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3. 魅惑の氷菓 ①
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フロアの照明は消えていて、非常灯だけになっている。でも、窓から入ってくる外からの明かりで意外に明るい。
デスクに頭をのせたまま、窓の外に目をやる。ビルの明かりや車のライトが煌々としている。
あの一つ一つに誰かがいるのだと思うと、今、自分がここに一人でいることの寂しさを愛しく感じる。
わたしもまた、あの明かりの一つだ。
目をつむってみる。真っ暗だ。当たり前だけど。なんだか眠りそう。その前に帰ってくるといいなあ……
静けさの中にスーツケースを引く音がした。頭を起こし目を開けると、廊下から入ってくるあかりに、長身の男性のシルエットが浮かぶ。
「おかえりなさい」
「勅使川原さん?どうしたんですか、こんな時間まで。電気もつけずに。何かありました?」
「何にもないです。そんなにいつも何かあったら困っちゃうよ」
私は立ち上がりながら榛瑠に言った。
あの後、課長が言った通り3日後に船が入船し、通関、無事に出荷に至った。期日より遅れた分は、鬼塚係長の営業努力と探し回った国内商品で乗り切ったらしい。
探す段においては美園さんが神業的な手腕を発揮したらしく、いま彼女は、資料室の妖怪と呼ばれるに至っている。
榛瑠はその仕事が終わったあと、ついでだからと中国の得意先を回って、今、こうして帰国したわけだった。
私はというと、いつものルーティンワークをこなしながら、横目でそういった様子を眺めていた。
そう、眺めていただけ。
私は自分のデスクに行き明かりをつけようとしている課長に近づくと、頭を下げた。
「すみませんでした。今回のことでは、課長にもご迷惑をおかけしました。」
「何?それを言うために残っていたんですか?」
私は答えずに黙った。なぜ?と言われると困る。でもきちんと言っておきたかった。
「別に、あなたが謝ることではありません。ただのトラブルです。誰かのせいじゃない」
「でも、課長が結局、全部背負ってしまって…」
実はこの件が営業で問題になって、というよりもともと彼を面白く思っていない連中が問題にして、少し面倒なことになっているらしい。
「心配するようなことはないですから」
「でも……」
「勅使川原さん、あなたはそんなに私を無能な上司にするつもりですか?」
え?どういう意味?榛瑠を見上げる。
「上司が責任を負うのは当たり前です。そのためにいるんですから。それができずに部下を不安にさせるのは無能だからです。私はそんなにダメですか?」
私は思いっきりかぶりを振った。
「そんなことない!みんなあの時、榛瑠……課長が帰ってきてホッとしてたよ。」
「あなたは?」
「え?」
「お嬢様は?」
デスクライトに照らされた彼の表情はいつも通りだ。
何をどう言えばいいのだろう。えっと、その。
「もう大丈夫だと思った」
私はボソボソと言った。死ぬほど恥ずかしい。なにそれって自分に言いたい。
榛瑠の手が伸びてきて私の顔を包んだ。そして、私のおでこに自分の額をコツンとあてた。
な、なにやってんの、この人!う、動けないし!
