22 / 84
4章 渡り鳥
4_①
しおりを挟む
花薄荷の香りは完全に消えた。添花は扇状に広がる緩やかな坂を下っている。道はそのうち竜鱗の谷底と同じ高さになるだろう。左手は森、右手は草原で腰の高さまで細い草が茂り、歩きやすい範囲は狭い。竜鱗は観光向きの町ではないから、人の往来といえば商人と珍しい旅人くらいのもの。荷馬車の轍もおぼろげだ。
(商人といえば。利き腕は使えないけど……そろそろ、稼いだほうがいいよね)
添花は時々、商人の護衛に雇われることで旅の資金を得ていた。地区によって生息する様々な猛獣や盗賊が、商いの邪魔をする。その撃退を請け負うのだ。
先の事を考えて早く進もうと思うのに、歩みは遅い。坂を下りきった辺りの川にかかる橋を渡ってすぐ、日の光が夕方の色に変わり始めた。野宿のために枯れ枝を集めながら進む。町はまだ影も見えなかった。
(ん、何か聞こえる)
よく耳にする、遠くから「助けて」と訴える声と重なり、草原のざわつきに言葉が混じる。霊の呼び声だ。
ふたつの声のうち、近い方の主はすぐ姿を現した。道端に転がる、腰掛けに具合のいい石に、老いた男性の霊があぐらをかいている。
「おぬし、旅の者か」
ぶつぶつ言っていた彼は、添花に気付くと無表情で話しかけてきた。
「ええ。私に何か用ですか?」
声の届く範囲に生きた人間はいない。添花は人目をはばからず老人に答えた。
「間もなく日が落ちる。よければ、この老人の話し相手になってくれぬか」
言葉は落ち着いたものでも、老人の表情はぱっと輝いた。
(おじいちゃん、案外子供っぽい顔するね)
きっと、ずっと誰かを待っていたのだ。一体何を思い残しているのだろう。未練を晴らすべく、添花は彼の側に行き、野宿の準備を始めた。
本当に、どこへ行っても霊に出会うものだ。悔いの残らぬ人生を送るのは、それほど難しい。しみじみと思いを巡らせながら、添花は心の中で渋い顔をした。
「……と、一族の者は、儂の話に全く耳を傾けなんだ。ついには儂を置いて去りおったよ」
老人は延々と話し続けている。添花が発した言葉は、ここしばらく「はい」か「いいえ」、もしくは短い感嘆詞だった。野宿の話し相手がいるのは具合がいいと老人の話に乗ったものの、これではひとりで黙っているのと変わらない。
「それからは、ひとり、ここで過ごしておる。行く人も来る人も、老人の声など聞かん。まるで聞こえぬかのように通り過ぎる。聞いてくれたのは、お前さんが初めてだ」
(霊だって自覚、なし? どれだけの間ここにいるんだろう)
彼の服に刺繍されているのは、三羽の鳥を模した紋、記憶にないものだ。旅の中で聞いた情報から推し量り、老人が何者か見当を付ける。
「鷸族の語りも、儂の代でおしまいか」
(やっぱり。喋ることが未練というより、鷸族の語りを守りたかったのか)
鷸族の現在について教えようかと考えたが、老人は時の流れを正しく自覚していないはずなので、やめた。彼の一族は天幕を住まいとする移動民族で、渡り鳥の名をとって鷸族と呼ばれた。現在は六洞に落ち着き、各地を転々とする生活を終えていた。
(じゃあ、魂だけになって何十年も、ここに? こういう、話を聞いてもらえないことって、そんなに強い未練になるんだ)
ひとりに慣れた添花にとっては、理解を超える感情だ。ひとつわかるのは、話に飽きて舟漕ぎでもしたら、彼は成仏しないということ。考えごとはここまでにして、つらつらと続く鷸族の語りを、真剣に聞こうと背筋を伸ばした。
日は落ちて、焚き火による仄かな明かりが添花を照らしている。石の上の虚空に向かって、しきりに頷く彼女の姿を、背後の森から見つめる者がいた。
(あれは……誰かの話を、聞いてる?)
