The Anotherworld In The Game.

北丘 淳士

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重圧の昼

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 リビングで朝のコーヒーを啜る母さんに一声かけた俺は、後頭部をわしわし掻きながら、玄関の扉を開けた。昨晩、白昼夢に似た体験をしたせいか、それ以降調子が狂ってトレーニングも勉強も身が入らなかった。
「おっす」
 いつものように門扉の向こうに待つ京香に言うも、平生とは異なる朝の光景に俺の足は、人差し指でかかとを整えようとしたところで立ち止まる。
 京香に対して微妙な間合いを保ったまま栞が立っていた。
「お、おっす……」
「……おはよ、涼」
「りょ、涼!?」
 京香は警戒の色を濃くしたまま、驚きの表情で栞を見た。
「早く行くわよ、涼。あんた歩くのいっつも遅いんだから」
 京香を遮るように栞が口を挟む。
 何かおかしい……。
 俺は昨晩の続きに似た栞の言動に違和を感じていた。挨拶の腰を折られた京香は、栞を睨みながら吐き捨てるように言った。
「ま、真原、登校したければ勝手に一人で行くといい。涼様がお前に合わせて下さる道理は無い!」
「別にあんたに聞いてないわよ」
 半ば呆れた表情で京香を見下すように言った。
 確かに『一緒に登校してはいけない』という道理も無い。
 一発触発の物々しい空気が、日差しの強くなった初夏の閑静な住宅地を覆う。また近所を半壊されたら敵わないと俺は二人に割って入る。
「待て待て待て! 朝っぱらから喧嘩すんなよ。栞も急ぎたきゃ先に行っていいんだぞ」
 一応京香の肩を持った。
 本来なら栞から正拳突きを御見舞いされて終わりなのだが。
「そんなに急いでないわよ。いいから行きましょ」
 栞はいつもと違って柔和に食い下がってきた。
 強い戸惑いに眩暈を起こしそうになりながら、俺はアルミの門扉を閉めた。
 今朝は京香が珍しく俺の隣にやってきて、並んで歩く、というか、「護衛」と称して俺と栞の間に入ってきたのだ。栞は時折煩わしげな表情を浮かべながらも、京香越しに色々と話しかけてきた。
「ねえ涼、またうちの道場に戻ってこない?」
 京香から貰ったコーヒーを飲んでいた俺は、ゆっくりとかぶりを振って、柔かく拒否する。
「そうよね。私が相手じゃ、つまらないもんね」
「そういうわけじゃな……」
 理由を述べようとしたところで、その先を言い澱んでしまった。一連の会話は栞からの一方的な質問だったが、その栞の表情といい俺は時折、物凄い既視感に中てられる。
「そういえば涼様、そろそろあの時期ですね。今週末とは聞いておりますが」
 立て続けに話しかける栞を煩わしく思ったのか、珍しく京香が話を振ってきた。
「あの時期……、ああ、そうだな」
「今年は私も随行しては如何かと、涼様のお義母様からお誘い戴きました」
 京香との意味深な話になにやら不機嫌な表情を浮かべた栞が、当然の如く聞いてきた。
「ねえねえ、あの時期ってなによ!」
「涼様と私の個人的な事なので、真原が知る必要はない」
 京香は凍てついた視線と共に冷たく断ずる。
「あんたに聞いてないでしょ!! 良いから教えてよね、涼!」
「あー、えーと、……今度な」
「今度っていつよ! 涼って面倒くさくなると投げ遣りになるところがムカつく!!」
 頬を膨らませて怒るが、今朝は手を出してこない。やはり何かおかしい。
「それと今度、私も涼んとこの家族に挨拶に行くからね! 御両親の休みの日を教えなさいよ!」
「挨拶して何する気だ」
「それは! ……、えっと、その……、あれよ! あの時期の事についてよ!」
「あの時期のことも分かってないのに……」
 俺は栞に聞こえないように小さく洩らした。
「ああん!? じゃあ今すぐ教えなさいよ!」
 聞こえたのかよ、何て地獄耳だ。
 時折、京香が栞を戒めるが、結局それも火に油を注ぐ。
 この喧騒がしばらく毎朝続くのか――
 そう考えた俺はドッと疲れ、今朝は本を開くことなく銘泉高校の正門を潜った。
 終始警戒の糸を張り詰めていた京香とは2ーB前で別れ、机に向かうまでの短い距離、栞は俺の隣にやってきて最後の質問を投げかけた。
「あの女、一体涼の何?」
 俺はうすうす、ある結論に辿り着き始めていたが、そんな馬鹿馬鹿しいこと在りえない、と、理性がそれを否定していた。
「京香は……」
 答えを言おうとした瞬間だった。
「知り合いか、友達でしょ」
 そう出掛かっていた俺の言葉を先読みしたのか、赤茶色の髪を振りながら栞は自分の席へと歩いていった。
 
