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迷子4.
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気がつくと二人の噂はあっという間に広がっており、すでに既成事実のようだった。
一花はモヤモヤとしながらも本当の事を確かめることができずにいた。
家に来たあの日以降、榛瑠とは会社の廊下ですれ違って挨拶することが数回あったが、彼の方から何か言ってくることもなかった。
「自分から連絡とって聞いてみればいいのに。彼だって、あなたが彼女として付き合ってた人だってことは知ってるんだから、答える義務はあるわよ?」
週末、白い内装に明るい日が差す店内で、吹子がランチのキャロットスープを口にしながら一花に言った。
「そうなんですけど。そうなんでしょうけど」
一花もスープを口にしながら、煮え切らない返事をする。そんな一花を見ずに吹子が言った。
「このスープ、美味しいわね。小さなお店なのにしっかり作ってある。ステキ」
「ですよね。ノコさんのキャロットスープ、昔うちで働いていてくれてた時から大好きで。榛瑠も好きだったんですよ、そういえば」
「お待たせしました。ランチのハンバーグとクリームコロッケです」
ちょうどそこへノコが新しい皿を運んできた。彼女は一花の家の厨房で働いた後、別の飲食店で働き、結婚を機にふたりで30代でこの店を持ったのだった。
「ありがとう。このスープすごくおいしい」
吹子が笑顔を向ける。
「ありがとうございます。ごめんね、今日バイトの子が休みでバタバタしちゃって」
「こっちこそ、ごめんね、ノコさん。ランチタイムの終わりに滑り込んじゃって」
そう、一花が言うと笑顔がかえってきた。
「とんでもない、うれしいわ。ゆっくりしていってね」
ノコが一花に笑顔を向ける。
「あ、例の悪魔の悪口なら後で一緒に言わせて」
「それが悪口どころじゃ済まなくなっているらしくて」
吹子の言葉にノコが真顔で言った。
「もともとロクでもないのよ、この機会に別れちゃえばいいのよ。一花ちゃんも」
ノコはいつのまにか一花のことを”ちゃん”付けで呼ぶようになった。そしてその頃には、すっかり一花の信頼できる友人になってくれていた。
彼女が厨房に戻る姿を目で追いながら、不思議だなあ、と一花は思う。最初はどちらかというと相性が悪いかと思ったのに。
でも、最初から、この味は大好きだった。榛瑠もだ。昔ノコさんにもらったレシピを、彼はまだ持っているだろうか。
そういう意味では吹子様とこうしているのも不思議だな、と一花は目の前で美味しそうに食事をしている、美しい人に目を向けた。
元々は高校時代の榛瑠の友人で、三つ違いだから同じ校舎で学んだこともないのに、なぜか親しくしてくれて。それは榛瑠がアメリカに行った後も変わらず、というより、むしろそれから、より仲良くしてくれて。
現在は家業の会社の優秀な幹部社員として働く多忙な吹子と、そう会えるわけでもない。でも連絡はとっていて、先日、つい榛瑠の“彼女”の件で愚痴ったら、吹子の方から時間を作ってくれたのだった。
「でも、以前の彼からするとちょっと意外ね」
「そう思いますか?」
一花はコロッケを口に運びながら相槌を打った。
「ええ。榛瑠って相手はコロコロ変えても二股はしない主義だったし、相手に無駄な希望を与えるような付き合い方はしなかったのに。やってることがクリアじゃないわ。やっぱり記憶と性格って連動しているものなのかしらね」
「なんだか、全然希望が見えて来ないんですけど。っていうか、やっぱりコロコロ変えてた時期があったんですね」
「まあね。相手がいくらでも寄ってくるしね、仕方がなかったと思うわよ。高校生の頃は人の好き嫌いも激しかったし、今思うと別人よね」
言いながら、吹子はハンバーグの付け合わせの人参を口にした。
「そう思います? 変わったって?」
「表面上はね」
一花はつい笑ってしまった。
「吹子様にかかると榛瑠も形無しですよね」
「様は余分よ、一花様?」
吹子がにっこり笑って一花を見た。嫌味のない、晴れた日の日差しのような笑顔だ。切れ長の意思のある目ときっぱりとした口元。それでいて抜け感があって決してギスギスしてない。友人でありながら、憧れの人でもある。
「ごめんなさい。でも、吹子様はやっぱり吹子様なんだもの」
そう言うと、吹子は笑った。
「そういう譲らないとこ、ほんと、一花ちゃんらしいと思うわ。なのになんで榛瑠には譲ってばっかりいるのかしらね」
一花は笑った。
ほんと、なんででしょう?
