幸福の葉書

北丘 淳士

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幸福論

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 月曜日、社員食堂で私たちは昼食をとっていた。今日は弁当ではなかった。会社が繁忙期に入り、少しでも純子の苦労を軽減するため、しばらく休んでもらうことにした。
「そういえば今度の日曜日、お互い休みがとれたら、ディズニーランドに行かない?」
 珍しく私の方から遊園地に誘った。
「いいわね、久しぶりだから随分変わっているかも」
「よし、決まりだ」
 私は時計を見た。十二時五十五分だった。
「やばい! 午後一から会議があったんだ。気が進まないが行ってくる」
「あなたの食器は私が片付けておくわ。会議中に居眠りしないようにね」
「ありがとう。じゃあまたね」
 私は振り返ることも出来ず、会議室へと走った。

 日曜日、結局ディズニーシーの方に行った。暑い日中にアルコールが飲めるからだ。私の飲むビールに付き合い、純子も数杯飲んだ。ほろ酔いで遊びながら、色々と見て回ったりした。そしてあっという間に日も暮れ、夜のシンデレラ城の花火を楽しんでいた。もうそろそろ花火も終わるだろうという頃、私は純子の左手を握った。そしてポケットから花火の明りにキラリと光る指輪を出した。そして彼女がびっくりしているうちに、薬指に嵌めようとした。……したが奥まで入らない。
「あ、あれ? ま、間違えたかな?」
 純子は苦笑しながらその意味を理解した。「私、太ったのかしら」笑いながら、必死に薬指に入れようとする私の手をとる。そしてその指輪を小指に嵌めた。少し空回りする。
 かなり残念そうな顔をしていただろう私は、純子の目を見つめながら言う。
「俺と、結婚してください」
「もちろん。私でよければ貰って下さい」
 返事は快諾で即答だった。
 純子はキスを求めてきた。二人をシンデレラ城の花火が祝福してくれている。私たちは他の人がいるにもかかわらず、長い時間キスをしていた。唇が自然とはがれる。
「俺は幸せ者だ」思わず呟く。
「私もよ」
 彼女の瞳には、花火の光でないと分からないほどの涙が溜まっていた。
「大事にする」
 短い言葉だったが、強い意志を込めて言った。
「約束よ。私の人生はあなた無しに考えられないわ。浮気なんかしたら、その相手の方を許さないから」と笑いながら言った。
 それを聞いた私は少し引いたものの、浮気なんて考えられなかった。その毒が混じった彼女の言葉に優しく返した。
「もちろん。約束するよ」

 少し肌寒くなってきた頃、私たちは東京で結婚式を挙げた。ジューンブライドにはこだわらない。多くの人から祝福された華燭の典だった。

 二年後、私たちに女児が生まれた。かなりの難産だったそうだが、私は涙ながらに喜んだ。
「純子、ありがとう。お疲れ様!」
 子供の名前は「空」に決めた。突き抜けるような秋晴れの日に生まれたからだ。
「『そら』シンプルだけど、いい名前ね」
 純子も納得していた。
 私にとっても嬉しい日だったが、これからが大変だと腹をくくった。子供の大学までの学費、家のローン、そしてもちろん生活費。計算すればするほど大変だと思ったけど幸せだった。
 あの幸福の葉書が頭をよぎる。昔はこういう状況は大変そうだと思っていたが、今はこれ以上の幸せはない。幸福の葉書に感謝した。
 産休は私が二週間、純子は一年半もらった。産後の純子に負担をかけさせないため、積極的に育児をしたが、それはもう大変だった。ゆっくりと寝る暇がない。夜も空の鳴き声で起きて、ミルクを作り、人肌まで覚まして飲ませる。そうしていると、お袋って大変だったんだろうなぁと、寝ぼけ眼で思っていた。

 そしてさらに四年後、今度は男児が生まれた。一姫二太郎だ。空の弟の名前は海にした。空は海の手のひらに人差し指を触れた。海は空の人差し指をしっかと握ってくる。
「かーいいね」
 空は弟が出来て喜んでいるようだ。
「もう、経済的に打ち止めだな」
 産後の純子の汗をふき取りながら、私は言った。
「ええ。これ以上多くなると面倒見切れなくなるわ」
 純子は微笑みながら返した。

