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#1 見知らぬ世界でわからぬままに
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少年は涙を流していた。
なんたって、今さっき買ったばかりの同人誌が真っ赤っ赤に濡れているのだから。
年齢制限チキンレースをギリギリまで攻めた、よりすぐりのケモノ同人誌は、もう読めるかわからない。
帰って、ムフフな気持ちで見る予定だったのに。
少年は悔しそうに、そして辛そうに歯を食い縛る。
彼は、この血の海に倒れたくはなかった。
まだ生きたかったから。まだ見ぬスケベ同人の海に溺れたかったのに。
海の向こうの果てまで全てを探し回って、至高の性と愛を探求したかったのに。
まだ、生きたかった。
だが、その場に崩れ落ちた。
本が更に染まっていく。
もう、ページをちゃんとめくれるかわからない。
化け物のような殺人鬼の怒号。
逃げ惑う者の叫び。
掻かれた者の呻き声。
地獄と化した東京のとある通り。
少年にとっては、それは些かも重要でない、どうでもいいものだった。
自身が血の海にいる事よりも、すぐにでも意識の途切れそうな腹部の裂傷の痛みよりも、もうケモノスケベを拝めない未来が、彼にとって一番辛いことなのだ。
まだ、十八歳になっていないのに、あと少しで、解禁だったのに。
辛いこと次点、性癖バレ。
その次は身バレ。
ああ……パソコンに保存している沢山の秘蔵イラストを、遺品として漁られたらどうしよう。
ごめんなさい、僕は年齢を偽ってそういうイラストを漁りました。
神絵師たちを困らせてしまう。
事件被害者の在宅して趣味全開の部屋を老若男女が見るニュースでそれを放映されたらどうしよう。
家族も、世間の人間も気味悪がるのだろうか?
この死を当然の報いだと正当化するのだろうか……?
ケモノ仲間に、この僕、リバスソリダスの本名を知られた時、ダサいとか思われないかな……。
あと、どうか自家製の拙いエロ絵やエロ小説を、ばら撒かないでくれ……。
絶え間なく、おかしな不安が少年の心を蝕むが、命が流れ出る現状は何ら変わらない。
やがて少年のまぶたは、意思に反して落ちてゆく。
劇の終わりに降りてくる幕よりも遅く垂れるまぶた。
彼は必死に持ち上げようとしたが、とうとう全て降りきってしまって、網膜に東京は映されなくなる。
透ける光か、はたまた幻影か。
黒の世界に浮かぶ輪郭のない赤のモヤを眺めるが、とうとうそれさえも感じなくなり、少年の人生はここで幕を下ろした。
……はずだったのだが。
「あれ……!?」
朝の起床のように、僕は普通に目を覚ました。
何故か、東京とは程遠い、原生林のような場所で。
落ち葉と落ち葉の隙間に水が溜まるから湿っていて、しかも腐っているから生臭い土。
胸から太もも、足の甲まで全身でそれに触れているのが心底気持ち悪くて。
急いで立ち上がった。
あ。
傷の事忘れて急に動いちゃったけど、ふらつきや気持ち悪さはない。どうにも、元気そのものだ。
「なんだ? なんで生きている? なぜ病院にいない? なんだこの感覚……まるで、僕が僕じゃないような……」
土の感触から開放されると、すぐに全身に違和感を感じた。
あんなガッツリ開いていた傷の感触がないのもそうだが、それよりも何かがおかしい。
自身の腕を恐る恐る見た。
左腕は至って普通だが……右腕がワイバーンや蝙蝠のような翼になっていた。
黒い、蛇の首のような滑らかできめ細かい鱗に覆われた腕に、振り袖のような皮膜。
肘あたりから勝手に増えていた膜を支える骨は、まるで生まれた時からあったかのように、自分の意志で自由自在に動かせる。
続いて下半身を見る。
同じように黒く、足はもう人ではなく、鋭利な爪が三本生えててがっしりしていて、恐竜やティラノサウルスのようだ。
当然靴は履いていない。
そして、足の間に垂れていた尻尾が視界に映り込んだ。
……自分の尻から生えているらしい、これも自由に動かせる。
尻尾を振り回していると、何も無いはずの左背中と衝突した。
後ろを見てみると、大きな翼が生えていた。
ドラゴンが持つような立派な翼だ。なお、右側には生えていない。
そして、何故か全裸。
でも、一物は見当たらない。
下半身は四肢と同じで黒い鱗に覆われている。……イルカとかワニのように収納されているのだろうか。
人間の手の方でまさぐって見ると、確かにスリットがあって……この腐葉土まみれの手を突っ込むのはやめておこう。
なにがなんだか、なにもかもわからない。
なんで、僕は生きているんだ?