眇めた目に、老人の霊は映らない。頭巾に隠れた表情は、舌打ちから想像できた。その目は恨みに燃えているが、機を見極める冷静さは残している。
(今、隙を突けば簡単だわ。でも、そうしたらあの霊は成仏できないわけか)
頭巾の女は、水芳地区で添花を襲った霖だった。彼女は添花をよく知っているらしい──霊が見えることや、彼らを成仏させる旅を続けていることを。
一方、添花は霖が何者なのか知らずにいる。添花を狙う理由も、今、離れた背後から隙をうかがっていることも。右腕をかばう仕草に気付き、ほくそ笑んでいることにも。
(ふうん、竜をけしかけたのは無駄じゃなかったようね)
霊の成仏を待ってからでも、勝機は自分にある。殺気に気付かれぬよう、睨む代わりに耳を澄ませ、霖は待った。
「え? あの辺りって晴れるんですね」
添花が久しぶりに相づち以外の言葉を発した時、老人は水芳の晴天と呼ばれる天候の話をしていた。滞在中ずっと雨だった地区を思い、添花の声には笑いが混じる。老人もまた微笑んでいる。関心を持って話を聴いてもらえるのが、大層嬉しいらしい。
「それはそうだとも。冬も雪深い地区だが、晴れると雪の中から、一気に虫が孵化するのだ。それから二十日ほどで成虫になると毒を持つ。だから、冬に水芳に行くのは危険なんだよ」
「わぁ……そうなんですか」
虫が平気な質でも、真っ白な雪を割って虫が湧く様は気持ちのいい想像ではない。添花の口元が引きつった。
「まあ、幼虫を集めて燃料を作っている以上、害虫とも言い切れんがね」
「なるほど、そういう使い道が」
水芳地区の燃料が何なのか知れたし、訪れるのを避けるべき時期も勉強になった。この老人の話はこうしてためにもなるが、つまらなく感じる者の気持ちも理解できる。各地の毒虫や猛獣の話が多いのだ。京以上の竜は岩龍地区にいる、駆龍地区には竜の他に虎や熊といった猛獣に注意すべき、など、添花が元々知っている情報が半分を占めた。物語風に工夫されているものがあっても、いつも聞かされていては飽きてしまうだろう。
「お前さん、よく聞いてくれているが旅人だろう? 各地の危険も知らないで旅をしていたのかね」
既知のことも心がけてよく聴いていたところ、けしからんという目で見られた添花は、少しむっとしながら言葉を返す。
「行く先々で、それなりに情報は集めています」
「ほう……感心だな、若いのに」
若者はダメな奴らだと、固定観念が出来上がっているのかもしれない。まともな発言をするごとに、白い髭を撫でて微笑む。こんな孫でもいればよかったと目で語った。
添花にしてみれば、初めて聞いたふりをして全てをきちんと聞くのは、苦痛に他ならない。それでもひたすら我慢した。もう真夜中は過ぎただろうか。宵の口から聞き役に徹していたので、さすがに辛くなってくる。暇だから腕の痛みを忘れられない。つられて関係ない古傷まで疼く瞬間がある。凝って来た腰をほぐすふりをして、少し腿をさすった。
(商人といえば。利き腕は使えないけど……そろそろ、稼いだほうがいいよね)
添花は時々、商人の護衛に雇われることで旅の資金を得ていた。地区によって生息する様々な猛獣や盗賊が、商いの邪魔をする。その撃退を請け負うのだ。
先の事を考えて早く進もうと思うのに、歩みは遅い。坂を下りきった辺りの川にかかる橋を渡ってすぐ、日の光が夕方の色に変わり始めた。野宿のために枯れ枝を集めながら進む。町はまだ影も見えなかった。
(ん、何か聞こえる)
よく耳にする、遠くから「助けて」と訴える声と重なり、草原のざわつきに言葉が混じる。霊の呼び声だ。
ふたつの声のうち、近い方の主はすぐ姿を現した。道端に転がる、腰掛けに具合のいい石に、老いた男性の霊があぐらをかいている。
「おぬし、旅の者か」
ぶつぶつ言っていた彼は、添花に気付くと無表情で話しかけてきた。
「ええ。私に何か用ですか?」
声の届く範囲に生きた人間はいない。添花は人目をはばからず老人に答えた。
「間もなく日が落ちる。よければ、この老人の話し相手になってくれぬか」
言葉は落ち着いたものでも、老人の表情はぱっと輝いた。
(おじいちゃん、案外子供っぽい顔するね)
きっと、ずっと誰かを待っていたのだ。一体何を思い残しているのだろう。未練を晴らすべく、添花は彼の側に行き、野宿の準備を始めた。
本当に、どこへ行っても霊に出会うものだ。悔いの残らぬ人生を送るのは、それほど難しい。しみじみと思いを巡らせながら、添花は心の中で渋い顔をした。
「……と、一族の者は、儂の話に全く耳を傾けなんだ。ついには儂を置いて去りおったよ」
老人は延々と話し続けている。添花が発した言葉は、ここしばらく「はい」か「いいえ」、もしくは短い感嘆詞だった。野宿の話し相手がいるのは具合がいいと老人の話に乗ったものの、これではひとりで黙っているのと変わらない。
「それからは、ひとり、ここで過ごしておる。行く人も来る人も、老人の声など聞かん。まるで聞こえぬかのように通り過ぎる。聞いてくれたのは、お前さんが初めてだ」
(霊だって自覚、なし? どれだけの間ここにいるんだろう)
彼の服に刺繍されているのは、三羽の鳥を模した紋、記憶にないものだ。旅の中で聞いた情報から推し量り、老人が何者か見当を付ける。
「鷸族の語りも、儂の代でおしまいか」
(やっぱり。喋ることが未練というより、鷸族の語りを守りたかったのか)
鷸族の現在について教えようかと考えたが、老人は時の流れを正しく自覚していないはずなので、やめた。彼の一族は天幕を住まいとする移動民族で、渡り鳥の名をとって鷸族と呼ばれた。現在は六洞に落ち着き、各地を転々とする生活を終えていた。
(じゃあ、魂だけになって何十年も、ここに? こういう、話を聞いてもらえないことって、そんなに強い未練になるんだ)
ひとりに慣れた添花にとっては、理解を超える感情だ。ひとつわかるのは、話に飽きて舟漕ぎでもしたら、彼は成仏しないということ。考えごとはここまでにして、つらつらと続く鷸族の語りを、真剣に聞こうと背筋を伸ばした。
日は落ちて、焚き火による仄かな明かりが添花を照らしている。石の上の虚空に向かって、しきりに頷く彼女の姿を、背後の森から見つめる者がいた。
(あれは……誰かの話を、聞いてる?)
