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涙雨3.
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一時間以上過ぎただろうか。一花はマンションのダイニングで温かいココアを飲んでいた。
こうなるまで何をしていたかと言うと、ちょっとした言い争いの末、お風呂で温まって、服を乾かしていたのだ。
「え、いいよ。拭いたし大丈夫」
一花は貸してもらったタオルを返しながら言った。
「体冷えてるでしょう? 風邪ひきますよ」
「いいよ……」
この家で今更お風呂借りるのって、すごく何というか……
「入って? なんなら服を脱がせて差し上げたほうがいいですか?」
榛瑠はにっこり微笑みながら言った。
「入るから! 自分でするから!」
……まったく。ああいう聞き耳もたないところって、なんでそのままなんだろう。
そう思いながら、出してもらったココアを飲む。体はすっかり温まっていたが、それでも、ココアは美味しくて温かくてほっとする。
「ところで、いったい何の用でしたか?」
私服姿の榛瑠がコーヒーを手に、キッチンのカウンターにもたれながら立ったまま聞く。
一花はカップを見つめたまま言った。
「なんでもない。忘れちゃった。……ごめんなさい」
「別に謝まらなくてもいいです、貴女が良いならそれで。次は呼んでくれればいいですよ? わざわざ濡れることはない」
「うん……。まあ、元々濡れてたし……ごめんなさい」
「謝るのはいいかげん無しで。元々って、いったいどこから濡れて来たんですか」
「うん……」
一花はココアの入ったカップを両手で包みながら下を向く。なんだか、温まって落ち着くと、自分のしたことがわからないというか、落ち込むしかないというか。
もう、我ながらわけわからなくて恥ずかしい。めちゃくちゃ迷惑かけてるし。
あー、と言いながら、一花はテーブルに突っ伏した。
「別に怒ってるわけじゃ無いですからね?」
「うん、わかってるけど。でも、あなたには手間をかけるし、須賀くんにも悪いことしちゃったし……」
「須賀?」
「うん、ご飯食べてたの。最後、わけわかんなかったろうなあ、悪いことしたなあ」
一花は半分、独り言のようにつぶやいた。
「へえ。まあ、いいですけど」
そう言いながら榛瑠は一花の隣に座った。
「……ずっと思っているんですが、あなたと僕って以前もこんな感じだったんですか?」
「え?」
一花は顔をあげて榛瑠を見た。
「なんていうか今の僕の感覚だと、恋人同士ってもっと非日常的なものというか甘いものという感じがあるのですが、今の会話もですが違いませんか? 思ったことをそのまま口にしてるというか。長い付き合いだったからとは思いますが。それとも以前は違った?」
一花は言われた言葉をちょっと考えて、それから赤くなった。
「ずっとこんな風です。そうだよね、オープン過ぎだよね、私。ごめんなさい。小さい頃から知ってるから、つい。でも、そうだよねえ、あなたはきっと、私以外の女性と付き合った時はこんなんじゃなかったろうし、違和感あるよね」
「謝まらないで。気にしているわけではなくて、聞いただけ。仲はよかったんだろうなとは思います」
「家族みたいなものだったから……」
一花は両手で顔を覆った。だめだ、なんだかもう、どうしよう、恥ずかしい。今の彼からすると、すっごく馴れ馴れしく感じるよね?
「あー、もう、本当にごめんなさい。以前と違うってわかってるのに……。これからもっと気をつけます」
「だから、謝るなって言ってるよね?」
榛瑠の形のいい眉尻が僅かに上がった。と、その顔が近づいてきた。
「キスしてみていい?」
「え?」
と思ったら唇に柔らかい温かさを感じた。
え?
優しいキスだった。でも、すぐに離れはしなかった。そっと、感触を探るようなそんな……。
一花は驚きながらも自分の心臓が高鳴るのを感じた。今までだって感じたことがないくらいに。
好きな人とのキスだから。ドキドキする。
榛瑠が離れた。一花はゆっくり目を開けた。彼の手がそっと、頰に置かれる。
「ぼうっとしてるね。最後にキスしたのはいつ?」
榛瑠がクスっと笑いながら言う。一花は急に恥ずかしくなって慌てて言った。
「え、あ、いや、え、そんな、久しぶりってわけじゃないし!」
って、ちょっと、私、何言ってるのよ!
「……へえ、そうなんだ。僕は当然ながら覚えがないです。じゃあ、まあ、遠慮することもないよね」
そう言ったと思ったら、一花は再びキスされた。
今度はずっと強引だった。一花の戸惑いは無視された。離れようとするも添えられた手が却下する。
なに?なんで?