明らかに死んだはずなのに。
生きている。
でも、ここは東京ではない。
恐らく、日本でさえない。
周囲の見慣れぬ木々がそれを説明している。
しかも十何年付き添って見慣れた体が、まるで他の生物とのキメラにされたかのようになっている。
身に何が起きたか、現実に何が起こっているか、何一つわからない。
不可解な連続に、目眩に襲われ、心臓は不安に鼓動を強める。
死後の世界というわけでもないことを示されて、血の気は引けてきた。
思わず顔を左手で覆うと、右側が硬い骨のようなもので覆われている事にも気付いてしまった。
ほんとになんだよこれは。余計に具合が悪くなった。
どうすればいいんだろう。
何が起きたんだろう。
そうだ。
鏡……鏡を探しに行こう。先ずは身体の状況把握だ。翼があるから、飛べるかな……。
ここから去るべく、形も位置もバラバラの不揃い翼を広げてみた。
その瞬間、不思議な感覚が僕の頭を駆け巡る。
まるで、生まれたときから飛ぶことが普通だったかのように、どこをどう動かせば舞い上がれるかを体が知っている。
これは本能? 洗脳? 才能?
全くわからない。でも、絶対的な、当然かのような自信がもりもりと、胸の中から溢れている。
その知らぬ記憶に従い、腕を振り下ろしてみる。
力強い羽ばたき。
足元の枯れ葉は吹き飛び、まだらに生えた無精髭のような草がたなびく。
ふわりと宙へと浮いた。
飛べるんだ。じゃあ、利用しない手は無いよな。
上へ、上へ。
答えを探しに行く為に。
ここがなんの国か、自分の身に何があったか、僕が何者になってしまったかを、一秒でも速く知る為に。
すぐに、高い高い林冠より少し上程度の高度に辿り着く。一面の鬱蒼な緑だ。
飛行機に乗ったことも、高層ビルに登ったこともなかったから、これほどの高さから大地を見下ろすのは初めてだ。
不思議と、恐れは抱かなかった。
むしろ、ドラゴンがいつも見ている光景を体感しているようで、何もわからない不安は和らぎ、代わりに勇気が湧いてきたぐらいだ。
湖か海か、人を探そう。
僕はまっすぐ前を向いて、飛翔した。
バサリ、バサリ。
ドラゴンになったつもりで、力強い羽音を立てながら、代わり映えしない森を、何か情報がないか目を凝らして数分飛び続けていると、まるで緑の丘をまあるく掘ったかのような、拓けた土地が現れた。
森がこんな綺麗に倒木するわけがない。
これは、人工的な伐採だ。
つまりは、この辺りには人間か、人間程度の知能を持った生物が存在しているはずだ。
人間か相応の生物と出会って、この場所の情報を聞ければ、ついでに鏡を貸してもらえれば、全部解決万事オッケーじゃん。
一応、英語と、ほんの少しだけ他の言語も話せるから、コミュニケーションできる確率は、うーん。九割ぐらい?