 栞は不思議な感覚に襲われていた。昨晩の夢の中での涼の答えが、現実と変わらなかったからだ。
 だが、『私って結構、涼のこと知ってるんじゃない』と曲解していた。涼に関する知識が潜在意識となって夢か判らないものに出てきた、と判断したのである。
 
「お待たせ致しました涼様」
 昼の時間になり、京香はいつもの席に座る。
「やあ、京ちゃん」
「あなたには言っていません。柏原君、早退しては如何ですか? 具合悪そうですよ、耳が」
「ひ、ひどい……、ひどいよ京ちゃん!」
 非難の言葉とは裏腹に、和真の目尻が垂れ下がり喜悦に浸っている感じだ。やはり手遅れのようだ。
「失礼しました、訂正します。……耳が、では無く、頭もでした」
 京香もわざと言っているんじゃないだろうか。
 他愛ないやり取りをどこか楽しみながら萌黄色の風呂敷を解いていた京香の手が、ふと止まる。弁当を持った栞が近づいてきたのだった。
「私も一緒に食べるわよ、涼」
 弁当と紙パックのお茶を両手で可愛く持ち、薄く朱に染まった顔で呟いた。
 それに対し京香は冷淡に突き放す。
「残念だが、手狭なので真原の座る場所はない。自分の席で大人しく済ますがいい」
 京香を睨みつけて栞は吠える。
「だから、あんたに言ってないわよ!」
 ここで喧嘩は止めてほしい。前途ある若者たちが何人犠牲になるのか分からない。
 でも、確かにスペースが無い。辺りを見回した栞は和真の肩を軽く叩く。
「柏原、あんたの机を涼の机と合わせなさい」
 栞は顎でしゃくって指示した。
 栞からの一撃が弱かったせいか、和真は物足りなさそうな面持ちで首肯し、立ち上がって机を動かした。

