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畑の井戸

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ある農家の老人の話。

老人は畑を持っていた。
親から引き継いだ畑だった。
先祖から引き継いできたという理由だけで、老人も手放すことはできなかった。
ただ、老人自身はこの畑を手放したかった。

理由は井戸だった。
畑の真ん中には、ぽつんと井戸がある。
普段は蓋を閉じていて、近所の子供などがいたずらで落ちないようにしている。

老人が生まれる前、老人の父がまだ赤子だったころ、ある事件が起きたらしい。
人が井戸の中で死んでいたのである。

井戸から悪臭がし始め、集落で騒ぎになり、曽祖父が井戸さらいをしたところ死体が発見された。
黒い蝋のように肉が溶け、うじが湧き、半分は骨だったそうだ。
曽祖父は、暗闇で死体と向き合い、恐怖で数日寝込んでしまったそうだ。

遺体を検めた警察や医師により、20歳代の女性であると特定されたが、ついに身元は分からなかった。

当時集落から数十分の距離に、駅や漁港のある街があった。
限界地方の数少ない経済的要所だ。
街のはずれには花街もあった。
時代が時代であったため、不遇な女性もいた。
花街で働き、病気をして、脳が病に侵され廃人のようになって徘徊する……
そんな人もままいた。

よって、井戸に落ちていた女性もその類のものだろうとのことだった。

それから、井戸では「女性の姿」を見かけるようになったという。
死体を発見した曽祖父は、「井戸をのぞくと、あの女がいる」といって畑仕事をする時も井戸に近づかなくなった。

父の代になり、父が畑仕事をしていると、井戸の縁から女性が顔を出していることがあった。
「帰る場所を探しよるんかなあ」父はそういった。
家族内で気味が悪いから、畑を手放そうという話にもなった。
だが、手放すと「見捨てられた」と逆に祟られるのではないかと手放すことはできなかったという。

何度も寺や神社の人間に祈祷などしてもらったが、女が消えることはなかった。

老人が大人になり、畑を引き継いだ。
やはり女性は出た。

今度は井戸から外に出て、井戸のそばに立っていたりするそうだ。
「だんだんと、井戸から離れてきてるんだ」
老人は言った。
「こないだは、枯草の中に人の目があってな。こっちをじいっと見てた。もう井戸から出て、外に出て来たんよ」

老人はため息をついて言った。
「この女がどこにいくつもりかは分からん。代々引き継ぐたびに井戸から出てきていた。だから、わしは結婚しなかった。もし、わしの子どもに引き継いだりしたら、あの女は何をするか分からんでな。でも、この畑もわしの代で終わり。跡継ぎもおらん。わしが死んだら、女はどうなるんかな。畑と一緒に消えてくれりゃあいいが……」

最後に、老人はぽつりとつぶやいた。
「最近、女は畑の境界から道路に出てることがあるんよね……」

【おわり】
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