一花は自由になった時、自然と自分の唇に手を置きながらその問いを口にした。
「な、なんで?」
「別に。ただ、あなたとのキスがどんなふうか知りたかったので」
榛瑠は悪びれずに言った。一花は榛瑠を思わず見つめてしまった。
ちょっと待って。私を振ったのあなたでしょ? 一体なに? からかっているとしか思えないんだけど、どういうこと⁉︎
……なんか、腹たってきた。
一花は勢いよく椅子から立ち上がった。
「帰る!」
「懸命ですね。送りますよ、駅まで。その後は迎えにでも来てもらってください」
立ち上がりながら榛瑠は事務的に言った。
言われなくたって! と一花は思ったが、言い合いをする気にもならないので口にはしなかった。
本当に、どうせ忘れるなら、こういう俺様な性格も忘れちゃえばよかったのにー!!
♢ ♢ ♢ ♢
明け方の太陽の日射しが、鬱陶しく目をさした。
榛瑠は腕立て伏せの姿勢から立ち上がると、ミネラルウォーターをボトルから飲む。そして珍しく着ている服をその場に脱ぎ散らしたまま、浴室へ向かった。
事故で入院した時から落ちていた腕の筋肉がだいぶ戻ってきている。腹筋も割れてきたし、体脂肪率もほぼ元どおりだろう。
そんなことを考えながら、熱めのシャワーを浴びる。
ふと、昨日の雨を思い出した。
雨に濡れながら、目の前で一花が泣いていた。
なんで泣いているんだ?
榛瑠には分からなかった。
今までも何度か彼女が泣くところを見たけれど、その時とは様子が違っていた。
体を縮こませて声を殺して泣いている。
ああこれは、一人で泣いてきた人の泣き方だ。
榛瑠は彼女の肩をそっと抱いた。
「大丈夫ですよ、もう大丈夫。だから、泣かないで」
彼女は泣き止まない。体を小さく震わせながら、「ごめんなさい」と言って泣き続けている。
泣き止んでくれ。泣き止んで欲しいのに。
僕の言葉では届かないのかもしれない。この人には、もう。
抱きしめている腕に力が入る。雨が降り続いていた。
……あの時感じた苛立ちはなんだったんだろう。
ある種の残忍さを彼女に向けないように、かなり意識的に自分をコントロールする必要が生じたほどだ。結果的に、それが成功したかどうかも甚だ怪しい。
何かの衝動を内に抱えたまま、榛瑠は浴室から出て体を拭くと、そのままリビングへ向かった。
キッチンで水を一杯飲むと、近くに無造作に置いてあった小さな箱に目をやる。アクセサリーを入れるためのものだ。
それを手に取ろうとしてすぐに止める。
そのまま目を窓の外に向けた。
陽はすっかり上り、冬の晴れた朝がはじまっていた。
こうなるまで何をしていたかと言うと、ちょっとした言い争いの末、お風呂で温まって、服を乾かしていたのだ。
「え、いいよ。拭いたし大丈夫」
一花は貸してもらったタオルを返しながら言った。
「体冷えてるでしょう? 風邪ひきますよ」
「いいよ……」
この家で今更お風呂借りるのって、すごく何というか……
「入って? なんなら服を脱がせて差し上げたほうがいいですか?」
榛瑠はにっこり微笑みながら言った。
「入るから! 自分でするから!」
……まったく。ああいう聞き耳もたないところって、なんでそのままなんだろう。
そう思いながら、出してもらったココアを飲む。体はすっかり温まっていたが、それでも、ココアは美味しくて温かくてほっとする。
「ところで、いったい何の用でしたか?」
私服姿の榛瑠がコーヒーを手に、キッチンのカウンターにもたれながら立ったまま聞く。
一花はカップを見つめたまま言った。
「なんでもない。忘れちゃった。……ごめんなさい」
「別に謝まらなくてもいいです、貴女が良いならそれで。次は呼んでくれればいいですよ? わざわざ濡れることはない」
「うん……。まあ、元々濡れてたし……ごめんなさい」
「謝るのはいいかげん無しで。元々って、いったいどこから濡れて来たんですか」
「うん……」
一花はココアの入ったカップを両手で包みながら下を向く。なんだか、温まって落ち着くと、自分のしたことがわからないというか、落ち込むしかないというか。
もう、我ながらわけわからなくて恥ずかしい。めちゃくちゃ迷惑かけてるし。
あー、と言いながら、一花はテーブルに突っ伏した。
「別に怒ってるわけじゃ無いですからね?」
「うん、わかってるけど。でも、あなたには手間をかけるし、須賀くんにも悪いことしちゃったし……」
「須賀?」
「うん、ご飯食べてたの。最後、わけわかんなかったろうなあ、悪いことしたなあ」
一花は半分、独り言のようにつぶやいた。
「へえ。まあ、いいですけど」
そう言いながら榛瑠は一花の隣に座った。
「……ずっと思っているんですが、あなたと僕って以前もこんな感じだったんですか?」
「え?」
一花は顔をあげて榛瑠を見た。
「なんていうか今の僕の感覚だと、恋人同士ってもっと非日常的なものというか甘いものという感じがあるのですが、今の会話もですが違いませんか? 思ったことをそのまま口にしてるというか。長い付き合いだったからとは思いますが。それとも以前は違った?」
一花は言われた言葉をちょっと考えて、それから赤くなった。
「ずっとこんな風です。そうだよね、オープン過ぎだよね、私。ごめんなさい。小さい頃から知ってるから、つい。でも、そうだよねえ、あなたはきっと、私以外の女性と付き合った時はこんなんじゃなかったろうし、違和感あるよね」
「謝まらないで。気にしているわけではなくて、聞いただけ。仲はよかったんだろうなとは思います」
「家族みたいなものだったから……」
一花は両手で顔を覆った。だめだ、なんだかもう、どうしよう、恥ずかしい。今の彼からすると、すっごく馴れ馴れしく感じるよね?
