エスケープ

北丘 淳士

文字の大きさ
上 下
6 / 7

エスケープ

しおりを挟む
 肩にやさしく手を置いた俺を、清美は振り向き目を丸くして見つめる。
「彼女に何か用ですか?」
 俺は暴れる心臓と肺を必死で堪える。警察が清美に近づいたので慌てて走ってきたためだ。
「彼女は人見知りが激しいので、私が聞きますよ」
 警官は「男女三人組を見なかったかな?」と俺の目の奥を見て聞く。
 警官から目をそらさずに俺は出来るだけ自然に、「いやー、見てないですねー」と答えた。
「幸子は?」
 清美の方に俺は目を向ける。
 幸子ってだれだろうと思ったのだろう。だが彼女は清美の名前を出すと一発でばれることに一瞬で気づいたようだ。さすが聡い。清美は慌てて首を振る。
「見てないようです」
 俺は警官に笑顔で答えた。
 怪訝そうにしていた警官は、急に優しい目に変えて言った。
「男二人、女一人を見かけたら一報ください」
 軽く会釈して、後は急いで自転車をこいで去っていった。
 俺は清美が職質を受けた場合のために、途中から三十m程後ろに控えていた。
「危なかったね」
 俺が言うか言わないかの時に、清美は抱きついてきた。
「おああった」
 拙い言葉で泣きながら言う。「怖かった」と言いたかったのだろう。
 俺は清美の髪をなでて落ち着かせた。彼女はすぐに落ち着きを取り戻したので、肩を掴んでゆっくり離した。
「さあ、シーサイドモールへ行こう。稔が追いついてしまう」
 泣いて顔を伏せたままの清美は、慌てて涙を拭きながら、俺の手を握ってきた。
「一緒に行きたいのかい?」
 清美は目を拭いながら首肯した。よっぽど怖かったらしい。俺も清美の手を握り返した。
「行こうか、幸子」
 その言葉に清美は思わず笑って、滔々と流れていた涙が止まった。
 清美は俺の手を離さないで、歩き出した。シーサイドモールの観覧車がもう近くに見える。このまま無事に、3人ともシーサイドモールに着けば、海岸線はもうすぐだ。
 シーサイドモール前の交差点で稔と合流した。稔はやや早足で向ってきていたようだ。
「上手くいったっスね」
 稔はうれしそうに言う。
「もうこのままどこかの空き家で生活しませんか?」
 俺はその冗談で夢みたいな話に、しばらく本気で考えた。このまま病院に戻ると、確実に俺と稔は独居房に監禁される。清美は病室で、これまた監視つきだろう。おそらく清美が病没するまで。いくら不治の病だといっても、清美がやりたい事も出来ないのは黙っておけない。
「……そうだな、どこかの空き家で生活するのも良いかもしれない」
 そうつぶやいた時、スクーターに乗った警官が歩道に乗り上げ、俺たちの行く手を阻むかのように停まった。
「お前たちだな、大田病院から脱走した三人組っていうのは」
 警官がスクーターのスタンドを立て向かってきた。
 そのとき俺と清美の後ろから稔が飛び出した。若干小太りの警官に体当たりしたのだ。二人はそのまま歩道脇に生えた低い街路樹にメリメリと音を立てて突っ込む。
「早く行ってください、ここは俺が止めますんで!」
「お、おい、何をする。公務執行妨害だぞ!」
 ちょうど目の前の信号が青になった。俺は清美の手を掴んで、走って横断歩道を渡り、左折した。そして海岸線を目指した。
「稔、すまん!」
 俺は清美の手を掴んだまま、彼女が倒れないよう様子を見ながら出来るだけ早足で走った。
 海岸に降りる階段まで百mほどありそうだ。ランニングサークルに入っていたときは、大したことのないその距離が、清美の手を引っ張っているため、今は異様に遠く感じる。すると正面からパトカーが走ってきた。身を隠す場所がない。だが止まってられない。
「清美ちゃん、パトカーを見ないで!」
 パトカーを意識すると、逆に怪しまれる。運良くパトカーは俺たちを横目に通り過ぎた。
「ほんの百mがこんなに遠いなんて」
 清美の手を引きながら俺はつぶやく。
 清美の手を引いたまま走る俺は、まだ考える余裕があった。
 俺は今まで色々なものから逃げていたんだ。逃げるということは悪いことではない。だが今になって思う。死が迫ってきているのに努めて明るくふるまう清美を見て感じていたのだ。
 地元の香川県から。家族から。人とのつながりから。仕事から。病院から。警察から。そして、人を愛するということから。逃げれば逃げるほど後ろが無くなっていく。
 必死に前に進んでいたつもりだったが、どこか自分の人生の前後左右が分からなくなり、自分で勝手に作ったルールが自分を苦しめていた。今も走って逃げている。だが清美の手を引っ張るこの手は離すまいと強く思いながら。今は海に向かって進んでいる。清美が見たいと言っていた海に向かって走っている。
 清美の足取りが怪しくなってきた。
 海は防波堤に阻まれて、まだ見えない。だがやがて右手に防波堤が見えてきた。海の香りが強くなり、俺の鼓動がさらに速くなる。あとは海岸に下りる階段にたどり着くだけだ。海岸線は右に湾曲している。三十メートル程先に海岸へと下りる階段を見つけた。彼女の息は荒く、おそらく限界を超えて走っているのだろう。そして足を震わせながら海に下りるため階段を下る。まだ浅黒い海が俺たちを迎えた。俺にとって久しぶりの海だった。
「海は初めて?」
 息を整えながら聞く。
 しばらく海を眺めていた清美は振り返り、笑顔で大きく頷いた。呼吸も落ち着いている。イギリスに行った時に、飛行機から見ているのだろうが、間近に見たのは初めてなんだろう。階段を下った清美は、まだ胸を押さえていたが、すぐにスニーカーを脱ぎ散らし靴下も脱いで、波打ち際で波とたわむれた。
 先ほど通り過ぎたパトカーが戻ってきたようだ。サイレンの音が大きくなってくる。
 目的は果たした。もう捕まってもいい。俺はこの後のことは考えず、そう思った。そう思って清美から一瞬目を離した時だった。波打ち際に彼女が倒れていた。
「清美ちゃん!!」
 俺は驚き駆けだしていた。そして清美の隣にしゃがみこんで半身を抱える。
「大丈夫か、清美ちゃん!」
 清美は小さく頷いた。意識はしっかりしているようだ。
「今すぐパトカーか救急車を呼んでくるからな」
 スマホの存在を忘れ、そう言って走り出そうとしようとしたら、彼女は俺の裾を掴んだ。
「大丈夫。ちょっとめまいがしただけ」
 奇跡かのように清美の言語障害が治まっていた。初めて聞く彼女の自然な声は見た目通りか、とても澄んでいた。
「あれ……? 話せる……」
 こういう時、下手に動かしたらいけないのだろうが、俺は清美の半身を抱きかかえ、彼女の反応を見ていた。
 自分の事にびっくりした清美は、すぐに笑顔になって俺に言う。
「武一君、いつも私に優しくしてくれてありがとう」
 俺の袖を強く掴みながら言葉を続ける。
「私の口から言いたかった。武一君……、好きです。上手に話せてよかった。私のことを……、忘れない……で」そういった後、彼女の意識がゆっくりと閉ざされた。「清美ちゃん! 清美ちゃん!!」
 俺は清美を覚醒させようと揺するも、目は閉じたままだ。
 ちょうど堤防に警官が見えた。
 波の音に負けないよう、ありったけの声で叫んだ。
「救急車を呼んでください!!」
 海岸に降りようとしていた警官は俺の言葉が分かったようで、スマホを取り出し、会話を始めた。おそらく救急車を呼んだのだろう。そして、ゆっくりと近づいてきた。
「君たちだね、大田病院から脱走したのは」
 俺は彼女の顔から目を離し小さく頷いた。
「詳しい話は聞いている。大楠君と平田君は、病院に戻ってもらう。親御さんにも連絡はいっている」
 俺と稔のことだ。   
 その警官は清美の脈と呼吸を診ながら言う。
「何か言っておきたい事はあるかい?」
「清美ちゃんは、高橋清美はどうなるのですか?」
 しばらく顎を摘まんで沈思していた警官は、俺の焦りを抑えるかのように、ゆっくりと口を開く。
「おそらく彼女は、親御さんの判断に委ねられることになるだろう」
「彼女は、彼女は治らないのですよ! せめて普通の人間らしい権利を与えてください」
 その警官はしばらく海を見て黙考していた。
「わかった。病院と彼女の両親に言っておこう」
 警官は俺たちに視線をよこし微笑みながら言った。
「それだけは……、それだけは、どうかお願いします」
 俺は深々と頭を下げた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

