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30.それは砂のように

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「では、馬が暴れたのは猫が原因なのですね?」
「はい。少なくとも、ことの起こりはそれで間違いありません」

「猫かあ、」そうぼやきながらモーリスは調書を書き終える。
 轢かれそうになっていた男の子と母親は別の場所で治療を受けたようだ。個別に話を聞く必要もあったのだろう。
 やけに厳重な対応だなと内心で首を捻っていると、それを目敏くみつけたモーリスが苦笑いをした。

「王都内の治安強化の通達がありましてね、治安維持担当第六師団の上層部も目を光らせているんですよ。なんでも、王女殿下からの要望だとかで」

 頬を照れたように掻いて、仲間を見る彼。

「人が多く配属されたのはありがたいって、先輩達は言うんですけれどね。配属された始めから仕事が多くて……面食らいました。噂では、楽な部署だと聞いていたんですが」

 そう言いながら、モーリスは手慣れた様子で書類をまとめている。

 確かに、回帰前の第六師団以降はそこまで忙しく無かったような。
 何かの席で、毎日の巡回や警邏の仕事はあるけれど、街の自衛団もいるからお互いの管轄管理がやっかいだとぼやく声を聞いた。
 結局は自衛団にほとんどの仕事を任せて形骸化し、楽をしたい貴族の次男やそれ以下の者達が入ろうとこぞって異動願いを出していた。
 だから私が貧民街に火を付けた日も、第六師団はなかなか来ず、結局はダグラス隊長達が街の鎮圧に尽力していたのだと思う。
 もしくは、ほぼ貴族で構成されているから、貧民街なら良いかと単に捨て置かれたのかも知れない。
 だけれど。
 今はそんな気配さえもない。
 自衛団と協力してきびきびと働く第六師団。
 聞けばモーリスはベンの昔馴染みで、下町の生まれだとか。モーリスだけではなく、先ほど話に出た先輩も下町出身者。
 確かに、以前は貴族ばかりだったのだが、なんでも数年前から平民卒も多く配属されるようになったと言う。
 自衛団にも見知った顔がいるのか、彼らとも気安く話をしている背中をぼうっと眺めた。

「ねえアリー、街の様子を教えてくれる? みんなはお出かけのときはどうしているの?」

 不意に耳朶によみがえる、王女殿下の声。
 何かの式典を終えた後だったか、珍しく気の抜けた空気の中で彼女は私に問いかけた。

「下町の様子、ですか?」
「ええ! 女性も一人で出歩いたりするの?」
「平民でしたら、そうですね……」

 お茶の席を丁寧に固辞し、壁に控えたまま王女殿下の矢継ぎ早な質問に答えたとき。私は何と答えたのだろう。

 ああ、まただ。
 帰ってきてから、とりわけ王女殿下に関する記憶が上手く思い出せない。

 長く時間を共にしたはずなのに。敬愛の情だけが残って、大切な日々の思い出が朧気だ。
 過去の出来事がこうして変わったせいだろうか。

 王国の姫薔薇。たおやかな知識の姫。

 かの帝国人にさえそう謳われ、皇太子妃にと望まれるほどの、元々手の届かない人だったのだ。
 過去が本当にただ幸運に恵まれていただけだとわかっている。

 けれど。

「王女殿下……」

 なあに? アリー。

 そう微笑みかけてくれることは、もう無いのか。
 それがやけに寂しい。

「殿下は……幸せになれましたか。」

 もう無くなってしまった未来で。
 王女殿下の輿入れに、私の死の一連が影を落としていないことを切に願う。
 今となってはもう意味のないことだとわかっているけれど、一人の時間が出来ると、つい考えてしまって、私は苦笑した。

 後頭部のバレッタに、そっと手を伸ばす。
 冷たく、やさしい滑らかさの貝殻の縁を静かになぞった。


「アリア。手当てが終わったのなら、もう上がっていいそうだ。モーリスには話を通してある。帰るぞ」

「……ベン」
「なんだ。……おい、どこか痛むのか?」

 見上げたベンの顔は、珍しく怪訝そうな表情をしていた。

「いいや、何でもないんだ。うん、何にも無い」
「……」

 過去に帰って来れて嬉しい。それは本当だ。
 あの殺伐とした混乱の日々にはもう戻りたくなど無いけれど、同時にこの手から無くしまったものにも気付いて、つい苦い笑みがこぼれた。
 ベンは空を見上げ、しばし逡巡する。

「アリア。この後時間はあるか」
「え? ああ、もう騎士宿舎に戻るだけだ」
「そうか。じゃあ着いてこい」

 ぶっきらぼうな言い口に合わず、ベンはそっと私の手を取る。
 女性騎士にではなく、まるで淑女をエスコートするような力加減で街の細道へと入っていった。


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