自分の心臓がドキドキいってる。でも、大きな手が暖かくて安心する。こんなのでホッとするなんて、なんて子供なのだろう。
でも、いつだって榛瑠がいれば大丈夫だったんだもの。……そう、いれば。
「車で送りますよ」
榛瑠はふっと離れると言った。
「え、いいの?」
「こんな時間に一人で返せないでしょう。一本だけ電話入れますから、先に地下駐車場まで向かっていてください」
「あ、ありがとう」
地下で待っていると、榛瑠が来て車の助手席のドアを開けてくれた。
そういえば、榛瑠の運転する車は初めてだ。彼も後部座席に荷物を入れて運転席に乗り込む。
エンジンをかけながら、左手でネクタイをゆるめると、カッターシャツのボタンを一つはずした。元は左利きだったな、って思い出す。
車はスムーズに夜の街を走り出す。乗り心地がいいなあ。普段はプロである家付きの運転手に運転してもらっているせいか、たまに他の人の車に乗るとヒヤヒヤするんだけど、それが全くない。
車内にジャズが低く流れている。
「ジャズなんて聞いたっけ」
「なんでも聞きますよ。うるさいなら消します」
「あ、このままでいいよ」
私は消そうとする彼を慌てて遮ぎる。
そのまま榛瑠は黙って運転していた。
なんだか、どこ見ていいかわからなくて、落ち着かない。とにかく前を見ていよう。
そう思って頑張って前を見ていたんだけど、それもなんか限界。
横をちらっとみる。すれ違う車のヘッドライトが順番に榛瑠の顔を照らしていく。
いつもと同じ淡々とした表情。いや、それでも、緩んだネクタイのせいか、少しだけ疲れて見える。
でも変わらない、綺麗な横顔だった。
ほのかに榛瑠の甘い匂いがする。
私は座席に頭を預けて目をつぶった。車の振動が伝わってくる。暗闇の中をジャズが流れる。
なんだろう、この、最高に居心地の悪い、居心地の良さは。
「疲れましたか?もうすぐつきますから」
切なく震えるようなトランペットの音の向こうから、榛瑠のつぶやくような低い声が聞こえた。
「うん」
私は目をつぶったまま言った。
うん……。でも、本当はもう少しこうしていたい。
もう少し、このままでいたい……。
……え、あれ、ちょっと待って。
慌てて顔を起こして車外を見る。って、ちょっと。
「ここどこよ!どこに連れて行く気?」
私の家は会社からこんなに近くないわよ!
「こんな時間に遠い屋敷まで送るなんて効率の悪いことをするのは嫌ですから。私のマンションまで行きます。屋敷の方には連絡をしておいたので、安心して下さい」
安心って、安心って……。だって、夜に二人きり、な訳でしょ?
「明日の朝にはちゃんと送って行きますから大丈夫ですよ」
榛瑠は平然と言った。
だ、大丈夫って!……少なくとも今、私の心臓は大丈夫じゃないわよ!どうしてくれるのよ!
デスクに頭をのせたまま、窓の外に目をやる。ビルの明かりや車のライトが煌々としている。
あの一つ一つに誰かがいるのだと思うと、今、自分がここに一人でいることの寂しさを愛しく感じる。
わたしもまた、あの明かりの一つだ。
目をつむってみる。真っ暗だ。当たり前だけど。なんだか眠りそう。その前に帰ってくるといいなあ……
静けさの中にスーツケースを引く音がした。頭を起こし目を開けると、廊下から入ってくるあかりに、長身の男性のシルエットが浮かぶ。
「おかえりなさい」
「勅使川原さん?どうしたんですか、こんな時間まで。電気もつけずに。何かありました?」
「何にもないです。そんなにいつも何かあったら困っちゃうよ」
私は立ち上がりながら榛瑠に言った。
あの後、課長が言った通り3日後に船が入船し、通関、無事に出荷に至った。期日より遅れた分は、鬼塚係長の営業努力と探し回った国内商品で乗り切ったらしい。
探す段においては美園さんが神業的な手腕を発揮したらしく、いま彼女は、資料室の妖怪と呼ばれるに至っている。
榛瑠はその仕事が終わったあと、ついでだからと中国の得意先を回って、今、こうして帰国したわけだった。
私はというと、いつものルーティンワークをこなしながら、横目でそういった様子を眺めていた。
そう、眺めていただけ。
私は自分のデスクに行き明かりをつけようとしている課長に近づくと、頭を下げた。
「すみませんでした。今回のことでは、課長にもご迷惑をおかけしました。」
「何?それを言うために残っていたんですか?」
私は答えずに黙った。なぜ?と言われると困る。でもきちんと言っておきたかった。
「別に、あなたが謝ることではありません。ただのトラブルです。誰かのせいじゃない」
「でも、課長が結局、全部背負ってしまって…」
実はこの件が営業で問題になって、というよりもともと彼を面白く思っていない連中が問題にして、少し面倒なことになっているらしい。
「心配するようなことはないですから」
「でも……」
「勅使川原さん、あなたはそんなに私を無能な上司にするつもりですか?」
え?どういう意味?榛瑠を見上げる。
「上司が責任を負うのは当たり前です。そのためにいるんですから。それができずに部下を不安にさせるのは無能だからです。私はそんなにダメですか?」
私は思いっきりかぶりを振った。
「そんなことない!みんなあの時、榛瑠……課長が帰ってきてホッとしてたよ。」
「あなたは?」
「え?」
「お嬢様は?」
デスクライトに照らされた彼の表情はいつも通りだ。
何をどう言えばいいのだろう。えっと、その。
「もう大丈夫だと思った」
私はボソボソと言った。死ぬほど恥ずかしい。なにそれって自分に言いたい。
榛瑠の手が伸びてきて私の顔を包んだ。そして、私のおでこに自分の額をコツンとあてた。
な、なにやってんの、この人!う、動けないし!
