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31.落陽
しおりを挟むベンと共に、下町の家の隙間を縫うような小道を通る。
回帰前も合わせて、初めての場所。のはずだ。
建物の窓ばかりが面している、少々仄暗い路地。スラム街よりゴミが少なく、代わりに洗濯物や木箱が置かれていて、生活感が感じられた。
規則的に並ぶ窓からは、美味しそうな夕食の香り。
驚きから抜け出してよく見れば、両サイドに続いているのは、石造りの長屋だった。
下町で働く者たちのためのアパルトメントなのだろう。
窓それぞれから、色々な形の家族の声が聞こえる。
家々の窓に貼り付くようなプランターから、半日向でもよく育つ蔦が垂れていた。
ヤシの身の繊維で出来た容器を、覆い隠すほど茂っている株もある。冬なのに生命力が旺盛だ。
長く伸び、道横の小さな水路に先端が浸かっているものが、水の流れでゆっくりと揺れている様子は、まるで違う国に迷い込んでしまったような気持ちになった。
「ベン、どこへ向かっているんだ」
「指物屋町の上」
「うえ……?」
蔦の道を抜けて、あちこちから蒸気が漏れている職人街の裏通りに入ったころ、私はベンに問いかけた。
もうかれこれ半刻ほど歩いている。
「遠回りさせてすまないな」
「いや、歩くのが苦だというわけではないんだが」
空の端が朱く染まり始めた。
もうすぐ日が暮れる。
訓練のおかげで体力的には問題ないが、行き先がわからないままというのは何とも心許ない気持ちになる。
ベンはそう訴える私に珍しく笑みを返すと、何も言わずに歩みを進めた。
ただ口角をかすかに上げただけなのに、随分と印象が変わるのだなあと、運動のせいか速る胸を僅かに押さえる。
街灯に火をつける為だろう、各町の詰め所から長い棒とランタンを持った男たちが出勤していくのを横目に歩き続けた。
「ああ、おかげで良い頃合いだ」
「……?」
それから程なく、長い階段に差し掛かる。
冬の石畳のそれは、革靴との相性があまり良く無い。滑らないよう足元を見て歩いていると、次第に周りが明るくなっていった。
「着いたぞ。アリア」
「!……すごい」
はあ、と疲労と感嘆からくるため息をこぼす。
到着した先は、職人街と下町を一望できる高台の上だった。
夕陽に照らされて、鮮やかな橙色に染まる街並み。所々湧いた蒸気が段々と影に溶けていく。その柔らかな黒とのコントラストが、目に焼き付くようだ。
不規則に光を返しているのは行き交う高級馬車の窓と、先ほど見た細い小川だろう。
「すごく、すごく綺麗だ……」
「おう」
思わず笑みが浮かぶ。
そんな私の少しだけ崩れた髪を、清涼な風が攫った。
沈黙が場を支配するけれど、あまり苦にならない。
景色が美しいのと、寡黙なベンが相手だからだろうか。
それでも、空に藍が混ざり始める頃には汗が冷えてくる。思わずふるりと寒気に身を震わせたとき、ベンは徐ろに口を開いた。
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