 空気が重い……。
 京香は一見平生を保っているように見えたが、明らかに栞に対して警戒心と敵意を潜ませている。そして遠くに座る高倉さんと一瞬目が合ったが、彼女はすぐに目をそらした。栞は初めての同席に緊張してるのか、紙パックのお茶を最初に一気飲みしていた。そして焼鮭が幅を利かせた弁当を、新品のような竹箸で突付きながら、発言の切欠を探しているようだった。どうやら登校中に俺に対する質問は出し切ったみたいだ。和真は栞に机を占領され、床に体育座りしたままパンを齧る。
「真原……」
 ふと京香が栞に話しかける。なぜか俺は緊張して思わず背筋を伸ばした。
「……何よ?」
「涼様との交誼を画策しているようだが、叶わぬ願いだ。残念だけど……」
「なによそれ!!」
 栞は机を叩き、牙を剥いて京香を睨みつける。机を叩いた衝撃で、焼鮭弁当と和真が十数センチ飛び上がった。俺も音に慄き身を竦ませる。
 京香は栞の胸元を見ながら言う。
「涼様のお好みはCカップ以上だ。お前のBカップ如きでは御満足させられない。ちなみに私はEカップ……」
 そして自分の胸を殊更に強調しながら、俺のほうを向いて微かに顔を赤らめる。
「待て待て待て! 一度聞きたかったけど、どこで手に入れたんだ俺のそんな情報!!」
「そのような事は、お傍にお仕えしていましたら分かることです」
「何、その洞察力!? 怖い!!」
 俺は思わずつっこんでしまったが、栞を見ると胸を隠してぷるぷる震えていた。
 身を縮めて俺の眉を読み、柄にも無く小さな声で、「ほんと?」とか聞いてくる。
「涼の事で知らないことがあったなんて……」
 そう小さく呟いていた。
 だが、京香とのその会話をニヤニヤしながら聞いていた和真に栞は気付く。
「どこ見てんのよ!!」
 と、鬼の形相で、辛うじて人の目が追える速度の手刀を彼の頸根に放つ。目が反転して崩れ落ちる和真を、俺は唖然と眺める事しか出来なかった。
「ふん! そ、そんなこと、これからどうにでもなるわよ!」
 何をどうしたらどうなるのか、俺は物凄く興味があったのだが、聞かないでいた。
 ただ栞がふと洩らした、『知らないことがあったなんて……』という言葉に俺は、やはりあの事が係わっているんではないかという直感が働いた。
「栞……」
「な、なに?」まだ胸を隠している栞に、俺は小出しに言う。
「水族館」
「へ?」
 栞は凝然と俺を見つめる。
「灯台の見える砂浜」
「えっ! えっ!?」
 栞の目が焦点を失い始め、口がわなわなと何かを言おうとしているが、言葉は出てこない。推論はほぼ間違いないと、俺は確信した。
「桜の木の下……」
 栞は椅子を跳ね上げて立ち上がる。
「なんで!? なんで涼がそのこと知っているの!? ってことは、あの最後のことも……!?」
 栞はパニックに陥ったようで、俺の顔を見た途端、羞恥心やらなんやらが爆発したようだ。幾多の大舞台で戦ってきた鋼の舞台度胸の持ち主が、この場に留まる事を我慢できなかった。
「いやーーっ!!」
 栞はマッハで逃げ出した。
 教室から飛び出ていく栞を、しばし呆然と見ていた京香だったが、俺を見つめる。
「さすが涼様。三言で真原を追い払うなど、御見それいたしました。ところで、その御言葉は私めが使っても有効なんでしょうか?」
「いや……、俺しか駄目だと思うぞ。しかももう使えない……はず」
「……左様で御座いますか。残念です」
 そう呟き、京香は空になってきた俺の皿を奪い取って、胡麻塩のかかった艶やかなご飯と金目鯛の煮物、それと筑前煮をよそった。
 俺はもう食事どころではなくなった。今後の栞との接し方もそうだが、なぜ二人して同じ経験をしてゲームの中で自我をもって行動していたのか。あの幻かと思える中の強制的なルールは、何が理由で、誰の手によって構築されたのか。昨日の事実をどう捉えていいのか混乱してしまい、現実の煮物の味が解らなくなってしまった。

 しばらくして栞は戻ってきた。顔を真っ赤にしたまま、何事も無かったふうに武骨な箸を握る。
 その様子を京香は注意深く見ていた。そして耐え切れず俺に問う。
「涼様、真原と何かあったのですか?」
「うーん……」
 俺も顔が赤くなっていただろう。真実をあやふやにしようと思っていた瞬間、ここぞとばかりに栞が答えた。
「デートしてキスしたのよ。昨日の夜」
「はぁ!?」
 京香が珍しく頓狂な声を上げた。
「栞、あれはデートとは言わないだろう」
「いーや、昨日のことは全部デートでしょ!」
「……うん、まあ」
 そう押されると俺の言葉の切れも悪い。
「本当なんですか、涼様!?」 
 俺は京香の顔を見ることができず、小さく頷いた。

 京香は無言で昼食を片付けた。よほどショックだったのだろう、いつもならたおやかに動く片付ける手が微妙に震えていた。
 和真は気を失っていた時間はもちろん、昼食の時間の記憶も失っているようだった。人智を超えた真原の技に、俺は閉口した。
 栞は恥ずかしいのか、顔を強張らせて昼以降まったくこっちを見ない。俺も釣られて緊張してしまい、午後の授業が全く身に入らなかった。
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