「わかる気もするけど。好きな人ほど遠慮しちゃったり距離を作っちゃったりね」
「吹子様でも?」
「それはそうよ。というか、私こそ、そうよ」
吹子は笑顔で言うと、最後のハンバーグの一片を大きな口で気持ちよく食べた。
「ああ、美味しかった」
「デザートもいただきます? 甘いものも美味しいですよ」
一花は自分も一皿食べ終えて言った。よかった、今日はちゃんと食べられたし、と思いながら。最近、あまり食べられなかったから……。
「そうね、ぜひ。でもその前に、一本、電話しましょう」
「電話? あ、仕事ですか? 忙しかったらもう行ってくださいね。それでなくても、せっかくの週末に時間もらっちゃって……」
「せっかくの週末に仕事なんかしないわ。榛瑠に電話するのよ」
「……え? 榛瑠? え? なんで?」
一花はすずしい顔をした吹子に思わず乗り出して尋ねた。
「あら、だってせっかく時間があるんですもの。旧交を温めるのもよくない? 入院中はゆっくり話せなかったしね」
そう言うと、さっさと吹子は電話をし始めた。一花はそんな彼女を呆然と見つめるしかなかった。
♢ ♢ ♢ ♢
「こんにちは、元気そうね」
吹子はにっこり笑って、戸口に現れた男に声をかけた。
店はランチ後の休憩に入っていたが、そのままいていいよ、のノコの言葉に甘えて、コーヒーを飲みながら待っていた。
待ち人は思ったより早く来た。
榛瑠はオフホワイトのセーターを着てコートを腕に抱えて入ってきた。斜めの冬の日を背後から浴びて、髪が金色に光っている。
彼も吹子の言葉に笑顔で返した。その顔に視線が一瞬、動かせなくなる。
私でさえこうだから、一花ちゃんがこの男を切るのは無理だろうなあ、と思う。一花はというと、彼をわざと見ないでいる。
吹子はため息が出そうになるのをぐっとこらえた。
◇
「で、つまるところ、何のために呼び出したんです?」
榛瑠が吹子に言った。
「さんざん、店主の方と好き勝手言ってくれましたけど」
「あなたがどんなことしてるか知りたかったのに、口を割らなかっただけでしょう」
吹子はノコと話している一花を横目で見ながら、目の前に座る男に言った。
あまり長くいると店の迷惑になるので、そろそろ店を出ることにしたところだった。それでも 榛瑠が現れて、一時間は経っただろうか。
ノコさんとふたりであれこれつついてみたけれど、浮気――と言っていいのかもわからないけど――をしているかもよくわからないし、一花ちゃんはあんまり話さないし、これと言った収穫もなく終わったわね、と吹子は思う。
「それでも、あなたと久し振りに話せたのは嬉しかったわ」
「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいですよ」
社交的な返答。彼と出会った高校での始まりもこうだったな、と思い出す。
「ねえ、結局そのなんとかって子とはどうなってるの? 一花ちゃんには言わないから言ってみない?」
「話すほどのことは何もないですよ」
さっき聞いた時と同じセリフを榛瑠は繰り返した。嘘ではないだろう。でも、何処かはぐらかされて掴めないというか。こういうところは本当に変わらないものだと思う。そして、こういう時の胡散臭い笑顔も。
「まあ、いいけど。でも、何かあったらあなた、ただじゃすまないわよ。殴られても自業自得ね」
「誰にですか?」
「あなた自身によ。忘れる前のあなた」
おかしなことを言ってるのはわかってる。でも以前の榛瑠なら、一花を泣かしたらきっと許さなかったろうから。
榛瑠は小さく声をだして笑った。馬鹿にされているように感じるのは気のせいかな?