自分の心臓がドキドキいってる。でも、大きな手が暖かくて安心する。こんなのでホッとするなんて、なんて子供なのだろう。
でも、いつだって榛瑠がいれば大丈夫だったんだもの。……そう、いれば。
「車で送りますよ」
榛瑠はふっと離れると言った。
「え、いいの?」
「こんな時間に一人で返せないでしょう。一本だけ電話入れますから、先に地下駐車場まで向かっていてください」
「あ、ありがとう」
地下で待っていると、榛瑠が来て車の助手席のドアを開けてくれた。
そういえば、榛瑠の運転する車は初めてだ。彼も後部座席に荷物を入れて運転席に乗り込む。
エンジンをかけながら、左手でネクタイをゆるめると、カッターシャツのボタンを一つはずした。元は左利きだったな、って思い出す。
車はスムーズに夜の街を走り出す。乗り心地がいいなあ。普段はプロである家付きの運転手に運転してもらっているせいか、たまに他の人の車に乗るとヒヤヒヤするんだけど、それが全くない。
車内にジャズが低く流れている。
「ジャズなんて聞いたっけ」
「なんでも聞きますよ。うるさいなら消します」
「あ、このままでいいよ」
私は消そうとする彼を慌てて遮ぎる。
そのまま榛瑠は黙って運転していた。
なんだか、どこ見ていいかわからなくて、落ち着かない。とにかく前を見ていよう。
そう思って頑張って前を見ていたんだけど、それもなんか限界。
横をちらっとみる。すれ違う車のヘッドライトが順番に榛瑠の顔を照らしていく。
いつもと同じ淡々とした表情。いや、それでも、緩んだネクタイのせいか、少しだけ疲れて見える。
でも変わらない、綺麗な横顔だった。
ほのかに榛瑠の甘い匂いがする。
私は座席に頭を預けて目をつぶった。車の振動が伝わってくる。暗闇の中をジャズが流れる。
なんだろう、この、最高に居心地の悪い、居心地の良さは。
「疲れましたか?もうすぐつきますから」
切なく震えるようなトランペットの音の向こうから、榛瑠のつぶやくような低い声が聞こえた。
「うん」
私は目をつぶったまま言った。
うん……。でも、本当はもう少しこうしていたい。
もう少し、このままでいたい……。
……え、あれ、ちょっと待って。
慌てて顔を起こして車外を見る。って、ちょっと。
「ここどこよ!どこに連れて行く気?」
私の家は会社からこんなに近くないわよ!
「こんな時間に遠い屋敷まで送るなんて効率の悪いことをするのは嫌ですから。私のマンションまで行きます。屋敷の方には連絡をしておいたので、安心して下さい」
安心って、安心って……。だって、夜に二人きり、な訳でしょ?
「明日の朝にはちゃんと送って行きますから大丈夫ですよ」
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