至高のケモノを求め、海外のケモナーと交流したり、海外同人を読むために勉強したからな。こんなとこで役に立つとはなぁ。
赤い土が剥き出しになった地上へと、足音立てずに降り立った。
頻繁に数多の人間が行き来するのか、地面は雑草一つも生えないぐらいに踏み固められている。
端の方に、木製の小屋……ログハウスが四軒ほど建てられていた。
その壁には……槍、剣、弓……物騒な武器が立てかけられている。
「ここは……駐屯地?」
「ワ、ワ、ワグルナ!」
「わ! な、なんだ?」
背後から、怒号が飛んでくる。
振り返ると、人間がいた。
今通ってきた森に赴いていて、ちょうど帰ってきたのだろうか。
泥で汚れた鎧を着込んだ男が三人。百メートルほど向こうで、槍をこちらに向けて、硬直している。
きっと、無断で入ったから警戒しているのだろう。
自分の無害さを証明するために手を挙げる。
銃もナイフも持っていませんと、くるっと一回転もしてみる。
さあ、意思疎通を開始しよう。
『英語はわかりますか、僕はこの通り危害を加えるつもりはありません。どうかお話をさせてください』
「ラグナ? ボナラグナ!」
「英語通じない……これ何語だ? 少数民族? 先住民? でも製鉄で作ったっぽい鎧着てるし、槍も狩りっていうより戦争に使うものっぽいし……。もしもし? ボンジュール? ニーハオ? ボンジョルノ? グーデンモルゲン?」
「ラグナナクギュース!」
思いは、男らには伝わらなかった。
一人、槍を脇腹あたりに地面と平行になるよう構えると、こっちに向かって走り出す。
僕を殺すつもりなのか?
「はぁ? こんなにも無害感を醸し出してるのに? マジありえねえ……」
先程殺されたばかり。尻込むわけがないわ。
話が通じなくて、しかも殺そうとしてくるなら正当防衛も仕方がないか。
「ギャッ!」
殺意と槍を向けてやってきた男が、叫び声をあげて宙に舞う。
僕の喉笛を劈く予定だったその矛を、黒い右腕で掴んで止め、動きを封じられた胸に、まあまあ強めの蹴りを叩き込んでやったから。
空を飛ぶには、相当の力が必要だ。
自分の体重に逆らえるほどの、凄まじい揚力を作り出さなければならないから。
その力が筋力であれ、未知の力であれ、存在していることには変わりない。
槍と鎧で増強する必要のある人間が、この空を舞える異形となってしまった僕に敵うわけなどない。
空高く突き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられ悶える仲間の姿に、二人は狼狽え怯んだ。
だが、すぐに仇を討たんとばかりに飛び掛かってきた。
なんだろう。
体が凄く軽い。ゲームみたいに華麗なる身のこなしで突きを全て躱せるぞ。
当たらない槍を闇雲に振り回して疲れたのか、相手の動きがかすかに鈍くなった。
そこを見計らって、お返しに尻尾をムチのように振って二人をまとめて薙ぎ倒した。
圧倒的な実力差、堪能したか?
これで、もう僕を殺そうとは思わないだろう。
そうだなあ。
言葉が通じないなら、絵を描いてみてはどうだろうか?
硬い地面に足の爪を立て、鏡を描いてみよう。
長方形と、それの前に佇む人間と、反射する人間を書けば……あらまし伝わるだろう。
幸い、絵は上手い方だ、好みの絡み絵が無いときは、自家栽培自家発電していたから。
線を四本引いて、鏡を描いた。
刹那。
なにかが飛んできて、腹にタックルをかました。
敵意ゼロで、お絵かきしてたのに。卑劣すぎる。
しかし、なにが当たったんだ?
ぶつかったものの姿は、どこにも見えない。
あまりにも不意なことで防ぐどころか受ける覚悟もできず、後方へと吹き飛ばされる。
山なりに浮かされたんだろう。背中から叩きつけられた。
大地に皮を擦られたが、腹を捌かれた痛みと比べたらカスみたいなものだ。
すぐに立ち上がって戦闘態勢を取る。
「クギュース……クギュース!!!」
男三人は、揃ってこっちの方向に槍先を向けて怒号をあげた後、呪詛のように同じ単語をブツブツと呟き始める。
ホタルのような小さな光が四方八方の無から現れ、槍の先に集まって一つの球となった。
さっき、腹にぶち込まれたのもあれなのか?