 家族という重い責任を抱えた私は、がむしゃらに働いた。そして保育園、幼稚園の送り迎えも段々慣れてきた。出来るだけ家族の時間を捻出しようとすることも、忘れないでいた。たまに土曜出勤になることがあったが、出来るだけ早くあがれるよう、よく働いた。
 そんな私を見ながら、子供たちはすくすくと育っていった。空は私があまり見せない大変さを良く見ていた。学校の成績は置いといて、賢い子だった。クリスマスや誕生日に何かを欲しがるなんて、よっぽどのことがない限りなかった。お年玉だけは、ねだってきたが……。
 反抗期が来ないのは倉内家の血筋かもしれない。海も、空の影響を受けて吝嗇まではいかないが、物欲がなかった。ただ、海はどうしても野球部に入りたかったそうなので、かなりの値段がするが、野球用品一式は必要だなと思った。
 海は申し訳なく私に言う。
「ごめん父さん、野球部に入りたいんだけど……」
「おお、野球部か。がんばれよ!」
 新聞から目を離して、海の目を見ながら私は言う。金は気にするなとばかりに笑顔で言った。
 野球をやる以上は成績を残したいと、海は帰宅後の素振りも休まず、道具の手入れもしっかりしていた。その二人の行動は親としてしっかり把握していた。いい子が産まれたもんだ。私は幸福の葉書から人生が変わったと確信していた。まだその葉書は、自分の書斎の隅に置いていた。私は守り神のように扱っている。長女の空は体調を崩さないか心配になるほど勉強して、推薦で大学に入った。もちろん入学費用はかからない。大学の勉強しながらバイトもして、自分の欲しいものは自分で手に入れていた。
 海も野球の強豪チームのキャプテンとして頭角を現していた。甲子園には行けなかったが、海は野球部推薦枠で大学に入った。本当に手間のかからない子達だった。

 私は書斎で、消えかかった幸福の手紙の名前を書く欄に、倉内弘明、純子、空、海と連名で描いた。ちょっと欲張り過ぎかな、とも思ったけど、私の幸福を皆に分け与えたかった。
 その時、コーヒーを持って、純子が室内に入ってきた。私は慌てて葉書を隠したが、純子には、ばれていた。
「なぁに、それ? ラブレターかなにか?」
「いや! そんなんじゃないよ。昔の葉書を整理していただけで」
「ふーん。はい、コーヒー」
 純子は含み笑いをする。
 何故だか、この葉書を人に見られると御利益が薄れる気がして、私は誤魔化した。

 空と海が推薦で大学に行った分、家のローン返済に回して、海が社会人になった頃、ローンを返済できた。予定よりも5年早かった。
「手のかからない、いい子に育ったものだ」
 空と海がいないダイニングルームで、缶ビールを開けながら純子に言った。純子も良く冷えたビールを冷蔵庫から取り出した。
「本当ね。思ったよりも早くローン返済できたから、今度は老後のための貯金ね」
「ああ、老後は2人で色々と旅行に行こう」
「うん。それとね、私今だから告白するんだけど……、実はビール苦手だったの」
「え! 嘘だったの!」
「うん。でもあなたに気に入られるために、こっそり練習してたの。そしたら何とか好きになっちゃった」
「別に嘘つかなくても良かったのに」
「だって、あなたに気に入られるために必死だったのよ」
「純子、ありがとう。君が私のことを好きになってくれたことだけで、私は幸せだよ」
 ビールのプルタブを開けた純子は、私と乾杯した。
「本当にありがとう」私は涙が出そうになった。「歳をとるとだめだな」笑いながら涙をためる。
「こちらこそ、ありがとう」
 微笑んだ純子は、缶ビールを半分ほど一気に飲んだ。