「ねえ、一つだけでいいから本心を話して。一花ちゃんのこと、覚えていないのはわかるから、今すぐあなたが彼女を好きになるのは無理かもしれないけど、でも付き合ってたのは本当なのよ? それも真剣に。それを、どう感じているの?」
榛瑠はすぐには答えなかった。吹子は目をそらさず彼を見た。やがて榛瑠は少し首を傾けると、吹子から視線を一花に移しながら話しだした。
「彼女がいい人だということはわかりますし、今も好意を寄せてくれていることも感じます。気を使ってくれていることもわかっています。付き合っていたことも、もちろん承知しています」
「それで?」
彼はまた言葉を切ると今度は吹子を見た。吹子は視線をずらさず見つめ返す。この金色の瞳を、見返すことができるようになるぐらいの社会勉強はしてきたわけだ、私、と思う。
と、次に彼が浮かべたのは、皮肉っぽい笑顔だった。
「でも、わからないんですよね、正直。なんで、彼女なのか。いい人であるのはわかりますが、なぜ彼女? 何に魅力を感じたんでしょうか」
吹子は眉をひそめた。
「……あなた、何言ってるの?」
「本心を話せと言ったので、話したまでです」
吹子は机の上にあったグラスを手に取ると水を飲んだ。コップを戻すと、そこに窓からの日差しが透明な影を作った。
吹子は一度目を瞑ってから、ゆっくりと話しだした。
「あなたともっとも付き合いがあったのは高校時代だけど、その頃のあなたは本当に綺麗でね」
「それはどうも」
「ついでにいろいろ最低だったわ。一見してわからないところで、いろいろね。それはもう、女の視点から見ると特に」
榛瑠は笑顔を崩さない。
「それでも、嫌いになったことはなかった。あなたは仲間で、最高のリーダーだった。間違えなかったし、裏切らなかった」
そうよ。
吹子は榛瑠を見る。あの少年はどこにいる?
「あなたはね、私たちの、いいえ、私の信頼する会長で、誠実な友人だったわ。外部の人間にどれだけ冷酷でもそれを私たちに向けはしなかった。私たちを守り抜こうとしたし、見返りを求めなかった。だから、私たちもなんでもできた。あなたは最高の仲間だったのよ」
今度は榛瑠が静かに目を閉じた。そして吹子を見る。何を考えているか吹子には読めない。
「でも、それを返上するわ。悪いけど今のあなたを好きにはなれない。……事情はわかってる。しようがないのも頭では理解できる。でもね」
吹子は祈るような思いで、強い眼差しを榛瑠に向ける。
「何が大事かわからないような馬鹿は、お呼びじゃないのよ」
榛瑠は微笑んだままだった。
「いいんじゃないですか。会社を背負うような立場にある人が、こんなところで時間を浪費するより、よほど」
「合理的でつまらないわね」
「そうでもないですよ、結構感情で動いてます。本来なら こんな呼び出しには来ない方がいいのはわかっているんですから」
「あら、わかってるんだ。来てくれてなんだけど、どうしてきたの?」
「とりあえず試しているんですよ」
「試す? 何を?」
「いろいろ」
そう言って榛瑠は微笑んだ。
ああ、この男にとって、今の私は、というより多分あらゆるものが、敵か味方かの判定中なのだろうな、と吹子は思った。昔の彼がそうだったように。それなら、わからなくもない。でもその中に一花ちゃんがいるのはあんまりだ。
「やっぱり殴られればいいのよ」
ため息とともに吹子は言った。
「以前のあなたに。そうじゃないと……」
そうじゃないと、榛瑠自身がかわいそうだ。
吹子はその言葉を最後まで言うことができなかった。一花がそろそろ店を出ようと、二人に声をかけたからだ。
ノコに長居したことのお詫びと、すっかり仲良くなった彼女にまた来る約束をして、吹子は店を出た。
明るい日差しに反して、外は冷たい風が吹いていた。体に力が入る。
「風が出てきましたね」
一花が吹子に言った。
「今日はありがとうございました。吹子様とお話しできて楽しかったです」
「ええ、私もよ」
榛瑠なんて呼なければよかった。そしたらもっと楽しかったろう。私もまだまだ判断が甘いわ。
それでも榛瑠に一花を送るように言うと、彼は当たり前のように承諾した。
吹子は二人と別れると、しばらく通りを一人で歩いた。
風が冷たい。いつのまにか冬だ。春は遠いなあ、と、コートの襟を立てながら、吹子は思った。