何だよあれ……!? 魔法!? ここは……地球じゃないのか!?
もっとも、このことは自分の姿が可笑しい時点で気付くべきなのだが……。
男の一人が、遠吠えのような雄叫びをあげると、槍をバズーカに見立て、担ぐ。
槍の先から、ぶっといビームが発射される。
ふらつかせる程の反動から察するに、当たったらひとたまりもない……それどころか、風上開けられお陀仏だろう。
彼らは、僕を本気で殺しに来ている。
「そうかい、そっちがそのつもりなら……僕もそうさせて貰うよ」
驚異の脚力で飛躍し、愚直にはらわた目指して直進していたビームを避けた。
避けられることは予測していたのだろう。
今度は貯めず、光の珠をボンボン連射してきた。
餌を狩るツバメの如く宙を回転し、三人が織り成す弾幕の隙間を縫う。
そして、三人の目を欺くスピードで、男共の合間を通り抜ける。
普通の手を除いた三肢を大地に擦り付け、力強く着地した。
慣性に逆らって、体を起こす。
同時に、あまりの速さにわけもわからず立ち尽くしていた三人の首から、烈火色の噴水があがった。
すれ違う時に、足の鋭利な爪で首を掻っ切ってやったんだ。
ぱっくり開いた気管から息が出ていってしまうので、三人は断末魔をあげる事さえ出来ぬまま、次々と自身で作った血の海へと倒れていった。
やれやれ。
憐憫の情はこれっぽっちも湧かないね。
ああ、腹が立つ。理不尽だ。
一度殺されたばっかだというのに、また相手の気持ちの都合で殺されるなど、到底受け入れるわけがなかろうに。
ため息をついて、三人の肉片が引っ掛かっていた足の爪を大地に擦り付けて、汚れを落とす。
ああ、鉄臭い。あの同人誌が見れなかったことを思い出して、なんかムカムカしてきた。
憎い人間の死体のあるこの場に留まりたい思いなど、当然ない。
血溜まりにそっぽを向いて、空へと舞い上がる。
気を取り直して、情報を集めに行かないとな。
なんたって、今さっき買ったばかりの同人誌が真っ赤っ赤に濡れているのだから。
年齢制限チキンレースをギリギリまで攻めた、よりすぐりのケモノ同人誌は、もう読めるかわからない。
帰って、ムフフな気持ちで見る予定だったのに。
少年は悔しそうに、そして辛そうに歯を食い縛る。
彼は、この血の海に倒れたくはなかった。
まだ生きたかったから。まだ見ぬスケベ同人の海に溺れたかったのに。
海の向こうの果てまで全てを探し回って、至高の性と愛を探求したかったのに。
まだ、生きたかった。
だが、その場に崩れ落ちた。
本が更に染まっていく。
もう、ページをちゃんとめくれるかわからない。
化け物のような殺人鬼の怒号。
逃げ惑う者の叫び。
掻かれた者の呻き声。
地獄と化した東京のとある通り。
少年にとっては、それは些かも重要でない、どうでもいいものだった。
自身が血の海にいる事よりも、すぐにでも意識の途切れそうな腹部の裂傷の痛みよりも、もうケモノスケベを拝めない未来が、彼にとって一番辛いことなのだ。
まだ、十八歳になっていないのに、あと少しで、解禁だったのに。
辛いこと次点、性癖バレ。
その次は身バレ。
ああ……パソコンに保存している沢山の秘蔵イラストを、遺品として漁られたらどうしよう。
ごめんなさい、僕は年齢を偽ってそういうイラストを漁りました。
神絵師たちを困らせてしまう。
事件被害者の在宅して趣味全開の部屋を老若男女が見るニュースでそれを放映されたらどうしよう。
家族も、世間の人間も気味悪がるのだろうか?
この死を当然の報いだと正当化するのだろうか……?