「あー、もう、本当にごめんなさい。以前と違うってわかってるのに……。これからもっと気をつけます」
「だから、謝るなって言ってるよね?」
榛瑠の形のいい眉尻が僅かに上がった。と、その顔が近づいてきた。
「キスしてみていい?」
「え?」
と思ったら唇に柔らかい温かさを感じた。
え?
優しいキスだった。でも、すぐに離れはしなかった。そっと、感触を探るようなそんな……。
一花は驚きながらも自分の心臓が高鳴るのを感じた。今までだって感じたことがないくらいに。
好きな人とのキスだから。ドキドキする。
榛瑠が離れた。一花はゆっくり目を開けた。彼の手がそっと、頰に置かれる。
「ぼうっとしてるね。最後にキスしたのはいつ?」
榛瑠がクスっと笑いながら言う。一花は急に恥ずかしくなって慌てて言った。
「え、あ、いや、え、そんな、久しぶりってわけじゃないし!」
って、ちょっと、私、何言ってるのよ!
「……へえ、そうなんだ。僕は当然ながら覚えがないです。じゃあ、まあ、遠慮することもないよね」
そう言ったと思ったら、一花は再びキスされた。
今度はずっと強引だった。一花の戸惑いは無視された。離れようとするも添えられた手が却下する。
なに?なんで?
一花は自由になった時、自然と自分の唇に手を置きながらその問いを口にした。
「な、なんで?」
「別に。ただ、あなたとのキスがどんなふうか知りたかったので」
榛瑠は悪びれずに言った。一花は榛瑠を思わず見つめてしまった。
ちょっと待って。私を振ったのあなたでしょ? 一体なに? からかっているとしか思えないんだけど、どういうこと⁉︎
……なんか、腹たってきた。
一花は勢いよく椅子から立ち上がった。
「帰る!」
「懸命ですね。送りますよ、駅まで。その後は迎えにでも来てもらってください」
立ち上がりながら榛瑠は事務的に言った。
言われなくたって! と一花は思ったが、言い合いをする気にもならないので口にはしなかった。
本当に、どうせ忘れるなら、こういう俺様な性格も忘れちゃえばよかったのにー!!
♢ ♢ ♢ ♢
明け方の太陽の日射しが、鬱陶しく目をさした。
榛瑠は腕立て伏せの姿勢から立ち上がると、ミネラルウォーターをボトルから飲む。そして珍しく着ている服をその場に脱ぎ散らしたまま、浴室へ向かった。
事故で入院した時から落ちていた腕の筋肉がだいぶ戻ってきている。腹筋も割れてきたし、体脂肪率もほぼ元どおりだろう。
そんなことを考えながら、熱めのシャワーを浴びる。
ふと、昨日の雨を思い出した。
雨に濡れながら、目の前で一花が泣いていた。
なんで泣いているんだ?
榛瑠には分からなかった。
今までも何度か彼女が泣くところを見たけれど、その時とは様子が違っていた。
体を縮こませて声を殺して泣いている。
ああこれは、一人で泣いてきた人の泣き方だ。
榛瑠は彼女の肩をそっと抱いた。
「大丈夫ですよ、もう大丈夫。だから、泣かないで」
彼女は泣き止まない。体を小さく震わせながら、「ごめんなさい」と言って泣き続けている。
泣き止んでくれ。泣き止んで欲しいのに。
僕の言葉では届かないのかもしれない。この人には、もう。
抱きしめている腕に力が入る。雨が降り続いていた。
……あの時感じた苛立ちはなんだったんだろう。
ある種の残忍さを彼女に向けないように、かなり意識的に自分をコントロールする必要が生じたほどだ。結果的に、それが成功したかどうかも甚だ怪しい。
何かの衝動を内に抱えたまま、榛瑠は浴室から出て体を拭くと、そのままリビングへ向かった。
キッチンで水を一杯飲むと、近くに無造作に置いてあった小さな箱に目をやる。アクセサリーを入れるためのものだ。
それを手に取ろうとしてすぐに止める。
そのまま目を窓の外に向けた。
陽はすっかり上り、冬の晴れた朝がはじまっていた。
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