俺の子を産んでくれないかって言われたから快諾してみた

10.思い出に花を

　スプーンでも掬える柔らかさの猪肉。
　王都あたりでは主に豚肉が流通していたから、久々の味に顔が綻ぶ。

「うまいよ。長く煮込んであるんだね、柔らかくて、すぐなくなっちまいそうだ」
「ふふ！　ごゆっくりどうぞ！」

　温かいものが胃に入ると、すぐに体が温まる。
　じんわり指先まで血が通うのが感じられて、思わずほうと息が漏れた。
　焼きたてのバゲットもいい音で割れてくれる。
　密度が高く、柔らかい内側の部分は何もつけなくても甘く、帰還のご馳走にふさわしい美味しさだ。

「これは角のパン屋のバゲットかい？　あの粉ひきの、」
「おう。あの偏屈爺な。残念なことに元気だよ」
「はは！　みんな変わりないようでよかったよ」

　街はずれの川の近くの水車で、粉ひきとパン屋を兼業でやっている爺さんがいるのだが、一癖ある御仁でみんなからいろいろと言われているのだ。
　アタシもビスコッティなんかを遠征食として買いに行くが「さっさと辞めろそんな仕事」など小言を言われたりする。

　基本的に、ほかの街でも粉ひきは嫌われ者だ。
　水車という壊れやすい設備を管理しているから普通は感謝されても不思議ではないのだが、依頼された麦を粗悪品と入れ替えたり、こっそり小麦粉を間引いたりする者がいるため、トラブルが生じることが多い。
　麦が安い時期は多少増減しても影響は少ないが、麦の収穫前の夏場や不作で高騰する時期にも変わらずそんなことをするもんだから、パン屋のパンが不定期で高くなることが珍しくないのだ。
　パンは主食だ。住む者のほとんどが必要とするもの。なのにそこにそうやって不要ないさかいを起こすなんて、恨みを買ってどうするんだろうとよく思う。
　実際、遠征時に報復を受けた粉ひきを見かけたことがあったが、まあまあ悲惨だった。

　しかしこの爺さんは単に口が悪いだけだ。
　自分で畑を持っているし、小麦粉の量も正確だし、中抜けなどしない。
　何より、引き立ての小麦粉で焼くパンがどれも美味いのだ。
「あの麦好きのくそ爺め」と、亭主はいつも喧嘩しながら買っている。

　近くの孤児院に「在庫処分だ」といって朝イチでバゲットを持っていったりしているのを、協会のミサの護衛をしていたときに見かけてからは、たぶんアタシの仕事のことを言うのも色々含んだ意味があるのだろうと理解するようになった。

「お父さんも、あのおじいさんも、仲いいですよね」

「喧嘩っていうか、遊んでる感じ？　に見えます」というハンナに頷く。
　亭主はジト目でこちらを見てくるが、訂正しないあたり、本当に嫌っているわけではないのだろう。
　素直にならない大きな子供のようなその反応に、くすりと笑いが漏れた。

「手が空いたらハンナもここにお座りよ」

　横の座席をぽんぽんと叩いて示す。
　ハンナが顔を輝かせ、いそいそと腰を下ろそうとしたとき、ひゅうと外気が頬を撫でた。