当に乗ったことがないようだった。
不思議に思いつつも昼下がりになり、そろそろ夕食の献立を決める頃だろう時、紺碧に声をかけた。
「紺碧、カレーが食べたいんだけど、一緒に作らないか?」
彼は嬉しそうに頷いた。「はい、いいですよ。」
紺碧のことを知るチャンスだと思った俺は、さりげなく質問を投げかけた。
「紺碧は普段どんなカレーを食べてるんだ?」
すると、紺碧の表情が一瞬固まった。「どんな……ですか?」
「ああ、にんじんが入っているかとか、肉はチキンかポークかとか……」
紺碧は顔に疑問符を浮かべていた。問い詰めると、彼がにんじんという言葉すら理解していないことに気がついた。カレーは知っているのに、その材料を知らないなんて、そんな記憶の失い方があるのか?と疑問に思った。
「あの……僕はどうしたら…...」紺碧は言葉を詰まらせた。
俺は紺碧の困惑した表情を見て、急いで話題を変えた。
「大丈夫だ。じゃあ、実際に材料を買って作ってみようか。俺が教えるから」
紺碧は安堵したように微笑んだが、俺の心の中では疑問が渦巻いていた。記憶喪失に詳しいわけではないが、何かが変だ……。そう思いながらも、俺たちは近くの店に材料を買いに行った。
この家は山の真中にあり、最寄りの食料品店まで、片道三十分は歩く羽目になった。それでもなんとかカレーの材料を買う事はできたため、調理を開始する。
キッチンに立つと、紺碧は少し緊張した様子で俺の動きを追っていた。俺は彼の反応を観察しながら、ゆっくりと調理の準備を始めた。
「まずは野菜を切るんだ」俺が言うと、紺碧は興味深そうに頷いた。
「まな板はどこにある?」と尋ねると、紺碧は困惑した表情を浮かべた。
「まな板……ですか?」
俺は眉を上げながら、引き出しを開けてまな板と包丁を取り出した。紺碧の反応を見ていると、まるでそれが何なのかわからないようだった。
「これだよ。野菜を切るときに使うんだ」
紺碧は興味深そうにまな板を観察し、小さく頷いた。
次に、俺は包丁を取り出した。「じゃあ、玉ねぎを切ってみようか」
紺碧に包丁を渡すと、彼は人を刺す時のような握り方をした。その姿を見て、俺は本当に握ったことがないんだなと思った。
「違うんだ。こう持つんだよ」俺は優しく紺碧の手を取り、正しい持ち方を教えた。彼の手に触れたとき、少しドキッとしたが、それを悟られないよう平静を装った。
「玉ねぎの皮をむいて、こうやって薄く切るんだ」
俺が見本を見せると、紺碧は真剣な眼差しで観察していた。その表情が妙に可愛らしくて、どこか庇護欲をくすぐられた。
「じゃあ、紺碧も試してみて」
紺碧はゆっくりと、しかし真剣に玉ねぎを切り始めた。その姿は初々しく、成長を見届けるような、期待と不安が入り混じる気持ちで胸が満たされる。
しばらくすると、玉ねぎの刺激で俺の目に涙が溢れてきた。特に驚くべきことでもないので、黙って袖で涙を拭った。
しかし、紺碧は俺のその様子に驚いたように、俺を見つめてきた。
「大丈夫ですか?どうして……今泣いてたんです?」
その反応に、俺は一瞬言葉を失った。玉ねぎを切っているのに、まるでその刺激を全く感じていないようだ。
「玉ねぎを切ると、目がしみるんだよ。紺碧は平気なのか?」
紺碧は首を傾げた。「僕は何も……。」
この瞬間、俺の中で何かが引っかかった。普通の人間なら必ず感じるはずの玉ねぎの刺激を、紺碧は全く感じていない。これは単なる記憶喪失では説明がつかない。
「そうか...」俺は深く考え込みながら、調理を続けた。
紺碧の不思議な反応に、俺の疑念は深まるばかりだった。しかし同時に、彼の一生懸命な姿は、かけがえのないものだとも感じている。
この相反する感情を抱えながら、俺たちはカレー作りを進めていった。
カレーの香りが部屋中に広がり、俺たちは食卓を囲んだ。紺碧は興味深そうにカレーを見つめている。その無邪気な表情に、俺は複雑な思いを抱えていた。
「いただきます」
俺たちは同時に口にした。紺碧は初めて食べるかのように慎重にスプーンを口に運んだ。
「おいしい……!」彼の目が輝いた。
その反応を見ながら、俺の頭の中では、一つ確信を得ていた。
紺碧は記憶喪失ではない!知識に偏りがある何かだ!
紺碧はカレーを知っていた。でも、にんじんやじゃがいもといった野菜の名前は知らなかった。包丁の持ち方も知らなかった。
それだけの知識の偏りがあるが、裂傷や骨折と言った怪我のことは、治療法を調べられる程度には知っていた。生存に関する知識はあるということだ。
自転車は家にあったのに、乗り方を知らなかった。この広い家には紺碧しかいないようだが、一人暮らしにしては不自然なほど広く、少しだけ埃を被っている。
そして何より、俺という見知らぬ人間をこんなにも簡単に受け入れてしまう。
これらの矛盾する事実が、俺の中で整理がつかない。
「なぁ、紺碧」慎重に言葉を選びながら、俺は尋ねた。
「会ったばかりの俺のこと、どうしてこんなに好きになってくれたんだ?」
紺碧は一瞬考え込むような仕草を見せた後、無邪気な笑顔で答えた。
「名前をつけて呼んでくれた、初めての人だからです。それがとってもうれしかったんです!」
その答えに、俺の胸が締め付けられるのを感じた。名前をつけられて喜ぶ……まるで、それまで名前すら持っていなかったかのような反応だ。
普通の人間なら、たとえ記憶喪失だったとしても、自分の名前があったことくらいは、覚えているはずだ。しかし紺碧は、まるで生まれて初めて名前を与えられたかのように喜んでいた。
そして、「初めての人」という言葉。これまで誰とも関わりを持たなかったのだろうか。この家には生活の痕跡があるのに。
「そうか……。」俺は微笑みを浮かべながら答えたが、心の中では様々な可能性を考え始めていた。
本当に記憶喪失なのか?いや、それだけでは説明がつかない。
何か実験的な存在?でも、この家にはそんな設備があるようには見えない。
もしかして、人間ではない何か?
その考えが頭をよぎった瞬間、俺は自分が天使であることを思い出した。そして、天使に敵対する、諸々の人ならざる者たちのことも。
「カレー、おいしいな。」俺は自分の動揺を悟られないよう、談笑を続けた。
紺碧は嬉しそうに頷いている。その無邪気な笑顔を見ていると、真実を知ることへの恐れと、彼を守りたいという庇護欲が湧き上がってきた。
いいさ、紺碧の正体がどんなものでも、俺はきっと紺碧を好きなままでいられる。
俺は心の中でそう唱えて、再びスプーンを動かした。
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恒星から近い距離では禁止されているし、システム的にも不可だった。
なんとか制限内に解除し、重力ジャンプを敢行した。
しかし、禁止されているその理由通りの状況に陥った。
艦隊ごとセットした座標からズレ、恒星から数光年離れた所にジャンプし【ワープのような架空の移動方法】、再び重力ジャンプ可能な所まで移動するのに33年程掛かる。
そんな中忘れ去られた艦隊が33年の月日の後、本星へと帰還を目指す。
果たして彼らは帰還できるのか?
帰還出来たとして彼らに待ち受ける運命は?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
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