眇めた目に、老人の霊は映らない。頭巾に隠れた表情は、舌打ちから想像できた。その目は恨みに燃えているが、機を見極める冷静さは残している。
(今、隙を突けば簡単だわ。でも、そうしたらあの霊は成仏できないわけか)
頭巾の女は、水芳地区で添花を襲った霖だった。彼女は添花をよく知っているらしい──霊が見えることや、彼らを成仏させる旅を続けていることを。
一方、添花は霖が何者なのか知らずにいる。添花を狙う理由も、今、離れた背後から隙をうかがっていることも。右腕をかばう仕草に気付き、ほくそ笑んでいることにも。
(ふうん、竜をけしかけたのは無駄じゃなかったようね)
霊の成仏を待ってからでも、勝機は自分にある。殺気に気付かれぬよう、睨む代わりに耳を澄ませ、霖は待った。
「え? あの辺りって晴れるんですね」
添花が久しぶりに相づち以外の言葉を発した時、老人は水芳の晴天と呼ばれる天候の話をしていた。滞在中ずっと雨だった地区を思い、添花の声には笑いが混じる。老人もまた微笑んでいる。関心を持って話を聴いてもらえるのが、大層嬉しいらしい。
「それはそうだとも。冬も雪深い地区だが、晴れると雪の中から、一気に虫が孵化するのだ。それから二十日ほどで成虫になると毒を持つ。だから、冬に水芳に行くのは危険なんだよ」
「わぁ……そうなんですか」
虫が平気な質でも、真っ白な雪を割って虫が湧く様は気持ちのいい想像ではない。添花の口元が引きつった。
「まあ、幼虫を集めて燃料を作っている以上、害虫とも言い切れんがね」
「なるほど、そういう使い道が」
水芳地区の燃料が何なのか知れたし、訪れるのを避けるべき時期も勉強になった。この老人の話はこうしてためにもなるが、つまらなく感じる者の気持ちも理解できる。各地の毒虫や猛獣の話が多いのだ。京以上の竜は岩龍地区にいる、駆龍地区には竜の他に虎や熊といった猛獣に注意すべき、など、添花が元々知っている情報が半分を占めた。物語風に工夫されているものがあっても、いつも聞かされていては飽きてしまうだろう。
「お前さん、よく聞いてくれているが旅人だろう? 各地の危険も知らないで旅をしていたのかね」
既知のことも心がけてよく聴いていたところ、けしからんという目で見られた添花は、少しむっとしながら言葉を返す。
「行く先々で、それなりに情報は集めています」
「ほう……感心だな、若いのに」
若者はダメな奴らだと、固定観念が出来上がっているのかもしれない。まともな発言をするごとに、白い髭を撫でて微笑む。こんな孫でもいればよかったと目で語った。
添花にしてみれば、初めて聞いたふりをして全てをきちんと聞くのは、苦痛に他ならない。それでもひたすら我慢した。もう真夜中は過ぎただろうか。宵の口から聞き役に徹していたので、さすがに辛くなってくる。暇だから腕の痛みを忘れられない。つられて関係ない古傷まで疼く瞬間がある。凝って来た腰をほぐすふりをして、少し腿をさすった。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
とある高校の淫らで背徳的な日常
神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。
クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。
後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。
ノクターンとかにもある
お気に入りをしてくれると喜ぶ。
感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。
してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
今日の授業は保健体育
にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり)
僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。
その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。
ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる