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冬空2.
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榛瑠はいれたてのブッラクコーヒーを片手に、窓辺に立った。自室の高層階の窓から明けたばかりの空を望む。今日はいい天気になりそうだった。
眼下には街が広がっている。この景色を日常的に手に入れられるのは限られた人間だろう。
だが、何の感動もない。美しくないな、と思う。
空の青がはっきりしてくる。
苦いコーヒーを口にする。
「つまらないな……」
榛瑠は呟いた。
◇
寒さの中、いつもの通り残業を少々して榛瑠は帰宅した。夜はすっかり寒く、その分夜空は澄む季節だったが、この街では相変わらず空は濁っている。
マンションのエントランスを抜けて自分の部屋の前までいくと、そこに人影があった。
一花だ。
なんの用だろう、とは思ったが嫌な気分にはならなかった。
「こんばんは。どうかされましたか?」
なるべく穏やかに聞く。
「ごめんなさい。家まで来て。渡したいものがあって」
そう言って彼女はカバンの中を探す。気のせいか頬が白っぽい。いったい、いつからいたのだろう。終業後すぐからだとしたら結構時間が経っている。外ほどではないがここも充分冷えている。
「とりあえず、中に入りませんか?」
一花は首を振った。まあ、そうだろうが……。
「すぐなの。会社では渡しづらくて……。」
榛瑠の手に渡されたものは鍵だった。ここのマンションのものだ。
「借りっぱなしだったから」
「……わざわざありがとうございます」
榛瑠も一花の手元に鍵があることはわかっていたが、放っておいたのだった。
「あと、これ……」
それは小さな箱、指輪を入れる箱だった。
ああ、そうなのか、と榛瑠は思った。
記憶にはないが、婚約指輪を贈っていてもおかしくはない。だとしたら返しに来させてしまったのは、さすがに胸が痛んだ。
返す理由を作ったのは、彼女ではないのだから。
榛瑠は黙ってその箱を開けた。中にはダイヤのついた婚約指輪、などではなく、翡翠らしい石のついた繊細で古くて美しい指輪だった。
「あなたにもらったの。でも、元々あなたのお母様の形見の品だったの。だからちゃんと返さないとって思って」
「そうですか。ありがとうございます」
もちろん、なにも思い出せなかった。でも多分、大切にしていたのだろう。だからこそ彼女に渡し、そしてこうして返ってきたのだろう。
「あの、思い出せないかもしれないけど、大事にしてね? 多分、たった一つの形見だと思うの」
一花が心配そうに言う。
「わかりました。ありがとうございます。大事にします」
「本当よ?」
「本当に」
そう答えると、一花は微笑んだ。ほっとしたような笑顔だった。
笑うんだな、この人はここで、と榛瑠は思う。泣いてもおかしくないのに。
じゃあ、それだけだから、と、一花はもうすることないとばかりに帰りにかかる。
「車で送りますよ、寒いですし」
「ううん、電車で帰るよ。途中から迎えに来てもらうよう頼んであるし」
自分を振った男と二人きりは嫌だろうしな、とは思うが、夜道を一人で行かせるわけにはいかない。
「では駅まで送ります。断るのは無しでお願いします」
一花はふふっと笑って、お願いします、と言った。
駅までのそう遠くない道のりを、二人並んで歩く。一花は斜め前方に視線を落としながら黙って歩いている。少し微笑んでいるような、彼女のいつもの表情だった。
「お屋敷の方は変わりないですか?」
榛瑠が聞いてみる。
「変わらないよ。普通」
そうですか、と言いながら榛瑠は考える。あの屋敷内での自分は、どんな立場だったのだろうか。
「嶋さんから連絡をいただいたのですが、昔の私の私物が残っているそうなんです。そのうち取りに伺うと思います」
「そうなんだ。知らなかった。いつでもどうぞ」
一花はあまり興味なさそうに答えた。思ったよりも後に引きづらないタイプなのかもしれない。
それなら、そのほうがいいと思った。そこに寂しさなどは感じない。
彼女に告げた、区切りをつけたいという判断を後悔はしていない。
自分は思い出せないし、現在、彼女を愛してはいない。この先はわからないが、いつかを待ってこのまま曖昧なのは良い選択とは思えなかった。
彼女のためでもあったが、それ以前に自分が耐えられそうにない。
本当のところ、誰にもわからないところで、榛瑠はイライラしていた。わからないということはひどく不快だった。
何より、停滞感がイライラさせる。
会社での仕事はそれなりに面白みがあったが、自宅での自分の仕事の方がもっと面白い。なぜ、日本に来る選択を過去の自分がしたのか当初は全くわからなかった。
やがて一花のためだと思い当たった。というより、それ以外思いつかない。
でも、今の自分がしたいこととは違う。その停滞感がイライラさせる。一言で言えば、退屈でしようがなかった。
退屈で、鈍くて、霧の中にいるような。うんざりする。
彼女との関係に一度距離を取ることにおいては、二つ心配があった。
一つは自分が思い出した場合。その時は吹子ではないが、自分に殴られるかもしれない。
もう一つ。もっと真剣に考えたのは、一花がいつまでも引きずってしまう可能性だ。
彼女に落ち度はない。今の自分の在り方でいいと一花が言うのなら、以前のように愛せなくてもいいのならば、そばにいるのもありかなと思った。
だが、思った通り一花は拒んだ。
それなら、お互い違う道を歩んだ方がいいだろう?