憧れの先輩とイケナイ状況に!?

暗黒神ゼブラ
恋愛
今日私は憧れの先輩とご飯を食べに行くことになっちゃった!?

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

アスノヨゾラ哨戒班

古明地 蓮
現代文学
これまた有名曲な、アスノヨゾラ哨戒班と、キミノヨゾラ哨戒班を元にした小説です。 前編がアスノヨゾラ哨戒班で、後編がキミノヨゾラ哨戒班になります。 私の独自の解釈ですので、そのところはよろしくお願いします。

本当の価値を知る夜

小川敦人
現代文学
「夢に映る希望の灯—菜緒子の微笑みと隆介の目覚め」 夢の中で出会った温かなNPOの世界。目覚めた隆介は、菜緒子の言葉を胸に、自らの価値と向き合い、一歩を踏み出そうと決意する。

【ショートショート】おやすみ

樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
恋愛
◆こちらは声劇用台本になりますが普通に読んで頂いても癒される作品になっています。 声劇用だと1分半ほど、黙読だと1分ほどで読みきれる作品です。 ⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠ ・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します) ・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。 その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。

~The Tree of Lights~

朱夏
現代文学
猫を連れた隠者は森をさまよう/ 木々の言葉/鳥の言葉/ もういない生命のうた/ 永遠にある魂のうた/ 呼びかけるこえ──あなたに、わたしに

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

日本人としての使命を果たす【2045年問題】

すずりはさくらの本棚
現代文学
日本における「移民のおもてなし」 出島以降の移民に対するおもてなしが世界的に厳しい日本国 また、日本としての使命を果たすでは2045年問題を扱います。

処理中です...