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7 ふたつぶの涙
7_⑤
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小屋の中は静かだった。長椅子を寄せ集めたベッドに、横たわる師。傍らに座り込んでいるユッポ。
僕が入って来たのは、音でわかったはずだ。沈黙が張り付いて、心臓がさわぎだす。一歩踏み出すと、床がきしんだ。
「……ユッポ」
名前を呼ぶと、セコ? と掠れた声が返ってきた。こちらに背を向けたまま、師を見つめているんだろう。師は安らかな表情で、既に呼吸の動きがなくなっていた。彼の手の甲に添える小さな手は、手袋を外して木の肌を見せている。
「セコ……パパと、お別れになっちゃった。みんなの所に、もう、帰れなくなっちゃった」
「うん」
泣けない声が胸を刺す。優しい言葉や励ましは虚しいから、うなずくだけにした。
「いっしょに帰るって、みんなと、約束したのに。でもね、わたしは、パパのために涙を流したい。たった、ふたつぶだけの涙だけど。たぶん、わたしも帰れなくなるけど……」
そうか。
ユッポは、どんなに振り回されても、師が父親として大切なんだな。自ら瞳を差し出す痛みを、受け入れる気だ。
大丈夫かと問うと、ユッポは少し声を大きくして答えた。
「痛いよ」
そうだよな。げんこつだって痛かったんだ。
「でも、泣けなかったら、もっと……痛いよ」
ゆっくり振り向いた顔には、瞳が片方なかった。無理に引き抜いたのだろう、顔の布張りが目尻で裂けている。瞬きをすると、瞼のパーツが上下するのが見えた。こちらを向くと同時にあらわになった師の手、指の間に収まっているのは、日の光がきらきら注ぐ、美しいガラス玉。
「セコが来てくれて、よかった。もうひとつ、目をとったら……わたしも、お別れだと思うんだ。そうなる前に、あやまりたかったの」
ユッポの顔にぽっかりと空いた穴が、僕の目線を吸い込んでいく。
「わたし、めいわくかけてばかりだったよね。ずっと、いっしょにいてくれたのに。セコがいっしょにいたから、ここまで来て、パパに会えたのに。……ごめんなさい。わたしは、セコのために、何もできてない」
声の掠れは痛みのためだ。健気に紡ぐ言葉のひとつひとつが染みて、僕は首を横に振る。
「謝ることはないよ。僕は、ユッポに助けられてばかりだったじゃないか」
そうかな、と照れたように下を向き、まだ言いたいことがありそうだ。再び顔を上げると、ユッポは伝える言葉を変えた。
「セコ。たくさん、いっぱい、ありがとう。いっしょに来てくれたから……パパに、涙をあげられるようになったよ」
笑顔が痛い。僕も言いたいことがあるはずなのに、口が動かせない。
そうしている間に、ためらいがちにユッポが口を開く。残った瞳が僕を見た。
「あのね、」
昨晩と同じ、決意の顔になる。きっと、お願いがあるんだ。
隣にしゃがみこんで、僕は先にうなずいた。こんな時くらい、気負わずに頼ってくれ。
「ありがとう。わたしの涙……落としちゃいそうだから、パパの手に、わたしてくれないかな。たぶん、取ったら、見えなくて……わからなくて……」
震えている? 当たり前か。自分が知る、全ての人とお別れになることを考えているんだ。それが真にどういうことか、考えて分かる事じゃない。そして、分からないことは……怖い。
ユッポがいなくなるなんて、考えたくないくらいには嫌だけど。今、君のためにできることって何だろう。
「うん。僕に任せて」
ささやかな願いを受け入れて、深くうなずくこと。
悲しい顔を見せないこと。それから、震えを止めたくて、小さな体を抱きしめた。
「わぁ。やっぱり、セコはアッタかいねえ」
コートの胸に埋もれた声は、笑っていた。袖ぐりをきゅっと握る手は、そのうち離れていくのだろう。
惜しくなって、髪をなでる。痛みよ、和らげ。血のめぐる指先に祈った。
「だんだん、こわく、なくなってきた……かもしれない」
言い聞かせるような言葉とともに、ユッポの手の力が緩む。僕もゆっくりと腕をほどいて、奥歯を強く噛み合わせる。普段と同じような顔を、していると思う。
身を起こしたユッポは、一度まっすぐに僕を見てからうつむいた。手袋を外していたのは、瞼の内側に指を入れるためか。
ユッポの視界が木目に覆われる時、顔を背けたかった。でも、このあと君を受け止めるには、我慢しないとね。目線だけは正直で、朝日のほうへ逃れてしまう。
僕に瞳を外すのを頼まなかったのは、とても出来ないと分かっていたからかな。
「──」
声にならない声に重なって、ぷつり、糸の切れる音がした。
前に向かって倒れてくるユッポを、僕はしっかり受け止めた。小さな手に包まれたガラスの瞳は、落ちることなく手のひらを転がる。それを師の手元に置いて、僕はしばらく呆然としていた。
夢から覚めたのか? ユッポが、ただ人形に戻っただけ? この旅は何だったんだろう……この結末は、一体?
「ああ……素晴らしい。師よ……最期の在り方まで、美しいとは」
背後から聞こえる、ハノンの耳障りな声で我に返る。
そうだ、終わってなんかいない!