ケモノ仲間に、この僕、リバスソリダスの本名を知られた時、ダサいとか思われないかな……。
あと、どうか自家製の拙いエロ絵やエロ小説を、ばら撒かないでくれ……。
絶え間なく、おかしな不安が少年の心を蝕むが、命が流れ出る現状は何ら変わらない。
やがて少年のまぶたは、意思に反して落ちてゆく。
劇の終わりに降りてくる幕よりも遅く垂れるまぶた。
彼は必死に持ち上げようとしたが、とうとう全て降りきってしまって、網膜に東京は映されなくなる。
透ける光か、はたまた幻影か。
黒の世界に浮かぶ輪郭のない赤のモヤを眺めるが、とうとうそれさえも感じなくなり、少年の人生はここで幕を下ろした。
……はずだったのだが。
「あれ……!?」
朝の起床のように、僕は普通に目を覚ました。
何故か、東京とは程遠い、原生林のような場所で。
落ち葉と落ち葉の隙間に水が溜まるから湿っていて、しかも腐っているから生臭い土。
胸から太もも、足の甲まで全身でそれに触れているのが心底気持ち悪くて。
急いで立ち上がった。
あ。
傷の事忘れて急に動いちゃったけど、ふらつきや気持ち悪さはない。どうにも、元気そのものだ。
「なんだ? なんで生きている? なぜ病院にいない? なんだこの感覚……まるで、僕が僕じゃないような……」
土の感触から開放されると、すぐに全身に違和感を感じた。
あんなガッツリ開いていた傷の感触がないのもそうだが、それよりも何かがおかしい。
自身の腕を恐る恐る見た。
左腕は至って普通だが……右腕がワイバーンや蝙蝠のような翼になっていた。
黒い、蛇の首のような滑らかできめ細かい鱗に覆われた腕に、振り袖のような皮膜。
肘あたりから勝手に増えていた膜を支える骨は、まるで生まれた時からあったかのように、自分の意志で自由自在に動かせる。
続いて下半身を見る。
同じように黒く、足はもう人ではなく、鋭利な爪が三本生えててがっしりしていて、恐竜やティラノサウルスのようだ。
当然靴は履いていない。
そして、足の間に垂れていた尻尾が視界に映り込んだ。
……自分の尻から生えているらしい、これも自由に動かせる。
尻尾を振り回していると、何も無いはずの左背中と衝突した。
後ろを見てみると、大きな翼が生えていた。
ドラゴンが持つような立派な翼だ。なお、右側には生えていない。
そして、何故か全裸。
でも、一物は見当たらない。
下半身は四肢と同じで黒い鱗に覆われている。……イルカとかワニのように収納されているのだろうか。
人間の手の方でまさぐって見ると、確かにスリットがあって……この腐葉土まみれの手を突っ込むのはやめておこう。
なにがなんだか、なにもかもわからない。
なんで、僕は生きているんだ?
明らかに死んだはずなのに。
生きている。
でも、ここは東京ではない。
恐らく、日本でさえない。
周囲の見慣れぬ木々がそれを説明している。
しかも十何年付き添って見慣れた体が、まるで他の生物とのキメラにされたかのようになっている。
身に何が起きたか、現実に何が起こっているか、何一つわからない。
不可解な連続に、目眩に襲われ、心臓は不安に鼓動を強める。
死後の世界というわけでもないことを示されて、血の気は引けてきた。
思わず顔を左手で覆うと、右側が硬い骨のようなもので覆われている事にも気付いてしまった。
ほんとになんだよこれは。余計に具合が悪くなった。
どうすればいいんだろう。
何が起きたんだろう。
そうだ。
鏡……鏡を探しに行こう。先ずは身体の状況把握だ。翼があるから、飛べるかな……。
ここから去るべく、形も位置もバラバラの不揃い翼を広げてみた。
その瞬間、不思議な感覚が僕の頭を駆け巡る。
まるで、生まれたときから飛ぶことが普通だったかのように、どこをどう動かせば舞い上がれるかを体が知っている。
これは本能? 洗脳? 才能?