一花はモヤモヤとしながらも本当の事を確かめることができずにいた。
家に来たあの日以降、榛瑠とは会社の廊下ですれ違って挨拶することが数回あったが、彼の方から何か言ってくることもなかった。
「自分から連絡とって聞いてみればいいのに。彼だって、あなたが彼女として付き合ってた人だってことは知ってるんだから、答える義務はあるわよ?」
週末、白い内装に明るい日が差す店内で、吹子がランチのキャロットスープを口にしながら一花に言った。
「そうなんですけど。そうなんでしょうけど」
一花もスープを口にしながら、煮え切らない返事をする。そんな一花を見ずに吹子が言った。
「このスープ、美味しいわね。小さなお店なのにしっかり作ってある。ステキ」
「ですよね。ノコさんのキャロットスープ、昔うちで働いていてくれてた時から大好きで。榛瑠も好きだったんですよ、そういえば」
「お待たせしました。ランチのハンバーグとクリームコロッケです」
ちょうどそこへノコが新しい皿を運んできた。彼女は一花の家の厨房で働いた後、別の飲食店で働き、結婚を機にふたりで30代でこの店を持ったのだった。
「ありがとう。このスープすごくおいしい」
吹子が笑顔を向ける。
「ありがとうございます。ごめんね、今日バイトの子が休みでバタバタしちゃって」
「こっちこそ、ごめんね、ノコさん。ランチタイムの終わりに滑り込んじゃって」
そう、一花が言うと笑顔がかえってきた。
「とんでもない、うれしいわ。ゆっくりしていってね」
ノコが一花に笑顔を向ける。
「あ、例の悪魔の悪口なら後で一緒に言わせて」
「それが悪口どころじゃ済まなくなっているらしくて」
吹子の言葉にノコが真顔で言った。
「もともとロクでもないのよ、この機会に別れちゃえばいいのよ。一花ちゃんも」
ノコはいつのまにか一花のことを”ちゃん”付けで呼ぶようになった。そしてその頃には、すっかり一花の信頼できる友人になってくれていた。
彼女が厨房に戻る姿を目で追いながら、不思議だなあ、と一花は思う。最初はどちらかというと相性が悪いかと思ったのに。
でも、最初から、この味は大好きだった。榛瑠もだ。昔ノコさんにもらったレシピを、彼はまだ持っているだろうか。
そういう意味では吹子様とこうしているのも不思議だな、と一花は目の前で美味しそうに食事をしている、美しい人に目を向けた。
元々は高校時代の榛瑠の友人で、三つ違いだから同じ校舎で学んだこともないのに、なぜか親しくしてくれて。それは榛瑠がアメリカに行った後も変わらず、というより、むしろそれから、より仲良くしてくれて。
現在は家業の会社の優秀な幹部社員として働く多忙な吹子と、そう会えるわけでもない。でも連絡はとっていて、先日、つい榛瑠の“彼女”の件で愚痴ったら、吹子の方から時間を作ってくれたのだった。
「でも、以前の彼からするとちょっと意外ね」
「そう思いますか?」
一花はコロッケを口に運びながら相槌を打った。
「ええ。榛瑠って相手はコロコロ変えても二股はしない主義だったし、相手に無駄な希望を与えるような付き合い方はしなかったのに。やってることがクリアじゃないわ。やっぱり記憶と性格って連動しているものなのかしらね」
「なんだか、全然希望が見えて来ないんですけど。っていうか、やっぱりコロコロ変えてた時期があったんですね」
「まあね。相手がいくらでも寄ってくるしね、仕方がなかったと思うわよ。高校生の頃は人の好き嫌いも激しかったし、今思うと別人よね」
言いながら、吹子はハンバーグの付け合わせの人参を口にした。
「そう思います? 変わったって?」
「表面上はね」
一花はつい笑ってしまった。
「吹子様にかかると榛瑠も形無しですよね」
「様は余分よ、一花様?」
吹子がにっこり笑って一花を見た。嫌味のない、晴れた日の日差しのような笑顔だ。切れ長の意思のある目ときっぱりとした口元。それでいて抜け感があって決してギスギスしてない。友人でありながら、憧れの人でもある。
「ごめんなさい。でも、吹子様はやっぱり吹子様なんだもの」
そう言うと、吹子は笑った。
「そういう譲らないとこ、ほんと、一花ちゃんらしいと思うわ。なのになんで榛瑠には譲ってばっかりいるのかしらね」
一花は笑った。
ほんと、なんででしょう?
