エスケープ

北丘 淳士

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よすが

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  俺たちの身勝手な行動の代償は大きかった。俺と幸恵、稔は半月ほど独居房に入れられ、反省の日々を過ごした。俺たちは、『どうやって病院を抜け出したのか』と執拗に看護師に聞かれたが、幸恵のサヴァン症候群については絶対に言及しなかった。『たまたま扉が開いていた』と繰り返した。逃走の所持品を見れば、計画的であったことは確かなのだが、幸恵のために頑なに真実を暗渠に閉ざした。
 そして内科、精神科の共同デイルームを分離。内科と精神科は完全に切り離された。独居房を出られたとしても、もう清美と話をすることが出来ない。清美の携帯番号を聞いておけばと後悔していた。
 さらに病棟のセキュリティーの強化。もうバーコードなどという前時代のシステムは最新のそれととって変わった。
 俺たちは半月で独居房から出たが、デイルームで俺たちが集まるときは必ず看護師の監視がついた。俺たち三人は、以前のように談話やゲームなどで無聊をつぶしていたが、俺は笑顔が少なくなったと感じていた。これは後で聞いたのだが、稔と幸恵もそう感じていたらしい。
 俺は、清美が俺に残した最後の言葉を、ちょっとした合間に思い出すことが多くなっていた。清美の病気は不可逆性だ。畢竟、快復しない。だが最後の流麗な清美の声は、俺の耳にしっかりと残っている。そして自問自答していると、同情と思っていたものが愛情だったことを確認させてくれた。清美に会いたい、そう思うことが次第に多くなった。

 俺たちは、ほぼ同時に太田病院を退院した。脱走したことを猛省し、品行方正に過ごしていたからか、それとも問題児を排斥したかったのか、半年で退院することが出来た。清美はまだ内科で入院しているのかさえ分からない。
 退院の際、香川から出てきた両親が付き添う隣で俺は「ご迷惑をおかけしました」と、脱走当時、巡回の担当だった看護師に深々と頭を下げた。
 看護師は「もう戻ってくるなよ」と、恨んではいないといった感じで柔和な笑顔を見せた。
「ええ、多分大丈夫です。……多分」
 父が運転するレンタカーを、その看護師は病院から出るまで見守ってくれた。

 退院したことを、俺より先に退院した幸恵と稔、それに清美にもメールを送った。幸恵と稔からは返事が来たのだが、清美からの返信はなかった。幸恵からのメールには清美の母親から返信が来たと書いてあった。そして当然、三人でお見舞いに行こうという話になった。

 梅雨の晴れ間に初夏の兆しが強くなってきた頃、横浜駅の東口で二人と待ち合わせした。短かい幸恵の髪が脱色され、表情も少し明るく感じた。人混みが苦手だと言っていた稔は、少し人混み酔いしたと言っていた。久しぶりの再会で握手した俺たちは、近くの生花店で花束を見繕ってもらい、幸恵はそれを手にして、東口のロータリーでタクシーを拾った。幸恵と清美の母親は時々メールをしていたらしく、病室も聞いていた。
「武一さんと俺にはメールが来なかったんっスけど、清美さんのお母さんは俺たちを恨んでいるんスかね……」
 タクシーの中で後部座席に座る稔がつぶやく。
「そうなの? ……うーん、そんな感じじゃないような気はするんだけどね」
「それならいいんスけど」
「でも、清美本人がメールを返せないってことは、病状が悪化しているんだろうね」
 タクシーの助手席に座る俺は、懸念しているそれを言った。
 それは幸恵も思っていたようだったが「とりあえず清美ちゃんの顔を見たいわね」と俺たちの気持ちを前に向かせた。その心遣いに俺は「うん」と短く返した。
 国見病院は竣工したばかりのようで、前面ガラス張り、海が望める十五階の瀟洒なビルだった。その八〇六号室に清美が入院しているとのことだった。床のリノリウムは、土足で入るのを憚られるほどまだ真っ白だった。
 俺たちは八階のナースステーションで見舞い客の用紙に名前を書いて、六号室の扉横にあるチャイムを押した。その病室から「はい、開いてます」と初老の女性の声が返ってきた。おそらく清美の母親の声だろう。扉の握り手に手をかけた俺は、少し躊躇して間が開いたが「失礼します」と言って吊るし扉を横に引いた。その部屋は八畳ほどの個室だった。入ると清美の母親が剥いている桃の香りがほのかに香ってきた。清美の母親と目が合う。
 俺は緊張して、何を話すべきか躊躇していると、清美の母親が表情を崩し、口を開いた。
「お見舞いに来てくださって、ありがとうございます。清美を海に連れて行ってくれたそうで、とても感謝しております」と意外な言葉がその口から出てきた。
「いえいえ! こっちこそ清美さんの病状は聞いていたのに、無理に連れ出してしまいまして、大変申し訳ありませんでした」
 俺は深く頭を下げた。稔も俺に続く。
「すいませんでした」
「頭をお上げください。私は感謝しています。清美は……、私たちが高齢出産で授かった愛娘でした。そして彼女の希望でイギリスに留学させたのですが、まさかそこでこんな大病に罹って帰ってくるとは思ってもみませんでした。それ以来、清美は私たちにより気を使うようになり、太田病院で静養させたのですが、清美が海に触れてみたかったとは話さなかったのです。ですが貴方達が清美の望みを叶えてくれた。それで私はとても感謝しているのです。もうこのような状態になったのですが……」
 そう言われて、俺は清美を見た。彼女は俺たちの存在に気付いてない様で、リクライニングベッドに身体を預け、顔は窓の外の海を向いていた。
「もう……会話も出来ないんですか?」
「ええ」
 彼女の母親は、剥きかけの桃をテーブルの上の皿に置き、彼女を見た。
「本当は日々不自由になっていくこの姿を、男性に見られたくないと言っていて、私は小林さんと大楠さんにメールを送らなかったのです。心配させて申し訳ありません」
 清美は相変わらず海を向いていた。壊れていく彼女から目を反らせたかったが、俺はぎゅっとこぶしを握る。
「清美さんと、対面しても大丈夫ですか?」
 清美の母親は逡巡していたようだったが、「ええ」と短く答えた。
 部屋の隅に重ねられた木椅子を手にとった俺は、海を向いている清美の前に行き、清美の視界に入るように座った。彼女の顔は薄く化粧がしてあった。おそらく今日来る俺たちのために、彼女の母親が施したのだろう。チークがうっすら紅がかっていた。
「あ、これお見舞いの御花です。花瓶はありますか?」
 幸恵が我に返って動き出した。稔は少し顔を伏せたまま、邪魔にならないようにベッドサイドで見守っていた。
 清美の目の焦点が海に向けられていたが、俺はその間に入って彼女の目を見た。彼女の焦点が俺に向けられた気がした。
 俺は彼女の母親に聞く。
「お菓子を一つ、食べさせてあげてもいいですか?」
 彼女の母親は小さく優しく頷く。
 持ってきたトートバックから、俺は彼女が良く食べていたDARSを取り出し、一粒、半開きの彼女の口に入れた。するりと一粒のチョコは彼女の口に入る。彼女はゆっくり咀嚼をしているようだった。やがてグロスを塗った彼女の唇から、溶けたチョコが糸を引いて落ちていく。俺は一瞬、目を背けた。壊れた彼女を見たくなかった。すると母親がハンカチを取り出し、そのチョコをぬぐう。彼女に目を向けた俺の目には、彼女の口角がうっすら上がったように見えた。
「好きだよ、清美ちゃん」
 もう、この声は清美に届かないのは分かっていた。だが言わずにいられなかった。花瓶に花を挿し終えた幸恵と稔、それに彼女の母親がいるのにもかかわらず、その言葉は伝えたいと思った。俺の言葉に、他の三人は特に驚くこともなかった。八畳の個室は静謐に包まれる。やがて俺たちは時間も短く、彼女の病室を後にした。