 数年が経ち、純子の父親、私の父親が立て続けに逝去した。純子の父親は心筋梗塞、私の父は胃癌だった。
 2人とも70前後で、純子の父親は寒い朝にシャワーを浴びようとして昏倒。そのまま帰らぬ人となった。
 私の父は酒の飲みすぎだった。ドクターストップがかかっていたにもかかわらず、酒量を減らさないことにあった。純子の母親せつさんも、旦那を亡くしたこともあり、体調を崩している。
 亡くなっていく人もいれば、新しい命の誕生もあった。空がとある製薬会社の社員と結婚して、双子の赤子を産んだのだ。これには私も純子も大喜びだった。海も会社の野球部のマネージャーと結婚して、また孫が出来るのも時間の問題だった。
 私の妹も弟も結婚して、私は時々状況を聞くと、結婚生活はうまくいっているようだ。
 東京の我が家に呼んだせつさんは、体調が結局戻らず、肺炎で亡くなった。葬式で純子は相当悲しんだが、その数年後、海が子供を授かったと聞いて、一番に喜んでいた。
 今は時間がある時、純子は、お気に入りの椅子に座って孫のセーターを編んでいる。目も遠くなって老眼鏡が欠かせなくなったが、まだまだ活力に溢れていた。私のために料理も、もちろん続けている。だんだん老齢の域に達しているのに、「まだまだひ孫の顔を見ないと死ねない」と笑い飛ばしていた。

 定年退職した私が70歳になった頃、肺に癌が見つかった。まだ小さいものだったので、抗がん剤と手術で乗り切った。だが、脾臓、さらに肝臓にも癌が転移していて、体力のことを考えると、手術は困難であった。今は抗がん剤で何とか生かされているといった感じだった。
 痛みを我慢しながら枕の下に置いていた、すでに赤茶けた幸福の葉書を手に取る。薄くなった家族の名前を上からさらに強く書いた。ミミズが這ったような字体だった。おそらく抗がん剤で生かされているのも、この葉書のおかげだろう。
 だが、いよいよ私の死期が近づいてきていた。自分で自分の最期を確信していた。今は病室で抗がん剤の影響で髪の毛が無くなった状態で寝ていた。そこに時間を見つけては足繁く通う純子の姿があった。兄夫婦も妹夫婦、弟夫婦も顔を出す。
「空と海は……?」
「今仕事中だから、七時ぐらいになるわ」
「純子、言いたいことがある」
 私の声が小さいのと、純子の耳が悪くなってきたせいか、コミュニケーションがいまいち上手く出来ないことがあるが、純子たちは私が唾を飲み込む音が聞こえてくるぐらい近くに寄っていった。
「ここに幸福の葉書がある……。これを大事に扱ってくれ。これは一種の守り神みたいなものだ」
 純子は、小さく微笑みながら言った。
「ああ、その葉書……。その葉書はね、実は昔、私が書いて投函したの」
 私は数瞬瞠目し、言葉をつむいだ。
「……君がくれた幸せだったのか……。私は……、この葉書が無かったら、今は一人で孤独死していたかもしれない。色々な幸福の形というものを君は教えてくれた。人生の半分以上を一生懸命だが幸せに生きてこれたのは、この葉書のおかげだ」
「そう。あなたに色々な幸せの形を味わってほしかったの。あなたの同僚は彼女の有無はどうでもいいと聞いていたから、その葉書がないと私は振られていたかもしれないわ。あなたのことだから、一人で生きていく選択肢もあっただろうし。結婚して子供をつくり、一生懸命働くのも幸せだと思って欲しかったから」
 純子の白内障で白くくすんだ瞳から涙がこぼれていた。
「……最期にこの手紙の投函者に出会えてよかった。いままでありがとう」
 空と海の夫婦たちも駆けつけてきた。「父さんはまだ大丈夫か!」海が聞いてきた。
「まだ大丈夫。話せるほどの気力はあるわ」
 純子が柔らかく答える。
 空と海は横たわる私に近づいてきた。
「空と海か……。病院内では走らないようにな」そう言って微笑んだあと、「孫たちは来てないのか」と問う。
「委員会や部活で抜け出せないそうだ、それよりも父さん、大丈夫か? 何か欲しいものがあったら言ってくれ」
「臨終の際に……、お前たちの顔が見れただけで十分だ」
 空がさっきから泣いていて、何もいえなかった。
「そんなこと言うなよ父さん!」
 海の目にも涙がたまる。
 最期に純子の手を握った。ゆっくりと目を瞑る。
「幸福の葉書のおかげで、幸せだった……」
 それが私の臨終の言葉だった。
「ありがとう、あなた……」
「父さん!」
「お、お父さん……」

 享年74歳。半分以上は駆け足の人生だった。
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