「わかる気もするけど。好きな人ほど遠慮しちゃったり距離を作っちゃったりね」
「吹子様でも?」
「それはそうよ。というか、私こそ、そうよ」
吹子は笑顔で言うと、最後のハンバーグの一片を大きな口で気持ちよく食べた。
「ああ、美味しかった」
「デザートもいただきます? 甘いものも美味しいですよ」
一花は自分も一皿食べ終えて言った。よかった、今日はちゃんと食べられたし、と思いながら。最近、あまり食べられなかったから……。
「そうね、ぜひ。でもその前に、一本、電話しましょう」
「電話? あ、仕事ですか? 忙しかったらもう行ってくださいね。それでなくても、せっかくの週末に時間もらっちゃって……」
「せっかくの週末に仕事なんかしないわ。榛瑠に電話するのよ」
「……え? 榛瑠? え? なんで?」
一花はすずしい顔をした吹子に思わず乗り出して尋ねた。
「あら、だってせっかく時間があるんですもの。旧交を温めるのもよくない? 入院中はゆっくり話せなかったしね」
そう言うと、さっさと吹子は電話をし始めた。一花はそんな彼女を呆然と見つめるしかなかった。
♢ ♢ ♢ ♢
「こんにちは、元気そうね」
吹子はにっこり笑って、戸口に現れた男に声をかけた。
店はランチ後の休憩に入っていたが、そのままいていいよ、のノコの言葉に甘えて、コーヒーを飲みながら待っていた。
待ち人は思ったより早く来た。
榛瑠はオフホワイトのセーターを着てコートを腕に抱えて入ってきた。斜めの冬の日を背後から浴びて、髪が金色に光っている。
彼も吹子の言葉に笑顔で返した。その顔に視線が一瞬、動かせなくなる。
私でさえこうだから、一花ちゃんがこの男を切るのは無理だろうなあ、と思う。一花はというと、彼をわざと見ないでいる。
吹子はため息が出そうになるのをぐっとこらえた。
◇
「で、つまるところ、何のために呼び出したんです?」
榛瑠が吹子に言った。
「さんざん、店主の方と好き勝手言ってくれましたけど」
「あなたがどんなことしてるか知りたかったのに、口を割らなかっただけでしょう」
吹子はノコと話している一花を横目で見ながら、目の前に座る男に言った。
あまり長くいると店の迷惑になるので、そろそろ店を出ることにしたところだった。それでも 榛瑠が現れて、一時間は経っただろうか。
ノコさんとふたりであれこれつついてみたけれど、浮気――と言っていいのかもわからないけど――をしているかもよくわからないし、一花ちゃんはあんまり話さないし、これと言った収穫もなく終わったわね、と吹子は思う。
「それでも、あなたと久し振りに話せたのは嬉しかったわ」
「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいですよ」
社交的な返答。彼と出会った高校での始まりもこうだったな、と思い出す。
「ねえ、結局そのなんとかって子とはどうなってるの? 一花ちゃんには言わないから言ってみない?」
「話すほどのことは何もないですよ」
さっき聞いた時と同じセリフを榛瑠は繰り返した。嘘ではないだろう。でも、何処かはぐらかされて掴めないというか。こういうところは本当に変わらないものだと思う。そして、こういう時の胡散臭い笑顔も。
「まあ、いいけど。でも、何かあったらあなた、ただじゃすまないわよ。殴られても自業自得ね」
「誰にですか?」
「あなた自身によ。忘れる前のあなた」
おかしなことを言ってるのはわかってる。でも以前の榛瑠なら、一花を泣かしたらきっと許さなかったろうから。
榛瑠は小さく声をだして笑った。馬鹿にされているように感じるのは気のせいかな?
