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ツバと泥

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山口県坐骨ざこつ市には、海沿いを走る廻骨陰線かいこついんせんという在来線の路線がある。

私は、北西部に位置するとある無人駅を利用する。

毎朝、午前7時前に小さなプラットホームに並ぶ。

私の他にも割と客は多く、高校生や、背広を着た社会人、公営ギャンブルの新聞を持った老人などが立って電車を待っている。

その中でも、私が「つばマン」と呼ぶ男がいた。

知り合いでもなんでもない。その男のとある仕草が私は不快で、注意するわけでもないが気にしていたのだ。

男「つばマン」は、電車が来る10分前ほど駅の出入り口付近でタバコをふかす。
そして、おもむろに栄養ドリンクを取り出して、ごくごくと飲み干す。

プラットホームへやってくる。

べつにここまではいい。
駅の出入り口でタバコを吸うのも、法律違反ではない。
プラットホームで吸うワケでもない。

だが、ホームにつばマンが入ってくると、それは始まる。

つばマンは、なぜか線路に向かって、何度も何度もツバをはくのだ。

タバコと栄養ドリンクの後味を口内から追い出そうとしているのだろうか。

1度や2度ではない。
何度も、列車が来るまで繰り返し線路にツバを吐く。

私は鉄道愛好家でもないし、鉄道会社の株主でもない。
だが、男の品を欠いた毎日のツバ吐きには、大変閉口した。

だから、私は「つばマン」と勝手に名前を付けたのだ。
つばマンにとっては、これが出勤前のルーチンなのかもしれない。

保線作業員が心底気の毒に思えた。

ある日、私は近所の年寄りから駅についての話を聞いた。

この駅は数十年前近隣住民の要望によって建てられたらしい。
建てる際は、非常に交渉が難航したそうだ。

なんでも、もともとこの土地一帯は蓮畑で、一面泥沼だったらしいのだ。
地面が緩くて、鉄道や駅の設置にそぐわないとのことだった。

だが、地域の老人たちは粘った。
蓮畑はあるが、鉄筋ビルも、アパートも住宅地も周囲には建設されている。
適切に建設し、この地の主を怒らせねば大丈夫なはずだと…

「この地の主というのはね、泥田の主さね」老人は言った「言い伝えじゃがね。罰当たりなことをせず、大切にしとったら、ご利益がある」

私は笑顔でその話を聞いた。
鉄道会社はその「泥田の主」を信じて建てたのだろうか。
老人は柔和な顔を、突然引き締めて言った。

「じゃが、罰当たりな事をすると…恐ろしい事になるらしい」


またある日の夜、私は老人の言葉を思い返しながら帰路についていた。
電車に揺られ、暗い街を過ぎ無人駅へ戻る。

「泥田の主」
本当にいるのなら見てみたいものである。

駅に到着し、私は驚愕した。
いつもなら、自動電灯がついているはずのホーム、駅舎が真っ暗なのだ。

ワンマン電車を運転してきた運転手が車内放送で言った。
「ただいま、原因不明の停電で当駅の電灯が消えております。足下にご注意ください。ご迷惑をおかけし、まことに…」

仕方ない。
私はスマホの明かりをたよりに電車を降りた。

すると、私の他に降りた客が一人。
顔は見えないが、うす暗いシルエットから「つばマン」だと分かった。

今日は帰りも一緒になってしまったのだろう。
私は携帯をポケットにしまう。

電車は、早々に去っていった。

あたりは真っ暗だ。

私はホームから出ようとした。

「ぺっ」と音がして、後ろを見ると、暗闇の中でつばマンがまた線路にツバを吐いていた。

「うわっ、またかよ、あのおっさん」私は思った。
うんざりして向き直ろうとしたその時だった。

人の背丈は軽く超えるであろう、巨大な腕が、線路の方から伸びた。
さながら、ショベルカーのような腕であった。

腕はすばやくつばマンを掴んだ。

「うううわっ」
つばマンは苦しそうなうめきと悲鳴をあげた。
私がつばマンの声を聴いたのは、それが最初で最後だった。

巨大な黒い腕は、つばマンを荒々しく、ツバが吐かれた線路の方へ引きずり込んだ。
線路は、私から見てホームの縁で隠れて見えない。

私は恐怖で動けなかった。

ただ、茫然と、引きずり込まれた辺りを…ホームの縁を通して見つめていた。

5分くらいだろうか
何も起こらなかったので、私は心配になり、引きずり込まれた線路の方へ近づいてみた。

つばマンは倒れているかもしれない。

私は、ホームの縁から、線路を覗き込んだ。

線路は暗く、二本のレールが月明りをわずかに反射して鈍く光っている。

それ以外は…暗い深淵のようだった。
枕木が、異形の剥き出しの歯にすら見える。

だが、つばマンはどこにも倒れていなかった。

私は、携帯を取り出しライトをつけてみた。

そして、身震いした。
ライトで照らした線路には、蓮畑のような大きな濡れた泥が広がっていたのだ。

泥はつばマンが立っていた位置まで…あの巨大な腕が伸びた軌跡どおりに…点々とホームにたれていた。

私は恐ろしくなり、走って駅から抜け出した。

それ以来、つばマンを見かけることはなくなった。


【おわり】
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