一花の存在を支えきれない自分を情け無くも思うが、どうともしようがない。彼女の望みは過去の自分なのだから。
後は、一花が違う幸せをなるべく早く見つけることを祈るだけだった。
本当に。そうであって欲しい。
一花がちらっと榛瑠を見た。何か言いたそうにして、やはり黙ってしまった。
代わりに榛瑠が話しかける。
「そう言えば、吹子さんからお怒りの電話を頂きました」
「うわ、ごめんなさい。話しちゃったの、私」
「別にいいです。当然です」
「だいぶ怒られちゃった?」
「まあ、いろいろ言われましたけどね。絶交よ! とか」
「やだ、吹子様とあなたが仲違いすることないのに。なんて答えたの?」
「吹子さんと交流があったこと自体を覚えていないので、絶交と言われても困りますって」
榛瑠は小さく思い出し笑いをする。
一花がため息をついた。
「そんなこと言って……。もう、謝っとかなくっちゃ」
実際は吹子も本気で怒ってはいなかった。彼女は友人とはいえ、他人の恋のトラブルと自分の感情を一緒くたにする人ではなかった。
ただ、真面目な声で言った。
「正直、一花ちゃんにとってあなたは、傷つきをもたらす存在なのではないか、と思うわ。あの子は全くあなたを悪者にしないけど」
「あの人は……なんででしょうね」
「わからない。でも今回も以前もなんでだか、あなたを責めないのよねえ」
「以前って、僕がアメリカに行った件ですか?」
「それもあったわね。でもそれだけじゃなくて……。この件、誰も伝えてない筈だから以前のあなたも知らなかったと思うけど」
「はい」
心持ち吹子の声が暗くなる。
「一花ちゃんね、高等部でイジメにあってた時期があったの。あなたが原因で」
「高校? 僕はもう日本にいない頃ですよね?」
「だからこそよ。最強の騎士を失った優しいお姫様なんて、格好の餌食でしょ」
「ああ、……そうですね」
「要するに嫉妬ね。もちろん直接の責任はあなたには無いのだけれど。学年も悪かったのよねえ、あの代は」
知らないし、よくわからない話だった。ただ以前見た、金をかけた学園の外観だけが頭に浮かぶ。
以前の自分も知らない話を、今になって聞くというのも奇妙な気がした。でも嫌ではなかった。むしろ嬉しくさえある。もちろん、内容ではなく。
「だけど、おかげで知ったの。あの子見かけよりずっとタフよ。そのことにあなたが救われているのがむしろ悔しいわね。でも、これ以上泣かせたら流石に許さないからね」
これ以上泣かすって何をすればいいのかと、榛瑠は一瞬本気で考えてしまった。
榛瑠は今、横を歩いている人を見下ろす。
「あの、聞いていいですか」
「何?」
一花が視線を向ける。
「なぜ僕が日本を出て行って、そして帰ってきたか話してましたか?」
一花の視線が前を向く。
「いろいろ言ってた。でも正直よくわからなかった。何かあったわけではなくて、あなたの気持ちの問題だったから。……それこそどっかに書いてないの?」
榛瑠はなにもない事を伝える。
どうやら以前の自分には何かしらの屈託があったらしい。やっていることの整合性が悪い。
どうにもこの男は意外と脆弱で面倒なヤツだなと、自分を他人のように評価する。
「あ、でもずっと帰ってこなかったっていうのは違った。私の勘違い。一度帰ってきてるの」
そう言う一花の声がわずかに緊張しているように感じた。何かしらその言葉に思うところがあるのだろうが、榛瑠にはもちろんわからなかった。
ほどなく最寄り駅に着く。一花は榛瑠に向き合った。
「じゃあ、行くね。送ってくれてありがとう」
「こちらこそ、届けてくれてありがとうございました」
うん、と言う一花の目が潤んだ。
「あのね、しつこく言うようだけど、本当に大事にしてね。あなた、本当にご両親のこと大切に思っていたの」
その大きな目に涙が溜まっていく。
「詳しくは話してくれなかったけど、それでもとても尊敬していて大好きだったの、わかったから。ほんとうに、優しい顔で話していたのよ」
一花が泣き出しながら話すので、榛瑠は内心で驚いた。ここで、泣くのか。
「もう、亡くなっているから、あなたが忘れちゃったら……誰も……」
ぼたぼた大粒の涙を流す一花に榛瑠はハンカチを差し出した。彼女は被りを振って、代わりに自分のカバンからハンカチを取り出して目を覆った。
「……せめてご両親のことだけでも、思い出せればいいのに……」
一花のつぶやきを榛瑠は聞き逃さなかった。
「あなたの事じゃなくて?」
一花は目元を押さえながら微笑んだ。
「それは、思い出して欲しいけど。でも……」
「……ありがとう。あなたの言ってくれたこと心にとめます。それより、大丈夫? 一人で帰れます?」
一花は赤い瞳を榛瑠に向けて、晴れ晴れと笑った。
「子供じゃないから。あなたに子供扱いされるの、最後まで直せなかったわね」
榛瑠は、駅に消えていく一花の後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、来た道を戻る。
なんだろうな、イライラする。罪悪感か? それとも……。
もっと違う何か。黒い塊が覆うような。
不安? いや、むしろ、これは……恐怖?
車道の対向車が一台、ハイビームのまま走ってきた。榛瑠は反射的に腕をかざして、その光を遮る。
強い光を見ると思い出すことがある。わずかに残る“過去”。
暑さ、炎。人の怒鳴り声。それから大きな破壊音、光。そして。
叫び声、だ。自分の。音はない。でも、叫んでいる自分。
何を叫んでいた? 誰に、何を? ……誰の名を?
そう、名前だ。誰かの。
誰?
榛瑠は頭の奥に鈍痛を感じて、足を止めて目を閉じた。車が行き過ぎる。
やがてゆっくりと目を開けると歩き出した。視線は前だけを向いている。
何にしろ、何を失くしたのか、何をこれから得られるのか、何が必要で、何が既にあるのか、もう少し考えてみないと。
そんなことを考えていた。
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