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8.異なる過去を生きる
しおりを挟む宿舎の中は、人事異動の話でもちきりだった。
女子棟でこれだから、平民の数が多い男子棟はもっと騒がしいだろう。
女が三人寄れば姦しいとはよく言ったもので、きゃらきゃらと明るい笑みを見せる彼女らが眩しい。つい感情を凪にさせる癖がついている自分のつまらなさを振り返って、私物の入った麻袋を抱えながら、小さくため息をついた。
執務棟が新兵の部署から、第二師団の部屋へと移るため引越し準備をする必要がある。
消耗品の在庫を確認していると、石鹸が残り少ないことに気づいた。次の非番の日には買い物に出なければならないな。と考えていたとき。にゅっと、まるこい手が横から伸びる。
「これ、いかがです?」
ラベンダーだろうか。青と紫の蕾のような花弁が所々に入った薄緑の石鹸から、ふわりと優しい香りがした。
「うちの新入荷なんです」
にっこりと、昼寝する猫のような笑みで立っていたのは、私と入れ違いに第三師団へ配属されたニナだった。
「……いくらです?」
茶色くない石鹸なんて初めて手にする。獣臭さも全くなく、パウンドケーキのような断面をしげしげと眺めた。王女殿下も好まれそうだな、これ。なんて感想が口から溢れると、ニナの目がきらりと光った気がした。
「差し上げます。お近づきの印にってことで」
「……それは…」
「もし気が引けるのであれば、そうですね。色々と教えてくださいますか? 王女殿下のこと」
「……」
猫の目に狩の気配が混じる。
「前から思っていたんですけれど、随分とお詳しいですよね、王女様について。不思議だったんです」
邪気は、感じない。スラム街の市場で見るぬたっとしたやり取りのような感じの悪さこそ無かったが、ニナのやけに強い圧に戸惑った。
「なに「推しなんでしょ?」
オシ?
被せるように畳み掛けられた言葉に馴染みが無く、聞き返す。うんうんと嬉しそうな顔で、ニナは続けた。
「王子様方の下で、かつ粒揃いの人たちが揃う第二師団に配属されたにもかかわらず、デイジーさんや私を驚きの顔で見つめるということは! きっと第三師団が本命だったのでは? そして王女様のお好みに詳しい平民ときたら王女様推しなのかと思いまして」
「はあ……いや、よく見てましたね」
「接客業やってましたから!」
「ふ、ふふふ。そうか」
呆気にとられている私に向けて、パチリと閉じられた片目。やけに完璧なそれについ笑いが漏れた。
「そうだな、尊敬しているよ。私のような素性が知れない者でも、殿下はお優しいから」
「アリー」と呼んで、笑いかけてくださった。私の元主人。回帰前、帝国の王子様は気のいい方に見えたけれど、彼女は幸せになっただろうか。私の死が彼女の足を引っ張っていなといいのだが。とまで考えて、意味のない事だとかぶりを振った。
「素性……でもアリアさんの髪色は、帝国由来のものではないのですか?」
「……え?」
「あちらの貴族の方には多いですよね、銀色の髪」
「ああ……だが、私の髪は銀というより鈍色だ。帝国貴族は、瞳の色も銀が入っているだろう? 私は違う」
「同期ですし、お好きな口調で構いませんよ」とのことなので、甘えることにした。その上で、出自の話になってしばし世間話に興じる。
恐らく商人の懐柔術なのだろうが、こちらもツテを作って損はなかった。
会話の中に出たが、回帰前に見た帝国貴族達は、輝く月のような白銀の髪を持っていた。瞳は青や緑など色の違いはあるものの、ベースに必ず銀を感じさせる神聖な淡い色彩をしている。ちなみに王子は、金の瞳をしていた。
ブリキ板に似た青銀の髪に、濃い緑の瞳である私が彼等と並べば、一目で別物だとわかるだろう。
「そうですか~」と、ややしょげた顔をするニナ。でもニナのように、帝国に行っても馴染みやすいだろうと考える人は居るかもしれない。
回帰前の人事はそんな思惑だろうか、と思考が傾きかけたところで、慌ててニナに視線を戻した。
「ニナ、王女殿下はラベンダーやローズだけでなく、プラムの香りもお好きだそうだ」
「え?」と喜色を浮かべる彼女に頷く。
回帰前、王女殿下が探していたのを思い出して。
「夏になれば、王都はすぐ暑くなるだろう? 汗の匂いを誤魔化すための、爽やかな香りの髪の香油など無いだろうか。この石鹸もきっとお求めになるだろうが、香油もあれば喜ばれると思う」
「なるほど! 実家に話しておきます!」
「ああ。審査に通ると良いな」
「こういう情報助かります~!登城した甲斐がありますね」
メモを取り出したニナに「流石に機密事項はわからないが」と釘を刺しておく。承知のハンドサインが返ってきた。
「もし上手くいったらでいいんだが、儲かったら時々買い物しに行かせてくれ」
城下町の店は、質の良いものを扱う上級店だと一見さんお断りのルールに則っているため、許可が必要だった。
第二師団もいずれ王族警護で貴族と接する機会も出てくるだろう。回帰前は王女殿下とその侍女が教えてくれた身繕いを、一人でもちゃんとしておきたかった。
「もちろんです! どうぞご贔屓に」
にっこり笑って差し出された紹介状に、元よりそのつもりだった事を知って、頬が火照った。
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