 清美は夭逝した。冬の寒さが本格化してきた頃だった。

 清美の葬儀の後、俺たち三人は喪服のまま、清美が初めて戯れた海に来ていた。白くなった流木に腰を下ろし、清美と来たときよりも白波が荒くなっている海を眺める。喪服の上から羽織ったダウンジャケットの隙間から、内の温もりが冷たい外気によって追い出される。俺はさらに身を縮めた。白く泡立った波が、ベージュの砂浜を洗う。稔が吐く紫煙も海風にかき消される。
「俺も清美さんが海で楽しむ姿が見たかったっス」
 稔が煙草を携帯灰皿で消しながらつぶやく。
「ホント。私もナルコレプシーを恨むわ」
「ああ、本当に楽しそうに遊んでいたよ。みんなにも見て欲しかった。みんなのおかげで彼女は、清美ちゃんは願いを叶う事ができた」
 当然、清美は二十三で亡くなることは不本意だったに違いない。高科友利ももちろんそうだっただろう。だがそれに対して、俺はまだ未来のある命を自分で閉ざそうとしていた。生きたいと願っている人が逝き、逝きたいと願っている人がまだ生きている。この容赦無く甘い世界を一時恨みかけた。だがそれでも時間は流れていく。自分の心の中で、生きることが二人が存在した意味を持たせ続けることが出来ると、ようやく感じることが出来た。周りには多大な迷惑をかけたが。
「俺たちが、清美ちゃんを海に連れ出したのは良かった事だったのかな」
 ふと一人ごちるように俺は口に出した。もう答えは出ているはずなのに。
 その言葉に幸恵は立ち上がる。
「大丈夫だよ。入院していたときの清美ちゃんは、とても嬉しそうだった。うん……、武一君、大丈夫、大丈夫だから」
 と、波打ち際に向かって歩き出した。女の子どうししか分からない何かがあるのだろう。だが、はっきりと口に出してくれたその言葉に、俺は改めて救われた感じがした。
「また清美ちゃんの月命日に、三人で会おうよ」
 そう言った幸恵は、ゆっくりと波に近づく。ひときわ長く押し寄せてきた波が、幸恵の革靴の底を洗う。
 二人の愛する人を失くしてしまったが、まだまだ俺には時間がある。いつ尽きるか分からないけど。
「生きよう……二人の分まで、逃げずに」
「はい?」
「いや……、独り言」
 俺の決意は冷たい風に運ばれ、この曇天を突き破り空の二人へと届いただろうか。俺は波とたわむれる幸恵の姿を清美に重ね、黙ったまま眺めていた。
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