僕はユッポを抱きかかえて立ち上がる。向かうのは皆の家だ。師が眠った小屋を出て、ハノンの横を通り抜け、にじんだ景色を振り切って歩く。
動かなくても、せめてユッポだけは、皆の所へ帰してあげたかった。
僕が入って来たのは、音でわかったはずだ。沈黙が張り付いて、心臓がさわぎだす。一歩踏み出すと、床がきしんだ。
「……ユッポ」
名前を呼ぶと、セコ? と掠れた声が返ってきた。こちらに背を向けたまま、師を見つめているんだろう。師は安らかな表情で、既に呼吸の動きがなくなっていた。彼の手の甲に添える小さな手は、手袋を外して木の肌を見せている。
「セコ……パパと、お別れになっちゃった。みんなの所に、もう、帰れなくなっちゃった」
「うん」
泣けない声が胸を刺す。優しい言葉や励ましは虚しいから、うなずくだけにした。
「いっしょに帰るって、みんなと、約束したのに。でもね、わたしは、パパのために涙を流したい。たった、ふたつぶだけの涙だけど。たぶん、わたしも帰れなくなるけど……」
そうか。
ユッポは、どんなに振り回されても、師が父親として大切なんだな。自ら瞳を差し出す痛みを、受け入れる気だ。
大丈夫かと問うと、ユッポは少し声を大きくして答えた。
「痛いよ」
そうだよな。げんこつだって痛かったんだ。
「でも、泣けなかったら、もっと……痛いよ」
ゆっくり振り向いた顔には、瞳が片方なかった。無理に引き抜いたのだろう、顔の布張りが目尻で裂けている。瞬きをすると、瞼のパーツが上下するのが見えた。こちらを向くと同時にあらわになった師の手、指の間に収まっているのは、日の光がきらきら注ぐ、美しいガラス玉。
「セコが来てくれて、よかった。もうひとつ、目をとったら……わたしも、お別れだと思うんだ。そうなる前に、あやまりたかったの」
ユッポの顔にぽっかりと空いた穴が、僕の目線を吸い込んでいく。
「わたし、めいわくかけてばかりだったよね。ずっと、いっしょにいてくれたのに。セコがいっしょにいたから、ここまで来て、パパに会えたのに。……ごめんなさい。わたしは、セコのために、何もできてない」
声の掠れは痛みのためだ。健気に紡ぐ言葉のひとつひとつが染みて、僕は首を横に振る。
「謝ることはないよ。僕は、ユッポに助けられてばかりだったじゃないか」
そうかな、と照れたように下を向き、まだ言いたいことがありそうだ。再び顔を上げると、ユッポは伝える言葉を変えた。
「セコ。たくさん、いっぱい、ありがとう。いっしょに来てくれたから……パパに、涙をあげられるようになったよ」
笑顔が痛い。僕も言いたいことがあるはずなのに、口が動かせない。
そうしている間に、ためらいがちにユッポが口を開く。残った瞳が僕を見た。
「あのね、」
昨晩と同じ、決意の顔になる。きっと、お願いがあるんだ。
隣にしゃがみこんで、僕は先にうなずいた。こんな時くらい、気負わずに頼ってくれ。
「ありがとう。わたしの涙……落としちゃいそうだから、パパの手に、わたしてくれないかな。たぶん、取ったら、見えなくて……わからなくて……」
震えている? 当たり前か。自分が知る、全ての人とお別れになることを考えているんだ。それが真にどういうことか、考えて分かる事じゃない。そして、分からないことは……怖い。
ユッポがいなくなるなんて、考えたくないくらいには嫌だけど。今、君のためにできることって何だろう。
「うん。僕に任せて」
ささやかな願いを受け入れて、深くうなずくこと。
悲しい顔を見せないこと。それから、震えを止めたくて、小さな体を抱きしめた。
「わぁ。やっぱり、セコはアッタかいねえ」
コートの胸に埋もれた声は、笑っていた。袖ぐりをきゅっと握る手は、そのうち離れていくのだろう。
惜しくなって、髪をなでる。痛みよ、和らげ。血のめぐる指先に祈った。
「だんだん、こわく、なくなってきた……かもしれない」
言い聞かせるような言葉とともに、ユッポの手の力が緩む。僕もゆっくりと腕をほどいて、奥歯を強く噛み合わせる。普段と同じような顔を、していると思う。
身を起こしたユッポは、一度まっすぐに僕を見てからうつむいた。手袋を外していたのは、瞼の内側に指を入れるためか。
ユッポの視界が木目に覆われる時、顔を背けたかった。でも、このあと君を受け止めるには、我慢しないとね。目線だけは正直で、朝日のほうへ逃れてしまう。
僕に瞳を外すのを頼まなかったのは、とても出来ないと分かっていたからかな。
「──」
声にならない声に重なって、ぷつり、糸の切れる音がした。
前に向かって倒れてくるユッポを、僕はしっかり受け止めた。小さな手に包まれたガラスの瞳は、落ちることなく手のひらを転がる。それを師の手元に置いて、僕はしばらく呆然としていた。
夢から覚めたのか? ユッポが、ただ人形に戻っただけ? この旅は何だったんだろう……この結末は、一体?
「ああ……素晴らしい。師よ……最期の在り方まで、美しいとは」
背後から聞こえる、ハノンの耳障りな声で我に返る。
そうだ、終わってなんかいない!
僕はユッポを抱きかかえて立ち上がる。向かうのは皆の家だ。師が眠った小屋を出て、ハノンの横を通り抜け、にじんだ景色を振り切って歩く。
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