「ねえ、一つだけでいいから本心を話して。一花ちゃんのこと、覚えていないのはわかるから、今すぐあなたが彼女を好きになるのは無理かもしれないけど、でも付き合ってたのは本当なのよ? それも真剣に。それを、どう感じているの?」
榛瑠はすぐには答えなかった。吹子は目をそらさず彼を見た。やがて榛瑠は少し首を傾けると、吹子から視線を一花に移しながら話しだした。
「彼女がいい人だということはわかりますし、今も好意を寄せてくれていることも感じます。気を使ってくれていることもわかっています。付き合っていたことも、もちろん承知しています」
「それで?」
彼はまた言葉を切ると今度は吹子を見た。吹子は視線をずらさず見つめ返す。この金色の瞳を、見返すことができるようになるぐらいの社会勉強はしてきたわけだ、私、と思う。
と、次に彼が浮かべたのは、皮肉っぽい笑顔だった。
「でも、わからないんですよね、正直。なんで、彼女なのか。いい人であるのはわかりますが、なぜ彼女? 何に魅力を感じたんでしょうか」
吹子は眉をひそめた。
「……あなた、何言ってるの?」
「本心を話せと言ったので、話したまでです」
吹子は机の上にあったグラスを手に取ると水を飲んだ。コップを戻すと、そこに窓からの日差しが透明な影を作った。
吹子は一度目を瞑ってから、ゆっくりと話しだした。
「あなたともっとも付き合いがあったのは高校時代だけど、その頃のあなたは本当に綺麗でね」
「それはどうも」
「ついでにいろいろ最低だったわ。一見してわからないところで、いろいろね。それはもう、女の視点から見ると特に」
榛瑠は笑顔を崩さない。
「それでも、嫌いになったことはなかった。あなたは仲間で、最高のリーダーだった。間違えなかったし、裏切らなかった」
そうよ。
吹子は榛瑠を見る。あの少年はどこにいる?
「あなたはね、私たちの、いいえ、私の信頼する会長で、誠実な友人だったわ。外部の人間にどれだけ冷酷でもそれを私たちに向けはしなかった。私たちを守り抜こうとしたし、見返りを求めなかった。だから、私たちもなんでもできた。あなたは最高の仲間だったのよ」
今度は榛瑠が静かに目を閉じた。そして吹子を見る。何を考えているか吹子には読めない。
「でも、それを返上するわ。悪いけど今のあなたを好きにはなれない。……事情はわかってる。しようがないのも頭では理解できる。でもね」
吹子は祈るような思いで、強い眼差しを榛瑠に向ける。
「何が大事かわからないような馬鹿は、お呼びじゃないのよ」
榛瑠は微笑んだままだった。
「いいんじゃないですか。会社を背負うような立場にある人が、こんなところで時間を浪費するより、よほど」
「合理的でつまらないわね」
「そうでもないですよ、結構感情で動いてます。本来なら こんな呼び出しには来ない方がいいのはわかっているんですから」
「あら、わかってるんだ。来てくれてなんだけど、どうしてきたの?」
「とりあえず試しているんですよ」
「試す? 何を?」
「いろいろ」
そう言って榛瑠は微笑んだ。
ああ、この男にとって、今の私は、というより多分あらゆるものが、敵か味方かの判定中なのだろうな、と吹子は思った。昔の彼がそうだったように。それなら、わからなくもない。でもその中に一花ちゃんがいるのはあんまりだ。
「やっぱり殴られればいいのよ」
ため息とともに吹子は言った。
「以前のあなたに。そうじゃないと……」
そうじゃないと、榛瑠自身がかわいそうだ。
吹子はその言葉を最後まで言うことができなかった。一花がそろそろ店を出ようと、二人に声をかけたからだ。
ノコに長居したことのお詫びと、すっかり仲良くなった彼女にまた来る約束をして、吹子は店を出た。
明るい日差しに反して、外は冷たい風が吹いていた。体に力が入る。
「風が出てきましたね」
一花が吹子に言った。
「今日はありがとうございました。吹子様とお話しできて楽しかったです」
「ええ、私もよ」
榛瑠なんて呼なければよかった。そしたらもっと楽しかったろう。私もまだまだ判断が甘いわ。
それでも榛瑠に一花を送るように言うと、彼は当たり前のように承諾した。
吹子は二人と別れると、しばらく通りを一人で歩いた。
風が冷たい。いつのまにか冬だ。春は遠いなあ、と、コートの襟を立てながら、吹子は思った。
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