全くわからない。でも、絶対的な、当然かのような自信がもりもりと、胸の中から溢れている。
その知らぬ記憶に従い、腕を振り下ろしてみる。
力強い羽ばたき。
足元の枯れ葉は吹き飛び、まだらに生えた無精髭のような草がたなびく。
ふわりと宙へと浮いた。
飛べるんだ。じゃあ、利用しない手は無いよな。
上へ、上へ。
答えを探しに行く為に。
ここがなんの国か、自分の身に何があったか、僕が何者になってしまったかを、一秒でも速く知る為に。
すぐに、高い高い林冠より少し上程度の高度に辿り着く。一面の鬱蒼な緑だ。
飛行機に乗ったことも、高層ビルに登ったこともなかったから、これほどの高さから大地を見下ろすのは初めてだ。
不思議と、恐れは抱かなかった。
むしろ、ドラゴンがいつも見ている光景を体感しているようで、何もわからない不安は和らぎ、代わりに勇気が湧いてきたぐらいだ。
湖か海か、人を探そう。
僕はまっすぐ前を向いて、飛翔した。
バサリ、バサリ。
ドラゴンになったつもりで、力強い羽音を立てながら、代わり映えしない森を、何か情報がないか目を凝らして数分飛び続けていると、まるで緑の丘をまあるく掘ったかのような、拓けた土地が現れた。
森がこんな綺麗に倒木するわけがない。
これは、人工的な伐採だ。
つまりは、この辺りには人間か、人間程度の知能を持った生物が存在しているはずだ。
人間か相応の生物と出会って、この場所の情報を聞ければ、ついでに鏡を貸してもらえれば、全部解決万事オッケーじゃん。
一応、英語と、ほんの少しだけ他の言語も話せるから、コミュニケーションできる確率は、うーん。九割ぐらい?
至高のケモノを求め、海外のケモナーと交流したり、海外同人を読むために勉強したからな。こんなとこで役に立つとはなぁ。
赤い土が剥き出しになった地上へと、足音立てずに降り立った。
頻繁に数多の人間が行き来するのか、地面は雑草一つも生えないぐらいに踏み固められている。
端の方に、木製の小屋……ログハウスが四軒ほど建てられていた。
その壁には……槍、剣、弓……物騒な武器が立てかけられている。
「ここは……駐屯地?」
「ワ、ワ、ワグルナ!」
「わ! な、なんだ?」
背後から、怒号が飛んでくる。
振り返ると、人間がいた。
今通ってきた森に赴いていて、ちょうど帰ってきたのだろうか。
泥で汚れた鎧を着込んだ男が三人。百メートルほど向こうで、槍をこちらに向けて、硬直している。
きっと、無断で入ったから警戒しているのだろう。
自分の無害さを証明するために手を挙げる。
銃もナイフも持っていませんと、くるっと一回転もしてみる。
さあ、意思疎通を開始しよう。
『英語はわかりますか、僕はこの通り危害を加えるつもりはありません。どうかお話をさせてください』
「ラグナ? ボナラグナ!」
「英語通じない……これ何語だ? 少数民族? 先住民? でも製鉄で作ったっぽい鎧着てるし、槍も狩りっていうより戦争に使うものっぽいし……。もしもし? ボンジュール? ニーハオ? ボンジョルノ? グーデンモルゲン?」
「ラグナナクギュース!」
思いは、男らには伝わらなかった。
一人、槍を脇腹あたりに地面と平行になるよう構えると、こっちに向かって走り出す。
僕を殺すつもりなのか?
「はぁ? こんなにも無害感を醸し出してるのに? マジありえねえ……」
先程殺されたばかり。尻込むわけがないわ。
話が通じなくて、しかも殺そうとしてくるなら正当防衛も仕方がないか。
「ギャッ!」
殺意と槍を向けてやってきた男が、叫び声をあげて宙に舞う。
僕の喉笛を劈く予定だったその矛を、黒い右腕で掴んで止め、動きを封じられた胸に、まあまあ強めの蹴りを叩き込んでやったから。
空を飛ぶには、相当の力が必要だ。
自分の体重に逆らえるほどの、凄まじい揚力を作り出さなければならないから。
その力が筋力であれ、未知の力であれ、存在していることには変わりない。
槍と鎧で増強する必要のある人間が、この空を舞える異形となってしまった僕に敵うわけなどない。
空高く突き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられ悶える仲間の姿に、二人は狼狽え怯んだ。
だが、すぐに仇を討たんとばかりに飛び掛かってきた。
なんだろう。
体が凄く軽い。ゲームみたいに華麗なる身のこなしで突きを全て躱せるぞ。
当たらない槍を闇雲に振り回して疲れたのか、相手の動きがかすかに鈍くなった。
そこを見計らって、お返しに尻尾をムチのように振って二人をまとめて薙ぎ倒した。
圧倒的な実力差、堪能したか?
これで、もう僕を殺そうとは思わないだろう。
そうだなあ。
言葉が通じないなら、絵を描いてみてはどうだろうか?
硬い地面に足の爪を立て、鏡を描いてみよう。
長方形と、それの前に佇む人間と、反射する人間を書けば……あらまし伝わるだろう。
幸い、絵は上手い方だ、好みの絡み絵が無いときは、自家栽培自家発電していたから。
線を四本引いて、鏡を描いた。
刹那。
なにかが飛んできて、腹にタックルをかました。
敵意ゼロで、お絵かきしてたのに。卑劣すぎる。
しかし、なにが当たったんだ?
ぶつかったものの姿は、どこにも見えない。
あまりにも不意なことで防ぐどころか受ける覚悟もできず、後方へと吹き飛ばされる。
山なりに浮かされたんだろう。背中から叩きつけられた。
大地に皮を擦られたが、腹を捌かれた痛みと比べたらカスみたいなものだ。
すぐに立ち上がって戦闘態勢を取る。
「クギュース……クギュース!!!」
男三人は、揃ってこっちの方向に槍先を向けて怒号をあげた後、呪詛のように同じ単語をブツブツと呟き始める。
ホタルのような小さな光が四方八方の無から現れ、槍の先に集まって一つの球となった。
さっき、腹にぶち込まれたのもあれなのか?
何だよあれ……!? 魔法!? ここは……地球じゃないのか!?
もっとも、このことは自分の姿が可笑しい時点で気付くべきなのだが……。
男の一人が、遠吠えのような雄叫びをあげると、槍をバズーカに見立て、担ぐ。
槍の先から、ぶっといビームが発射される。
ふらつかせる程の反動から察するに、当たったらひとたまりもない……それどころか、風上開けられお陀仏だろう。
彼らは、僕を本気で殺しに来ている。
「そうかい、そっちがそのつもりなら……僕もそうさせて貰うよ」
驚異の脚力で飛躍し、愚直にはらわた目指して直進していたビームを避けた。
避けられることは予測していたのだろう。
今度は貯めず、光の珠をボンボン連射してきた。
餌を狩るツバメの如く宙を回転し、三人が織り成す弾幕の隙間を縫う。
そして、三人の目を欺くスピードで、男共の合間を通り抜ける。
普通の手を除いた三肢を大地に擦り付け、力強く着地した。
慣性に逆らって、体を起こす。
同時に、あまりの速さにわけもわからず立ち尽くしていた三人の首から、烈火色の噴水があがった。
すれ違う時に、足の鋭利な爪で首を掻っ切ってやったんだ。
ぱっくり開いた気管から息が出ていってしまうので、三人は断末魔をあげる事さえ出来ぬまま、次々と自身で作った血の海へと倒れていった。
やれやれ。
憐憫の情はこれっぽっちも湧かないね。
ああ、腹が立つ。理不尽だ。
一度殺されたばっかだというのに、また相手の気持ちの都合で殺されるなど、到底受け入れるわけがなかろうに。
ため息をついて、三人の肉片が引っ掛かっていた足の爪を大地に擦り付けて、汚れを落とす。
ああ、鉄臭い。あの同人誌が見れなかったことを思い出して、なんかムカムカしてきた。
憎い人間の死体のあるこの場に留まりたい思いなど、当然ない。
血溜まりにそっぽを向いて、空へと舞い上がる。
気を取り直して、情報を集めに行かないとな。
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